テイラー釣り
最近パース近辺の海で激減した魚のうちにテーラーがある。
アメリカではブルーフィッシュの名前で知られている。日本ではあまりなじみのない魚であるが、大阪の「週刊釣りサンデー」発行の「新さかな大図鑑」にはアミキリの名前で載っている。歯が鋭く、魚網さえかみ切るという意味あいでそんな名前がついたのではないかと、私は推測している。
身体の大きさに比較して遊泳スピードが速いという点ではおそらくこのテーラーがチャンピオンであろう。
小魚を捕食するのはサバ、カツオ、サワラ、ブリ、マグロ、カジキなどに似ているが、体型はマグロなどのような筒型ではなく側扁している。
流線形の優美な姿形に似ず、性質は獰猛である。餌の小魚は丸呑みにするのではなく、かならず後ろ半分から三分の一あたりをスパリと噛み切って食べる。
ワカサギに似たホワイトベイト、カタクチイワシ、ウルメイワシ、ホンバイワシ、サヨリなど表層の小魚の群れを追う。
食餌は日本のスズキと同様で朝夕のまずめ時である。そしてたいてい岸に近い浅場である。食い散らした小魚の残骸、つまり、前部の方はゆらゆら海底に落ちながら匂いを撒き散らす。
するとテーラーはますます興奮する。
荒れ狂っているテーラーの下にはヘダイ、大ゴチ、ヒラメなどが待ち構えていてそのおこぼれをむさぼり、さらに餌の匂いを撒き散らす。
したがって釣りの場合もできるだけ大勢が一箇所に集まってワイワイ大騒ぎしながら、派手にやった方が群れが散らないという愉快な釣りである。
自分一人の場合はあらかじめ切り刻んでおいたイワシを時々ばらまいて撒き餌にすればよい。
私がオーストラリアで最初に釣った魚がこのテーラーであった。


日豪経済合同委員会の交換派遣教員として渡豪し、二年の契約を無事終えた後、私は引き続きパースに留まる決意をした。現地で豪州女性と結婚をしたのがその理由の一つである。
いま一つの理由は日本を去る際、それまで奉職していた某県、県立高校を退職していて、帰国しても必ずしももとの高校にもどれるかどうか
確証がなかったからである。
渡豪に際し私は県教育委員会に二年間の休職を願い出たのであるが、県教委の返事は官僚主義そのもので、まことにそっけないものであった。
個人的な理由で二年間もの休職を許した前例がないこと、またそのような規定がないこと、交換制度そのものが県教委と直接関係ないこと、の三つを理由として、退職していただくよりしようがありませんな、ということなのである。
東京商工会議所内に本部を置く日豪経済委の方では、そんなことでは将来行く人たちにとっても励みにならないからということで、交換制度の意義を県に伝えるなど手を尽くしてくださった。
私自身は全国から三名の派遣教員の一人として選ばれたという誇りもあったし、また、渡豪経験が帰国後かならず英語教員として役立つと確信していた。しかし、県教委の返答はあくまで、前例がない、の一点ばりであった。
私は退職して渡豪するより道はないとほぞを固めた。
そんな訳で、二年の勤めを終えた後、帰国してもすぐ再就職できるあてもなく、しばらくパースで様子をみてみようということにしたのである。
パースでの三年めは、新婚早々失業状態で、当時オーストラリア国営放送局に勤めていた妻の収入に頼るという男としてはまことに情けない生活であった。
二人が結婚を決意した時、妻の父親は、外国人でしかも将来定職に就けるかどうかもわからない者と娘を一緒にさせても、、、と難色を示していた。いえ、何とかなりますから、と言って、結婚したものの、やはり現実はそんなに甘くない。見つかった仕事はパース市中のテクニカル・カレッジの非常勤講師を週4時間勤める口だけであった。
義父はアイルランド系移民の子孫で熱心なクリスチャンであった。酒も煙草も賭け事も一切やらない男であった。結婚してから定年退職するまで、特別な場合を除いては、毎日きっかり定時に家にもどり、家族と食事を共にしたという。ところが、若い頃は西オーストラリア運輸業界ユニオン(労組)委員長までやったことがあり、性格は豪放磊落なところもあった。
家庭ではたいへんな亭主関白で、勤めから帰ると、どっかとソファーに座り、義母がネクタイをはずし、靴を取り、靴下までぬがせてやるという按配であった。
義父は、結婚前は私の将来について口やかましく言っていたにもかかわらず、結婚後は急に態度が変わり、
「なあに、就職なんてそんなにあせることもなかろう。人生にはそんなことはつきものだ。当分は魚釣りでもしてのんびりとすることだな」
と言って、自分の釣り道具一式を譲ってくれた。
勉強か遊びか、仕事か遊びか。そういう二者択一に迫られると、私はまずまちがいなく遊びの方を選んでしまう。自己管理能力にまったく欠けているのである。人生も後半になると、その繰り返しが大きな差となって現れてくる。
釣りでもしたらどうか、という義父の言葉に喜び勇んで(このあたりが私の単純軽薄なところである)、それから三ヶ月は釣りが私の日課になった。
パース市中の安アパートを毎朝二人そろって出る。妻は近くにある放送局へ、私は車に竿をつんで、スワン河にかかる橋の下へ出かけるのである。

