だいじゃやま

大牟田夏まつり(2003.7.20〜27)
 
大蛇の形は、地区ごとに微妙に違う
これは、大牟田川ちかくに止めてあった大蛇
松屋デパート前の大蛇山


口の中に子どもを入れて大蛇を
揺らすと
その子どもは1年間、無病息災に
恵まれると言われている。
私も小さい頃は、この大蛇の口に
入れられた。
大牟田神社前の大蛇山
どんな小さなこどもも・・赤ん坊の頃から聞き知った太鼓の音を知っている。
幼稚園か、小学生の低学年の子どもが、大蛇山のあの独特な太鼓を
打っているのだ。

大牟田商工会議所HPより   

大蛇山祗園六山




大蛇伝説

大蛇山の歴史
連想されるのが、三池地方に伝わる「ツガネと大蛇の物語り」・・・ツガネ(さわガニ)が、大蛇のイケニエにされようとした玉姫様を大蛇から救ったというお話・・・ではないでしょうか。
では、大蛇山を歴史的に紐解いてみましょう。

大蛇山の起源ってな〜に?
大蛇は水の神様 祇園とそのお祭り 祇園祭への大蛇登場
話はかなり古い。わが国には、農業などに水が大切なことから、蛇(オロチ・ミズチ)や龍を水の神の象徴とする水神信仰があった。
三池山山頂にある古い三つの池は、雨乞いの祈祷を行う場所であったとされており、蛇にまつわる「ツガネと大蛇」の伝説を結びつけて考えると、この三池地方にも、蛇を水の神の象徴とする水神信仰が古くからあったと考えられます。
江戸時代初め頃の三池地方。荒地が多く収穫は不安定、さらに疫病もはやり、時の領主により悪病よけと 雨乞いへの強い祈願が込められ、祭神を悪病よけや農業の神とする「祇園」のお宮が造られました。
やがて、人々にも祇園信仰が広まり、その祇園のお祭りが藩をあげて盛大に行われるようになりました。
さて、ここで古くからの「水神信仰」と少し後の「祇園信仰」を考えて見ましょう。・・・どちらも農業に関係する神様であることにお気つきになるでしょう。
このようなことから、結びつきやすい関係にあった祇園信仰と水神信仰の二つの要素がからみあい、やがて、祇園のお祭りに大蛇がとり入れられ「大蛇山」という形ができあがったと考えられます。
大蛇山は、祇園のお祭りに伴う行事であり、江戸時代に三池地方で始まりました。
祇園の祭りとしては珍しく、この地方独特の祭礼行事だといえます。

大蛇山はいつはじまった? 大蛇山はどう広まった? かつては勇壮な目玉奪り
記録によると、寛政三年(1791年)三池祇園のお祭りでは、30人の山曳夫が山を曳き、山の製作に は大竹・小竹角縄が使われさらに焔硝や硫黄も使われており、どうやらこれが大蛇山の原型のようです。
そしてそのしきたりは「往古より相変わらず・・・」といわれていますから、はじまりはもっと古いに違いありません。
大蛇山は、祇園のお宮が造られた1640年以降、1791年以前にはじまったと考えられます。
三池には新町(旧三池藩)と本町(旧柳川藩)の祇園があり、祭りでは互いに「負けてたまるか!」と随分張り合ったようです。
この大蛇山はどのようにして大牟田各区に広がったのでしょうか?
それは、明治四年頃、現在の本町五丁目の祇園で、氏子の若衆たちが三池祇園の大蛇山にならって作り始めたもので、やがてそれが大牟田の各区に広がり、現在の六山になりました。
祇園さんの日は昔から一年中でいちばん町中が燃える日でした。
浴衣がけに手団扇姿で大蛇山の囃子と乱舞に酔い、幼子を大蛇にかませて健康を祈りました。
そして昔は、祭りが終わり、夜明けと同時に勇壮な大蛇山の取り崩しと目玉争奪戦が繰り広げられ、大蛇の左目を奪い合いました。
その由来ははっきりわかりませんがとにかく大蛇は神聖なものでした。人々は壊れた大蛇の破片を拾い、軒先に飾って無病息災・家内安全のお守りにしました。戦後禁止となり、その壮絶な合戦絵巻も今ではお年より達の語り草となってしまいました。


撮影日・2003.7.27午前11時頃
祭りと言えば・・私は夜店が好きでたまらない。
まだ、開いていない店も多かったが、
祭りのたんびに、昔から変わらない夜店の風景に
ふと、足を止めてしまうのだ。
ここには・・昔ながらの郷愁が漂っている・・・。

京都の祇園さんと大蛇が
結びついた祭りは、全国でも珍しいと
されている。


祭りの本番は夕方からである。
昼間は、まだ人通りは少ない。
あまり人ごみが好きではない私は
昼間、見にいった。

大蛇の山は、6つあり
1つ1つの山には特徴がある。
このたくさんの大蛇は 昼間は、
いろんな地区を動き回るが
フィナーレともなると、
大正町通りに集結して
お互いに怒涛のような太鼓を
鳴らしながら、それぞれの大蛇を
にらみつけ、白煙と花火を
口から出してお互いを威嚇し合う。
この光景は、見事である。