「歌の翼にのせて・・・メンデルスゾーン」 (click)
「愛の夢・・・F.リスト」(click)
★★★ BGM by "Lei"of Paradise Cafe・・・ Refer to:素材リンク ★★★

南海の星音楽の世界

ちょっと大げさな言い方かもしれないけれども、私たちが青春を語る時、かならずついてまわるのは音楽ではないだろうか。少なくとも、ぼくに関してはそう言える。 音楽のない生活なんて、調味料やスパイスのはいっていない料理のように味気ないものにちがいない。 アメリカの物質文明がかつてないエネルギーで繁栄した1960年代、70年代には、当然のことながら、映画や音楽の分野もそれなりに花が開いた。ぼくはそんな時代に青春を過ごせたことをすごくラッキーだったと思っている。さて、ぼくは音楽に関してはズブの素人で、専門教育を受けたわけでもなく、バンドを結成したわけでもないし、ただ聞くのが好きだという程度。したがって、これから書くことも、思いつくことをアットランダムに書き付けるといったレベルにとどまる。


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★★No.1★★ Dolly Parton ★ Louis Armstrong ★ Paul Robeson ★ ビゼー「アルルの女」組曲 ★ スメタナ「わが祖国」より「モルドウ」★


(No.2)

画像&壁紙byあずさ・・・Refer to:素材リンク


John Denver

1970年代の終わりごろ、ぼくは東京のさる広告代理店に2年契約で勤務していた。そのせいかどうかはわからないが、テレビのコマーシャルはわりとよく憶えている。
そのころテレビでラングラー・ジーンズの宣伝をさかんに打っていたが(ぼくの勤めていた代理店とは関係なかったが)、そのコマーシャルソングがとてもいいなあ、といつも感心していた。
Sunshine On My Shoulders,という文句が何回もレフレインされて、ああ、ほんとうにのどかな牧場や平原の雰囲気が出た、ジーンズにぴったりのコマーシャルソングだな、、、と思っていた。
それから2,3年後にジョン・デンヴァーのCDを聴いていて、このSunshine On My Shoulders"を見つけたときには肝をつぶした。ジーンズの歌だと思っていたのが、何とジョン・デンヴァーの有名な持ち歌だったのだ。

4年前、彼のコンサートがここ、パースで開かれた。もちろん、ぼくは聞きに行った。
バンドの連中が中休みでステージから消えても、彼だけはギターをかかえてステージに残り、3時間ぶっ続けで歌い続けた。彼の歌が純朴で、清潔で、おおらかなように、ステージマナーも彼の人柄をそのままあらわしていた。
歌手であり、同時に作詞、作曲家であったこの有能なカントリー・シンガーはその翌年 自らが操縦する飛行機の事故で他界した。

Thank God I'm A Country Boy
Leaving On A Jet Plane
Country Roads
Rocky Mountain High
など多くの名曲を残した。Leaving On A Jet Plane はカントリーソングというよりも、モダンなポップスといった感じの歌で、PPMをはじめ多くのグループや歌手がこれを歌った。



Mitch Miller,The Gang and Orchestra
Robert Show
The Roger Wagner Chorale

秋葉原の電気屋さんを歩き回ってめずらしいCDを探し当てた時。うれしいねえ。それに苦労して(実際は楽しみながら)見つけたCDには愛着がわく。 これら三つの合唱団のCDもオーストラリアでは入手できず、結局秋葉原にあったものです。

ミッチ・ミラー合唱団
これは別にめずらしいというほどのものでもない。多くの映画音楽を紹介して、かつてはラジオのヒットパレードによく登場した名前だ。 「クワイ河マーチ」「史上最大の作戦マーチ」「テキサスの黄色いバラ」「黄色いリボン」「いとしのクレメンタイン」「大脱走」「ナバロンの要塞」「聖者が街にやってくる」「リパブリック讃歌」、、、おなじみの曲、なつかしのメロディーのオンパレードだ。気楽に聞ける曲ばかりです。

ロバート・ショー合唱団
カリフォルニア州、レッドブラック生まれのロバート・ショーは、ボモナ大学を卒業後ニューヨークで学生合唱団を結成、その後プロのグループとして活躍した。バッハ、モーツアルトの古典からフォスター、フォークソング、ポピュラーにいたる幅広いレパートリーをもっている。

