@牛若丸と弁慶の石投げ
大迫と亀ヶ森との境にそびえているピラミッド型の山を、諏訪沢森(すわさわもり)と呼んでいる。
世は奥州平泉文化の中にあった時のことだという。この地方に巡回(じゅんかい)してきた牛若丸と弁慶(べんけい)とが諏訪森沢森に登った。頂上に立って、北のほうを見わたすと、東から西に向かって勢いよく流れてきた稗貫川(ひえぬきがわ)が、岩の目の岩根にぶつかって左折し、白波を立ててそうそうとして流れていくのが見える。その対岸には、早池峰山(はやちねさん)を初めとする北上山地の山また山が続いている。
しばらく、景色をながめていた牛若丸と弁慶は、やがて、旅の慰み(なぐさみ)にでもと、登っていた諏訪沢森からどちらが遠くへ投げるかと、巨岩(きょがん)の投げ比べをすることにした。
まず弁慶が投げることになった。渾身(こんしん)の力を込めて投げた巨岩は、うなりを生じて空高く飛んでいった。そして、稗貫川の中ほどに、
「ドボーン。」
と水煙を高く立てて落ちた。弁慶は得意満面といった表情を浮かべて、牛若丸の方を見た。
牛若丸はすっくと立ち上がり、そして、手頃の巨岩にかけ寄るが早いか、
「ええい。」
という掛け声もろともに岩を投げつけた。しばらくして、
「カッ。」
と音がして、土煙がパッと飛んだ。なんと巨岩は稗貫川を見事に越えて、岩の目の岸に落ちたのであった。
弁慶はあらためて牛若丸の非凡さに敬服した。弁慶の投げた巨岩は「中岩」といって、最近まで川の中にあったというが、現在は大水で流されて残っていない・・・。
諏訪沢森の名前の由来も義経にまつわる話である。
平泉を追われた義経一行は再びここを通った。そのことを後を追ってやって来た静御前(しずかごぜん)が聞き、素足(すあし)のままこの山に登ったことから、「すあし森」と呼ばれるようになった。それがいつの間にか「すわさ森」となまって、現在の漢字が当てられたという。
また、諏訪沢森の近くにある河原は、義経と静御前が旅の途中に馬からおりて、静御前がその河原で手足を洗ったので、「静河原」と名が付いたという。
A諏訪沢森のツツジ
諏訪沢森の山頂には、一本の大きな老木が天をついて立っていて、傍らには駒形さんをおまつりした、小さなお堂がある。このお堂は、いつの時代にか芦毛の馬を生き埋めにして、勧請したのだと伝えられている。
諏訪沢森の頂上に立って展望すると、東に早池峰山をはじめとする北上山地の山々ね西、奥羽山脈を眺めることができ、稗貫川の盆地と北上川の平野の一部も眺望の中に入ってくる。
この山の西側半面には、松杉がうっそうと茂っているが、東南半面には、ツツジが一面に繁茂していて、5月のころは紅色に燃えるがごとくで、壮観、美観、筆舌につくしがたいほどであった。しかし、その美しさを眺めるのに最も良い場所は、西北の山麓の川村家の座敷であると言われていた。それには、次のような伝説がある。
昔むかし、市女笠(いちめがさ)を深くかぶり、人目を避けてひそかに川村家をたずねてきた1人の上ろう(尊い身分の女性)があった。川村家では大変驚き、かしこみ、光栄に思いながら、まずは傍らの池にご案内して、
「どうぞここで御足をお洗いください。」
とすすめ、奥の座敷へと招き入れた。やがて、座敷の普請をして、極めて丁寧におもてなしをした。上ろうはいつしか「鈴鹿の御前」(すずかのごぜん)と呼ばれるようになり、村の人々の同情と尊敬を集めていた。
幾度か春が過ぎ、そして秋がやってきた。しかし、鈴鹿の御前は一歩も外へは出られなかった。村人たちは御前の身の上を非常にお気の毒に思い、その心をお慰めするために、御前のいますお座敷からよく見える諏訪沢森の半面に、御前の日ごろのお好みであったツツジを植えたということである。それからは、毎年ツツジが咲き乱れ、その美しさは、「諏訪沢森のツツジ」と称賛されるようになったという。
村人たちの厚い心づかいもむなしく、その御前はまもなく世を去ってしまわれた。村人たちはこれを大迫の、上の台という所に厚く埋葬(まいそう)して、塚の上に小さな祠(ほこら)を設けて鈴鹿明神と称え、そのまわりには杉や栗の木を植えた。
何十年か経って、本宿の集落にかかっていた橋が流れてしまったため、その塚から杉を切って橋を作ったが、罰があたたったのか橋から落ちて水死する者も出た。また、あるときには、塚の上に繁茂している杉や栗の木のために、まわりの畑が日陰になってあまり良い作物が取れないことから、小祠を近くの森に移して樹木を切り払おうとした。そのため、まずその可否について巫女(イタコ)に尋ねることにした。しかるに、
「ここから動きとうない。」
という御託宣(ごたくせん)が出たため、ついにそのままとしたという。
後に、里人は「鈴鹿の御前」とは、実は源義経を追ってやってきた「静御前」ではなかったかと噂(うわさ)し合った。
B弘法の井戸