この橋の下へ釣りに来る常連は三人であった。週日に朝から釣りをするのであるから、三人とも老人であった。
一人はいつも私より先に来ていて、どんなによく釣れる日でも予定の数だけ釣ると、思い切りよくさっと竿を納めて帰った。
あとの二人は夫婦者で、一日おきぐらいにやって来た。
テーラー釣りは、投げては巻き、投げては巻きの繰り返しで、身餌を使いはするが、一種のルアー釣りである。結構忙しい釣りである。
ところがこの夫婦は魔法瓶の紅茶を飲んだり、雑誌を読んだりしていて、一体やる気があるのかないのか。
釣れても、釣れなくても、どうでもいいや、という、そんなタイプの人たちだった。
いつしかこの老人たちと言葉を交わすようになった。特に独り者の老人は、釣りだったらおれが教えてやるからここで一緒にやれと言ってきかない。しかたなく、私は老人のそばで釣る。
仕掛けは道糸12ポンド。それに木製の卵ウキを引き通しにし、サルカンで止め、70センチのリーダーライン(ハリス)、針はオーストラリア独自のギャングドフックである。
これはリンクトフックとも呼ばれ、3本の針をチェーンのように連結したものである。これを作るには環付き針の環をひろげて他の針を通し、また環を閉じて作る。たいていの針は環を広げる時に折れてしまうが、ノルウエーのマスタッド社製のリメリック針は焼きがわざと柔らかく作ってあり、この作業にたえうる。
餌はワカサギに似たホワイトベイトである。一番先の針を尾のあたり、真ん中の針を腹、最後の針を目玉に通す。これを投げてかなりのスピードで引いてくれば、ちょうど小魚が水中を泳いでいるように見せれるのである。卵ウキの重さでぶっ飛ばし、段をつけて巻くのだ。
河口のテーラーはせいぜい20センチどまりの幼魚で、今では漁業省の規則でアンダーサイズになる。
海で釣る40センチ以上の成魚は日の出、日の入りの前後1時間が勝負である。河口の小物は3時間は食い続ける。
当たりは強烈な向こう合せで、ガクンという衝撃と共に重い卵ウキが一気に消し込まれ、ラインが横へ10メーターほど走る。
ドラッグは固めにしておく。竿がひん曲がり、糸鳴りがして、最初の遁走が限界に達するとテーラーは反対方向に向かってまた横走りする。
シマアジなどは唇が脱臼して、針穴が大きくなり針がすっぽ抜けることがあるので慎重なやりとりが必要だが、テーラーの口は硬い。
鋭いジグザグ運動を繰り返して抵抗するのをかまわず、しゃにむにリールを巻いて寄せてしまう。
釣りあげたテーラーの針はずしだけは慎重にやらなければならない。何しろ40センチのテーラーが30センチのサヨリを真っ二つに噛み切ってしまうのである。剃刀のように鋭い歯と強靭なあごを持っている。
はじめてこの魚を釣った人は不用意に口のあたりに指を近づけ大怪我をすることがある。
私は老人の脇に立って卵ウキを投げる。
スー,スー、っと段をつけて引いてくる。
老人の竿が大きく曲がっている。ああ、こちらにも来るな、と緊張する。
ガクンとウキが引きこまれてラインが走る。
リールを巻く。ダイワのインスプールのリールである。今ではインスプールのリールなど骨董品的存在でまず見あたらない。当時のダイワやオリムピックは、国内ではすでにアウトスカート・スプールのリールを発売していたが、海外ではまだフランスのミッチェル社製のインスプールと寸分違わぬコピーを売っていた。
イルカの夫婦がやってきて魚を追う。しばらくは釣りにならない。
老人は釣ったテーラーをまな板にのせて三枚におろす。さらにそれを10センチほどの短冊に切り、プラスチックの箱にきちんと納める。これが翌日の餌になるのである。
「おれは年金生活だから、おまえさんのように毎日ホワイトベイトを買うわけにいかんからな」と言う。
9時を過ぎるころになると食いがまばらになり、とたんにフグが現れる。
投げるポイントを右に左にと変えてみても、ウキがポチャンと落ちたとたんに、それめがけてフグの大群がわっと押し寄せる。
老人は四文字言葉でののしりながら必死でリールを巻く。貴重な餌を取られるのが嫌なのである。
餌を取られるのもしゃくだが、がっちりくわえ込んだ針をあの硬いあごからはずすのには閉口する。緑色の気味悪い目つき。ざらざら、いがいがした皮膚。がっちり閉じて開こうとしない前歯。
私は(一昨日来い!)と心のうちで叫びながらフグを水に投げ入れる。おととい来い、というのはもう二度ともどって来るな、という意味である。
嫌な虫などが家の中に入ってきた時、祖母がそれを掴み、窓からほうり投げるときにいつも使った表現である。