ロジェー・ワーグナー合唱団
アメリカ最高の合唱団。指揮者ロジェー・ワーグナーはフランス出身。
日本でもママさんコーラスから大学のグリークラブ、教会の聖歌隊に至るまで合唱団に属したことのある人ならかならず聞いたことがある名前であるはずだ。え、聞いたことない、、、うーん、、、まあ、いいか。
何かの事情で自分のCDコレクションからただ1枚だけ残せるということになったら、ぼくはためらいなくこのロジェー・ワーグナー合唱団を選ぶ。
ビリーバンバンの「白いブランコ」はどうした、って?、まあ、そこまで問い詰めるな。ぎゃはは。
ぼくが持っているCDにはニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)の名曲13曲が入っている。
Were You There?、汝はそこに
Oh,Dem Golden Slippers、おお、黄金のスリッパよ
Deep River、深い河
Sometimes I Feel Like A Motherless Child、時には母のない子のように
Joshua Fit The Battle Of Jerico、ジェリコの戦い
Tone Duh Bell Easy、鐘の音に
Nobody Knows The Trouble I've Seen、私の苦悩は誰も知らない
Swing Low,Sweet Chariot、静かに揺れよ、懐かしの戦車
など、
特に、メゾソプラノのサリー・テリーが歌う「汝はそこに」はぼくのもっとも好きなナンバーだ。

どんなに優れた演奏家がどんなに優れた楽器を使って演奏するオーケストラも、人間のすばらしい声のハーモニーが与える感動を凌駕することはできない。私たちが人間であるから。

ナンパ

言葉はどんどん変っていく。
今の若いもんの言葉はなっちょらん、などと憤慨しても、その言葉が社会に定着すれば、それが正しい言葉になる。
ナンパという言葉は僕たちが学生の頃はナンパする、ナンパされる、などというように動詞としては使われなかった。ナンパ(軟派)はコウハ(硬派)とペアーになった学生言葉だった。
あいつは軟派だ、というように使われた。
大学へ入ってすぐ、同じ高校出身の先輩5人と高校の英語の先生が集まってぼくの歓迎会を開いてくださった。先生は土曜日の午後、岐阜を発って京都まで泊りがけで来てくださったのだから、今から考えると本当にありがたいことだった。
三条寺町のスキヤキ屋で車座になって鍋をつつき、酒を飲んだ。先輩は二人が経済学部、三人が商学部、ぼくだけが文学部英文科だった。
「おい、ブランコ、お前、この間キャンパスでえらく奇麗な女の子4、5人と一緒に歩いとったな。一人、俺にまわせ。経済なんて女の子、片手で数えるほどしかおらんわ」
「英文科は八割りがた、女の子やろ。えらいとこへ入ったな、おまえも。いいか、M高校は伝統的に硬派で通っとるんや。バンカラの気風わすれんなよ」
わいわいがやがや、騒いで、一段落つくと先生の宿所である旅館に皆で押しかけ「おい女中さん、おれたちみんなここに泊まるから大部屋に変えてくれ」
途中の酒屋で先生が買った二級酒の一升瓶を二本とスルメを肴にまた飲み会が始まった。
「おい、ブランコ、おまえ、歌うたえ!」
「え、歌ですか、、、ブラザーズ・フォーのを2曲ぐらい知ってますが、、、人前で歌ったことないですから、、、」
「ばか、気取るな。いくら新島先生の英学校でも歌ぐらいは日本語で歌え!、、、そりゃ、一つ出たホイのヨサホイのホイ、ホイ」
「一人娘とやるときは、ホイホイ、親の許しを得にゃならぬ、ホイホイ」
大合唱が始まった。
驚いたことに一番大声を張り上げているのは英語のT先生だった。
「二つ出たホイのヨサホイのホイホイ、二人娘とするときは、ホイホイ、姉の方からせにゃならぬ、ホイホイ」
T先生は母校、M高校開校以来のもっとも堅物と言われた方で、ロボットというニックネームがついていた。血も涙もないという意味である。ところが、卒業生の間では「ロボさ、ロボさ」と最も慕われている先生でもあった。
「三つ出たホイのヨサホイのホイホイ、醜い女とするときは、ホイホイ、ハンカチかぶせてせにゃならん、ホイホイ」
「四つ出たホイのヨサホイのホイホイ、よその二階でするときは、ホイホイ、音がせぬよにせにゃならぬ、ホイホイ」

えッ、マリンはそんな歌知らない、って。うん、うん、こんなの今どきのカラオケには入ってないからねえ。
「五つ出たホイのヨサホイのホイホイ、いつもの女とするときは、ホイホイ、、、あれ、何やった?」
「アクビしながらせにゃならぬ、ホイホイ」「そやそや、ギャハハ」
「六つでたホイのヨサホイのホイホイ、昔なじみとするときは、ホイホイ、腰が抜けるほどせにゃならぬ、ホイホイ」
「七つ出たホイのヨサホイのホイホイ、質屋の娘とするときは、ホイホイ、 入れたり出したりせにゃならぬ、ホイホイ」
「八つ出たホイのヨサホイの、、、ヤクザの娘と、、、命覚悟でせにゃならぬ、、、」
その頃が日本の若者の音楽が大変化をとげる過渡期であった。

