かい取り


開高健の「破れた繭」という自伝に川をせき止めて「掻い掘り」をしてフナやドジョウやナマズをつかまえる、という記述がある。
私の地方ではこれを「かいどり」と言った。言った、というのは今ではそのような小川がほとんどコンクリートで固めた溝になってしまっており、また魚もいないから、「かい取り」という言葉自体が死語になってしまったからである。
かい取りができたのは私が小学3、4年生の頃までであった。当時はすでに柿や梨の果樹園や水田に撒く強力な殺虫剤のため、流れの緩やかな小川や池から魚が姿を消しはじめていた。
魚だけではなくシジミ、カラス貝、タニシ、毛蟹、川エビ、ミズスマシ、ゲンゴロウ、ホタル、カエル、カメなど多くの生物が絶滅寸前であった。
かわってやたらに増えたのがエビガニ(アメリカザリガニ)だった。そのエビガニもやがて消えていった。
子供がかい取りをしたのはたいてい水田の間を走っている幅がわずか4,50センチの用水路であった。前後2,3メートルのところをせき止め、バケツで水を汲んで下手にかい出すのである。
目星をつけた現場に着いて、まずやらなければならないのは水をせき止めるための「ダム建設」である。そのあたりを走りまわって、棒杭、古ムシロ、板切れなどの「建材」を確保して、泥底に埋めたり、積み上げたりする。
さらに、土手に生えた草を引き抜いて積み上げる。草のまわりには泥の塊がついているから崩れにくいのである。この前準備に時間がかかる。
それから水をかい出すのである。かい取りで一番大切なことは、これら一連の作業を手際よく進めることである。水田のあぜや用水路がくずれたりするので、大人に見つかるとやっかいなことになる。
土手をくずすなよ、ぐらいの注意ですむこともある。そういう寛大な人は自分も子供のころ同じことをやった人にちがいない。
しかしそこの水田の持ち主に見つかるとまちがいなく、即刻ダムの破壊、撤去を言い渡される。あぜがくずれたりすれば、水田の水が一挙に流れ出てしまうからだ。
すべて短時間のうちに大急ぎでやらねば成らない。たいてい二、三、人で交代して水をかい出す。のんびりやっていると、上手の方の水量が増してきて、やがて堰が切れてしまうということもある。
水を干し終わったら、泥底を手で探ってつかみ取りである。取れるのはフナ、ナマズ、ウナギであった。
かい取りには仕掛け、餌、時間、水深、水流の早さ、などを考慮するという知的要素(ちょっと大げさだが)が入りこむ余地がまったくない。あるのは場所の選択のみである。そこに魚がいれば、まず、まちがいなく取れるし、いなければ徒労に終わる。水を干した時点で丁が出るか、半が出るか、そんな遊びである。

大人もかいどりをやった。
ただし大人が野良仕事を休んでやるぐらいだからスケールが違う。おおきな池を一つ干してしまうのである。
私の実家があるあたりには、「一反堀」とか「二反堀」とか呼ばれる池がいくつもあった。老人たちの話によると、明治時代に東海道本線の盛り土を確保するため田んぼを掘って土を取り、その結果できたのがそれらの池であるということであった。
池一つ干すのにバケツでくみ出すわけにも行かない。
発動機と排水ポンプが使われた。
発動機というのは内燃機関、つまりエンジンである。当時、農作業に使う脱穀機などには内臓のモーターやエンジンはなかった。動力源としての重油発動機を動かしてその巨大な動輪と末端の機械をベルトでつないで連動させたのである。
どこかの池をかいどりするらしいという噂は当日までに確実に村中に知れ渡る。
ドン、ドン、ドン、、、発動機の重々しい響きが野に流れるころには子供たちが見物につめかける。
大きな池のかい取りはたいてい二、三家族が組んでやった。直接関係のない者は、大人も子供も見物にまわるのである。やがて、見物人も一人、二人と帰っていく。水を干し終わるのには一昼夜かかるのだ。
翌日、池が干しあがるころになるとまた見物人が集まってくる。
池のまわりの浅い部分はすでに底が見えており、中心部の深いところには濁った泥水がたまっている。やがて排水ポンプがそ以上水を吸い上げることができない水位になる。
大きなフナやコイがが背ビレを水面上に出してバシャバシャ逃げ回る。当該家族の女、子供が池の中に入り、フナやコイのつかみ取りをはじめる。男たちはさらにバケツで残った水をかい出し、泥底をさぐってナマズやウナギと格闘をはじめる。
リヤカーには大型のタライがいくつも積んであり、バケツに入れた魚が次々に運ばれてきてタライを満たしていく。
見物人は羨望の眼差しでこれを見守るのである。

2002年04月28日 13時06分30秒

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