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帰国をすれば、かなりスケジュールが詰まっていても、たいてい東京と京都で一日ずつ過ごすことになる。 東京の方は、岩波の古典文学大系の第何巻を神田で探すとか、息子に頼まれた最新式のMDプレヤーを秋葉原で求めるとか、妻が欲しがっているクローバー社の手芸用品を京町へ買いに行くとか、世俗的な用件で一日が終ってしまう。 かつて二年間住んだ浦安の変貌ぶりを見に行こうという気持ちも起こらないし、職場のあった日本橋界隈を散策してみようという気分にもならない。私にとって東京というのはあいも変らず雑多で巨大な田舎街に思われる。 京都の方はとりたててなすべき用件があるというわけでもないが、自然に足が向く。 決して東京が嫌いだという訳ではない。東京での生活は私にとってもっとも充実した一時期であった。日本のどこで仕事がしたいか、と聞かれれば、私はためらいなく東京ですと答えるだろう。 しかし、海外から日本に一時帰国して、さてとりあえずどこに行こうかとなると、心は京都に向く。 東京の言葉はとげとげしくて味もそっけもないとか、京都こそ日本人の心だとか、そういった大仰な理由ではない。私の場合はたぶん、青春のエネルギーを燃焼した場所が京都だったという単純な情緒的心情にほかならない。 今回は、母校のある烏丸今出川へふらりと行った。母校西門前には私が学生だったころと変らず、喫茶「わびすけ」があり、そこで簡単な昼食を取った。私の在学時には日本国憲法の権威であったT法学部教授がゼミの学生を引き連れてやってきて、この店で安保反対の激を飛ばしていたりしたものだ。 今出川から大学構内を通り抜け、さらに女子大のキャンパスを歩き、出町まで行き、さらに河原町通りを南に向かってひろっていく。 途中、右に曲がって寺町通りを歩いてみたり、反対側に出て鴨川べりで休息したりして、やがて三条にたどり着く。 河原町三条の喫茶「六曜社」に入って、コーヒーを飲んだ。 テーブルや椅子の配置まで昔のままで、ほっとした気持ちになる。狭い店内の席はほとんどが相席で、もともと相席を前提に考えてある。かつてここは芸術家や文学青年気取りの者がたむろしていた場所である。 向かいに和服姿の四十年配の女性がためらいがちに座った。首筋の美しい人で、落ち着いた、渋い色の着物が実によく似合う人である。 最近は京都へ来ても和服姿の女性を見かけることが少なくなった。こういう人を見ると、それだけでその日、一日が豊かになったような気分になる。 しかし、こういう人が前に座ると、目のやり場に困るものである。河原町丸太町の古本屋で見つけた永井荷風の「断腸亭日乗」を開いてぱらぱらページを繰る。 婦人はそそくさとコーヒーを飲み終り、席を立っていった。 私は開いたばかりの本を閉じた。 (あの旅館はまだあそこにあるだろうか?たしか四条を下がったところにあったはずだ。よし、ついでに四条まで歩いてみよう。) 私は伝票をつまんで、立った。 大学4年の秋だったと思う。私はMホテル、フロントデスクで夜勤のアルバイトをしたり、外国人観光客のツアーガイドをしたりしていた。 ある日曜日、その頃知り合った洋裁学院の女の子を連れて南禅寺の湯豆腐を食べに行った。 その日は夜勤の仕事があったが、夜の8時までにホテルに入ればよかったので、さらに足をのばして大津に出て、琵琶湖でも見ようということになった。 湖畔に、貸し竿あります、という看板がかかったちいさな釣具店があったので、そこで粗末な竹ののべ竿を借りて、モロコ釣りをした。 唐辛子浮子とカミツブシ、ソデ型の金針という標準的な仕掛けがついていた。 私の彼女(といっても、手を握る機会さえないまま終った仲だったが)は、気味が悪いからと言って、餌つけは私にやらせた。 ところが現金なもので、2、3匹釣れると、興に乗って餌つけも針はずしも自分でやる。しかも、どうしたわけか、私よりよく釣れる。釣りなんて以外と簡単なのね、などと言うから、こちらは内心おだやかでなくなる。地元の子供たちも数人、釣りにきていて、私たちは釣った魚を彼らのバケツに入れてやった。 しばらくすると、アメリカ人らしい二人の若者が後ろに立って見物しはじめた。言葉を交わすと、なんと、彼らは私のアルバイト先のホテルに投宿しているということだった。 「やってみるかい?」 竿を差し出すと、 「じゃ、ちょっとだけ」 と言って竿を手にした。 小さな針にサシをつけるのが難しいようで、その不器用さは、はたから見ている私たちの方がいらいらしてくるほどであった。 それぞれが、1匹ずつ釣ると、もう飽きたような様子で、 「今夜、ホテルで会おう」 と言って、去って行った。 その夜、フロントに入って私は正社員のHさんに二人のアメリカ人のことを話した。 「ああ、いる、いる。一昨日チェックインしたんだけど、二人とも洗いざらしのジーンズにスポーツシャツ、皮のサンダルに大きなバックパックといういでたちで、泊まる場所を間違えたんじゃないか、とみんなで言っていたんだがね」 京都では最も高級とされるそのホテルの泊り客はほとんどが中年過ぎのきちんとしたアメリカ人夫婦であったから、この二人はひときわ目立つ存在であったという。 夜の9時過ぎにフロントに降りてきた彼らは、屋台のラーメン屋がどこかにないか、と聞いた。私は、河原町四条を下がったところにいつも出ているラーメン屋を教えた。 