青葉城恋唄(作曲・唄・さとう宗幸)

広瀬川流れる岸辺
想い出は帰らず
早瀬躍る光に揺れていた君の瞳
時はめぐりまた夏が来て
あの日と同じ流れの岸
瀬音ゆかしき杜の都
あの人はもういない

七夕の飾りは揺れて
想い出は帰らず
夜空輝く星に
願いをこめた君のささやき
時はめぐりまた夏が来て
あの日と同じ七夕祭り
葉ずれさやけき杜の都
あの人はもういない

青葉通り薫る葉緑
想い出は帰らず
樹かげこぼれる灯に
濡れていた君の頬
時はめぐりまた夏が来て
あの日と同じ通りの角
吹く風やさしき杜の都
あの人はもういない

★No1 さとう宗幸のオリジナル(声)が一番だけですが、繰り返し聞けます!!!
★No.2
★No.3

日本の歌で、ああこれはいいなあ、と感じてそのまま好きになった歌、そんな歌の一つだ。
素晴らしい歌をひっさげて、彗星のように現れて、すっと消えていく。消えていかなくても、後が続かない、そういうのが時折いますね。さとう宗幸って、そういう歌手の一人になるのかな?
カラオケの画面では小さな天守閣が出てくる。ああ、お城がまだ残っているんだ。一度、見に行くかな?
仙台六十二万石、伊達正宗、青葉城、七夕祭り、牛舌(ギュウタン)、杜の都・・・
作家、北杜夫(父君は歌人、斎藤茂吉)は東北大学医学部に学び、精神科医となり、かつ「白きたおやかな峰」で芥川賞を取り、作家となる。「どくとるマンボウ」シリーズで幅広い読者層を誇った。
北の杜の都、仙台、からペンネームを北杜夫とした。
あれや、これやで仙台というのは何かしら魅力のある都市(まち)に思われた。

昨年6月、帰国の折り、東京まで出たついでに仙台まで足をのばすことにした。足の向くまま、気の向くまま、誰にも気がねのいらない一人旅(フウテンの寅さんだな、これじゃ)。
駅前のビジネスホテルにチェックインして、格安の市内一周バスに飛び乗り、青葉城へ。いや、青葉城跡へ。お城はありませんでした。
あれ、あのパースのカラオケバーにあるカラオケの画面、インチキじゃないか、と心のうちで叫んだのだが、カラオケは別に観光案内が目的じゃないから、それをとやかく言うこちらがまちがっている。どこもかしこもギュウタンの御土産物屋さん。
でも山の上から見る仙台の街は緑一色。杜の都はウソではなかった。
山を降りて、広瀬川のほとりを歩く。大都会の真ん中にこんな急流が!これも感激。あちこちで、ウエーダーやウエットスーツの釣り人が瀬の中に立ち込み、アユの友釣りをしている。ああ、来てよかったなあ。
夜、夕食に出かける。繁華街の大通りに何百人という人が集まっている。人込みをかきわけ前に出ると、ちょうど、路上コンサートがはじまるところであった。黒人歌手が十数人。アメリカから来日中のゴスペル・ソングのグループだった。それに日本人の若者が30人ほど。彼らも歌、うまかったね。ヤマハ音楽教室の人たちだとか。街に出た時間のタイミングがよくて、トクしちゃった。
「青葉城恋唄」に惹かれて仙台へ行き、ゴスペルソング聞いて帰ってきた。
年甲斐もないブランコのセンチメンタル・ジャーニー。
The Three Bells by The Browns

また逢う日まで(唄・尾崎紀世彦)

先月のことでした。カミさんに付き合って最寄のショッピング・センターへ食料品の買出し。ついでにCDショップをのぞいていたら、、、あった、あった、ザ・ブラウンズの「谷間に三つの鐘が鳴る」。
「おい、ちょっと金出してくれ。財布持ってこなかったから」
「レズ・ポール&メアリー・フォード、エディー・フィッシャー、パティー・ページ、プラターズ、ドリス・デイ、、、こんなの、みなうちにあるでしょう?」
「いや最後から二番目、ザ・ブラウンズの、、、」
「あなたは、たった一曲のためこのCD買うんですか。そんなことをいつもやってるから車の買い替えもできないんですよ」
「いいから、いいから、これは特別」
仏頂面のカミさんから金借りて買いました。

