ついに、我が家のクロッカスが花をつけました。
去年の秋に20個ほどの球根を買ってきて、玄関脇の2箇所にかためて植えていたものです。
この1週間、黄色い蕾が『さあ咲くぞ、今咲くぞ』と焦らすように膨らんでいました。
それがこの週末の暖かさで、めでたく開花宣言です。
家を出入りするたびに眺めているのですが、朝は半開き、昼は全開、そして夕方にかけて徐々につぼんでいく様が、何ともいじらしいですね。
2月に咲いて春の先駆けとなったスノードロップは、清楚すぎて声をかけにくく、少し離れてそっと見守りたい雰囲気の花ですが、春の到来とともに咲くクロッカスの場合は、握手して背中を叩きあったりしながら、いっしょに春を喜びあいたい花です。
いっしょに春を喜ぶと言えば、2週間ほど前から我が家の庭に小鳥たちが顔を見せていて、こちらも賑やかに春を祝っています。
大小あわせて3―4種類で、朝起きる時には、既にピーピー、チュンチュン鳴いています。
大都市では考えられないことに、鶯もやってきます。
隣家の生垣の山茶花の蜜を吸ったり(ホントに吸っているのかは判りませんが、そのように見えます)、えさ用に棒に刺したリンゴをついばんだりしていきます。
こうやって季節ごとに好きな花を植えたり、鳥を呼んでみたりというのが、庭の楽しさの大きな部分を占めますが、その点、日本庭園はちょっと窮屈です。
最近京都の庭めぐりをして、日本庭園の良さを再確認してきたばかりですが、今の私にとって、日本庭園は出かけていって鑑賞するものです。(昔はそう思わない時期もあったのですが)
日本庭園の魅力は、一つ一つの石や木が持つ美しさ・存在感を最大限に引き出す、完璧な空間構成あるいは様式美にあります。
そのために余分なものは一切除かれており、謂わば「引き算」の庭です。
遊びの入る余地は少なく、というより遊びですら計算されたものである必要があります。
作者の意図を無視して、勝手に好きな花を植えたり、鳥のえさ台を置くことは憚られます。
一方、イングリッシュガーデンは「足し算」の庭と言えるでしょう。
たくさんの木や草花を塗り重ねていくイメージです。
一つ一つの植物は当然個性的で魅力的ですが、その内のどれか一つだけを独立して植えて味わい尽くすということはまず無いでしょう。
季節ごとに様々な植物が主役になったり脇役になったりしながら、庭全体が常に居心地の良い空間であり続けます。
そのために、高さ、色、花季から、時には香りまで考えたうえで設計されるのでしょう。
しかし、そこには日本庭園に求められるような厳密さはありません。
自然の植物が相手で、しかもそれらを重ね合わせた構成になっているから、当然といえば当然です。
むしろ、季節から季節へ、あるいは今年、来年、さ来年と、変貌を楽しめることこそが大前提になっているように思います。
だからこそ、「あの花が好きだから、今年はあそこに植えてみよう」というような楽しみ方ができるのです。
完成された空間を提供する日本庭園に対して、(言い過ぎかもしれませんが)イングリッシュガーデンにはそもそも完成という発想はないのかもしれません。
この、自分であれこれ工夫しながら楽しめるという魅力、しかも完成が無いから楽しみに終りが無いという魅力が、今多くの人々の心を捉えるのでしょう。
話が飛躍しますが、仕事でも勉強でも趣味でも、完成を求めてしまうと『完成=100点』を基準として自分の点数が気になるものです。
しかし、そもそも完成という発想がなければ、価値観の押し付けでしかない点数の呪縛から解放されて、過程そのもの(自分が変わっていく過程、成果を挙げていく過程)を楽しめるようになるのでしょう。
このような発想の転換の先に、多様な価値観や好みが共存できる世の中(イングリッシュガーデン主義???)があるのかもしれません。