11時ころに戻ってきた彼らは、今度は、太秦(うずまさ)へ行くにはどうすればいいか、と たずねる。父親の知り合いのアメリカ人がそのあたりに住んでいるので、金を借りに行くのだと言う。 私の横で仕事をしていたHさんが、バウチャーを持っているから、今夜までの宿泊代の取りはぐれは心配ないが、それにしても大変な奴等が泊まったもんだなあ、と言う。 三日後、夜勤を終えた朝の8時、大学の第二講時までに時間があるので、私は河原町三条の喫茶「六曜社」で目覚ましのコーヒーを飲むことにした。 その時、向かいの席に座った二人がまた偶然にも彼らだった。 背が高くて、ひょうきんな男がスティーヴ、もの靜かでちょっと神経質な方がビルといい、ともにニューヨーク大学の学生だということがわかった。ビルは私と同様、専攻が英米文学、しかも論文でウイリアム・フォークナーをやっているということまで同じとわかり、とたんに意気投合した。 彼らはMホテルを出て、今は河原町四条の近くにある小さな旅館に泊まっているということであった。その朝、二人は私と一緒に大学までやってきて、キャンパスを一巡りした後で、学食で60円のカレーライスを食べてひきあげていった。翌日はバイトが非番の日だったので、私が彼らの旅館へ遊びに行き、清水と三十三間堂あたりへ行くことになっていた。 午前9時、旅館に出向くと、背の低い40がらみの男が帳場に出てきて、言った。 「ああ、D大の学士さん(当時、京都では大学生のことを学士さんと呼ぶならわしがまだ一部には残っていた)でっしゃろ。聞いてますわ。その廊下を行ってもろて、取り付きの八畳間やさかい、声かけてみなはれ」 廊下からビルの名前を呼ぶと、 「わあ、お客さん、もう来はったえ。どないしよ」 「そやかて、もう9時過ぎや。はよ、服着よし・・・あのう、えろ、すんまへん、ちょっと、待ってくれはりますか・・・」 二人の女の声が返ってきたので驚いて帳場に戻ると、男が下駄をつっかけて玄関を出ようとするところだった。 「なんや、あの子ら、まだいたんかいな。いえね、うちのお客はんは皆、女の子つけてんねん。でも誤解してもろたら困るで。別に女の子からピンハネしてるわけやないし、うちがあの子ら抱えているわけでもないから。うちは実質、泊りの分だけ」 このような言葉を初対面の男から言われようとは・・・私はショックが大きくて、呆然としていた。 男は奥に向かってどなった。 「母さん、桐の間の二人に、30分ぐらいしたらお客さんもどってきはる、ゆうといていな」 それから彼は表の方を指して言った。 「角の喫茶店へ行くとこや。コーヒー、おごるさかい、いきましょ。その間に、あの二人、朝飯食いよるさかい」 私は男の後について、河原町通りの喫茶店に入った。京都人にしてはずいぶん気さくな男で、まるで十年来の知己に話しかけるようなそのあけっぴろげな雰囲気に私はすっかり気をのまれてしまった。 数分後、三十過ぎとおぼしき二人の女性が路地から出てきて、店の前でちょっと立ち止まり、ガラス窓越しに男に手を振っていった。 男はコーヒーを飲みながらこんなことを話してくれた。旅館は客間が11室あり、彼と母親と手伝いの女性と三人でやっている。彼は昼間はほとんど、近くのパチンコ屋で時間をつぶす。腕前はセミプロで、5年ほど前から確実に儲けが出るようになった、と言う。 夜になると、河原町四条の交差点あたりをぶらぶらして客ひきをする。外国人で、女づれでない男性に声をかける。どこにお泊りですか、と聞くとたいていMホテル、Kホテルなどの名前が出る。 すかさず、うちは日本式の旅館ですが宿替えしませんか、ともちかける。あなたがお泊りのホテルと同じぐらいの料金をいただきます。ただし、うちは朝食と泊りの女性が付きます。 うさんくさそうに聞いていた客がたいていこの女性付きという言葉で動揺を示す。 その時、女性付きということをあまりくどく言うと相手の自尊心を傷つける。さらりと言う。 「せっかく日本へおいでになったんですから、一度ぐらい旅館にお泊りになってはどうでしょう。良い経験になります」と、駄目押しをする。 それでたいていは決まりだという。 戦後しばらく駐留軍のPXで働いていたが、そのころから、毛唐なんてのはどうしようもない野蛮人だと思うようになった、と彼は言うが、私には返答のしようがない。 「あの二人かて、部屋代節約したいからゆうて、同じ部屋に泊まって、女、抱いてるんでっせ。いったい奴さんたちの神経はどないなってるんやろ、思いますわ。いくら商売の女の子でも、一つ部屋で二組が寝るなんていやがりますがな。それにあのスティーブ、背の高い男。女の子の話では、あの男、パンツはいてえへんそうでっせ。ジーパンだけで下はスッポンポンや。チャック閉めるとき、毛エはさまへんか、他人ごとながら心配になりまんがな。 さあ、そろそろもどりましょ。 あっ、ビルがゆうてたけど、Mホテルでアルバイトしてるんやて?あそこのお客さんもうちへ引っ張ってくるからな。えらいこと、ゆうてしもたな。これ、内緒やで」 彼はコーヒー店の前で、向かいにあるパチンコ屋をあごでしゃくって、言った。 「パチンコはやらはる?やらん?そうですか・・・パチンコで儲けたかったら、いい台教えてあげるんやけどなあ」 私は六曜社から四条まで歩いて、かつてのパチンコ屋と、路地の奥のあいまい宿をさがしたが、そのあたりは商業ビルに変っていた。 ★★★ 2002年05月27日 19時36分54秒 |