京都での一年目は烏丸車庫の近くの古い家の二階に下宿していた。二階には六畳、四畳半、四畳の三部屋があり、ぼくは一番小さい4畳の部屋だった。普通、四畳間などというのはないわけだが、そこは正確には三畳間プラス一畳の板の間という変則的な部屋だった。板の間に勉強机と椅子、畳の間に布団を敷くと、座布団を敷くところもないという狭さだったが、親元を離れての一人暮しは楽しかった。
そのころの学生にとっての楽しみといえば、ラジオで音楽を聞くぐらいであった。お金に多少余裕のあるものは喫茶店へ行った。学生が行く喫茶店には音楽が不可欠であった。どこの店にもレジの横にレコードプレヤーが置いてあった。
今は死語になってしまったが、当時は音楽喫茶というものがあった。同志社生が多い出町柳だとか、京大の近く、川原町三条から四条にかけてはこうした音楽喫茶があった。巨大なスピーカーが備えてあり、曲は客がリクエストできるようになっていた。
大学の近くはたいていクラシック音楽、街に出るといろんな音楽喫茶があった。
三条の近くには「凱旋門」という店があり、名前からわかるようにここは一階,二階ではシャンソンをかけていた。蛸薬師のあたりには「珊瑚礁」という店があり、ここは客層がかなり不良がかった若者であった。音楽はポップスやジャズだった。四条の近くには「ルーチェ」という店があり、ここはクラッシクだった。
クラッシク喫茶ではリクエストをしても一曲が長いから自分のがかかるまでに一、二時間待つのは当たり前であった。コーヒーいっぱいで二、三時間もねばられても商売になったのだから、やはり当時はのんびりしていたのだろうか。
これらの店は二階から四階建ての大きな店であったが、カウンターといす席が二つ、三つというありきたりの店でも音楽を売り物にしているところが多くあった。川原町四条の近くに「ブルー・ノート」というカウンター席だけの店があり、ここにはジャズとブルースのファンが集まった。ソニー・ローリンズだとか、マイルズ・デイヴィスの曲をかけていた。
京都での一年めはアルバイトもしていなかったし、喫茶店へ出入りする(ちょっとおおげさにきこえるかもしれないけど、当時はそんなものであった)余裕などさらさらなく、ラジオ一点張りであった。
そんなある日、ラジオを聞いていると、いつものように、「リクエスト曲は、あて先・・・・、京都放送・xx係り、住所、お名前、リクエスト曲をはがきに書いてお送りください」
「よし、いっちょう、送ってみるか」
第一希望「ザ・ブラウンズの谷間に三つの鐘が鳴る]、第二希望・・・、第三希望・・・」 欲張って、三曲書き、短いコメントをつけて送った。
一月ほどたった12月も下旬、下宿へ帰るとおばさんが、
「ブランコさん、さっき京都放送の車が来て、これ置いていかはりましたよ。 ケーキやさかい、気いつけて開けよし、ゆうて」
「京都放送がケーキ?何ですかね?」
覗きこむおばさんを前にして開けてみると手紙が。
「あなたのリクエスト曲、(谷間に三つの鐘が鳴る)を12月xx日にお送りいたしました。今後も京都放送の○○ディスクジョッキーをご利用ください。ここにクリスマスケーキをお送りしますので、、、」
その晩小さなケーキを五つに切って、下宿生3人とおじさん、おばさんで食べた。

このザ・ブラウンズ、たった一つのヒット曲を出して消えてしまった。
「青葉城恋唄」でふと思い出したのである。


パースから一時帰国して東京の会社に二年間勤務したことはどこかで書いた。 その時のことであるが、パースで知り合ったオーストラリア人がたまたま二人東京にいた。一人は新宿の英会話塾で英語を教えていて、もう一人はさる大学の修士課程で日本語をやっていた。
一夕、三人で集まって酒を酌み交わそうということになった。
新宿歌舞伎町に行きつけの安いバーがあったので、そこで痛飲した。
白ブラ「どうだ,日本のテレビは?」
友人A「うん、日本語の勉強になるからよく見ている」
友人B「ぼくも、そうなんだ」
白ブラ「どんな番組見てる?なんかおもしろいのあるかい?」
友人A「イカリヤチョウスケのドリフターズがおもしろい」
友人B「ぼくもあれが好きだ。日本語が全部わからなくても、動作でわかる」
白ブラ「日本の音楽はどうだい?」
友人A「好きになれない」
友人B「一人だけ好きな歌手がいる。オザキ・キヨヒコ」
白ブラ「ああ、また逢う日まで、あれはぼくも好きだ」
友人A「そういえば、ぼくもあの歌は好きだ」
友人B「だけど、彼には続くヒット曲がない。残念だね」
そしてうちの家人が東京滞在中に買ったたった三枚のドーナツ版のレコードのうちの一枚も尾崎紀世彦だった。

ぼくの勤め先に毎年一回は来られる日本人の客人がおられる。奨学基金に莫大な金額の寄付をしていただいている。またオーストラリアの芸術関係、特に音楽関係の事業にも多額の寄付をしておられる。
その方が一昨年来られた時、一緒について来られた人を見て目を疑った。
もみあげを長くのばしたあの尾崎紀世彦氏だったのだ。



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