老人が釣り上げたフグを小さなまな板にのせ、シッポの付け根あたりをナイフでゴリゴリ切っている。フグは皮膚も肉も骨も、実に硬い。
「何のオマジナイですか?」
「まあ、見てればわかる」
老人は言いながらフグを捨てた。尾鰭のないフグはからだを必死にくねらせてゆらゆら水中に消えていった。
「あのフグが仲間の群れに戻って行くじゃろ。すると仲間は、やや、これはなんかヤバイぞ、と警戒する」
老人はまた次のフグのしっぽを切りはじめた。
「こうして次々にしっぽのないフグが増えていく。さしものフグたちもこれは大変だ、と大慌てで退散していくんじゃ。お前さんもこれをやりなさい」
(まさか!)私は老人の顔を凝視した。どうやら本気で言っているらしい。老人はフグを釣るたびにこれを繰り返し、お前さんもこれをやってみなさいと言うがそこまではお付き合いできない。
いっこうにフグが退散していく気配がないのである。

先週の土曜日、日本人の知り合い三人にせがまれて釣りに行くことになった。
三重県出身の高校生、高橋R君と母君のY子さん、兵庫県から来ている大学生の横山M子ちゃん。三人ともこちらで英語の勉強をしていらっしゃる。
初心者ばかりなので桟橋からサビキを垂らして小物の五目釣りである。
マアジ、シマアジ、サヨリ、スナッパー(豪州マダイ)、ヘダイ、ボラ、などが釣れる。
マダイ、ヘダイは手の平サイズでこれはイリーガルサイズ、つまり釣ってもすぐ海へお帰り願う。こんなのをバケツに入れていて、時折巡回してくる漁業省の監視員に見つかると、大目玉をくらう。悪質な釣り人は何十万円という罰金刑となる。
小物釣りもそれなりに楽しいものである。
オーストラリア人はシマアジは日本と同じで超高級魚として珍重するが、マアジは食べない。日本人の私たちはマアジが来ても顔がほころぶ。さあ、今夜はおろしショウガと刻みネギでアジのたたきが食べられるぞ、と嬉しくなる。
R君と私の竿にはひっきりなしにアジが来た。
M子さんは投げがしたいと言って、スピニング竿で30メーターほど投げてはときおり大型のキスを釣っている。若い人はのみこみが早い。
R君のお母さんの竿が大きく曲がっている。
「おっ、何だ!」まわりの人たちも手を休めて見守る。
サビキ針をくわえて上がってきたのは35センチほどのテーラーであった。
テーラーと言えば、連結針。さらにワイヤーリーダーを使う人もいる。サビキ仕掛けのチモトを食い切られなかったのは口の先端にうまく針がかかっていたからだろう。
テーラーが回ってくると、しばらくは小物が鳴りをひそめる。とたんに釣れだすのがフグやコトヒキのような嫌われ者である。
R君の竿も私の竿もフグの鈴なりである。
数メーターはなれた所で釣っている豪州人の子供にもフグがきて、針がはずせず、かんしゃくを起こしている。竿をふりまわしてフグを桟橋のコンクリートに叩き付けている。その弟は、膨らんだフグを踏みつけている。ポンと腹がはじけて内臓がそこいらあたりに飛び散り、隣のイタリア人の爺さんが顔を赤くして呶鳴っている。私のサビキ仕掛けもあっというまに針のちもとを食い切られ針の数が半分になってしまった。
私とR君の前にはまたたくまに20匹ほどのフグの山ができた。怒って風船玉のように膨らんで、いがいがしたフグをR君は一匹づつタオルでつかんで水にもどしている。動物好きの彼らしい思いやりである。いくら嫌われようと、フグはフグなりに生態系を保つ上でそれなりの役目をはたしているのだ。
「ちぇっ、またフグかあ」
R君はサビキ仕掛けにぶら下がってきた二匹のフグを針からはずすと、何かはじめた。彼もフグの猛襲にそろそろ我慢ができなくなってきたようである。
私は胸のうちでアッと叫んだ。
彼はフグを桟橋の端に置くと、ナイフで尾ビレのあたりをゴリゴリ切りはじめたのだ。
彼は尾ビレのない二匹のフグを海中に捨てた。
身体を必死にくねらせて海底向かって消えて行くフグを見ながら、私は何年も前にスワン河の岸辺で肩を並べてテーラー釣りをした老人のことを思い出した。
★★★


2002年05月15日 19時19分10秒

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