【コジュケイ】
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コジュケイについては、私の記憶にとって非常に古い歴史を持っている。鳴き声についていえば、小学校の頃逗子に住んでいたときのことだ。その頃は、昭和20年から30年にかけて頃戦後の混乱期に町のとてつもなくはずれていた住まいのことだ。小学校から歩いて40分くらいのところに住まいがあり、当時でもほとんど考えられないような、住環境だった。電気も水道もないところに2軒の住宅があり、戦中の最後の頃に横浜の戸塚区から疎開したという。この頃を思い出すときりがないので、とにかくひたすら貧しく生きていた時代だった。給食のミルクを飲むためのカップがなく、湯飲み茶碗を出してみんなに笑われた記憶が強い。しかし、今とは違い自然だけは豊かだった。一山登り終え、部落の集落を抜け、共同墓地と村の神社を抜け、深い緑のアーチをくぐると、我が家を見下ろす谷の頂上に立つ。ここからは、周辺の深い緑とその先に見える紺青の相模湾が見下ろせた。その頃飼育していた「チビ」という白い雑種の犬がいて、口笛を吹くと我が家から飛び出して坂を駆け上ってきた。この犬との話はまだまだあるが、今の逗子とは全く異なる世界がここにはあった。しかし、生活は貧しかった。みんな働きに出ていて、学校から帰ると、チビしかいなかった。この時代について不幸だとは思っていないが、圧倒的な貧しさは、いまでも様々な夢の中で現れる。その象徴がコジュケイだ。いつも聞こえてきたのは、「ビンボーコイ、ビンボーコイ」という鳴き声だ。いろいろな、聞き鳴らしがあっても、私にとっては、この声が一番解りやすい。その後、鳥観察を初めても声はいろいろな場所で聞いても、姿を見ることが出来なかった。図鑑でみる、眉班と胸元のブルーには、いつか会いたいと思っていた。並木のまちに移転し、野鳥観察の池ができてからも「コジュケイ」の声はいつも聞こえていた。その声は「ビンボーコイ」から「チョットコイ」にかわっていたが、あいわらず姿を見ることができなかった。 最初に姿をみたのは、1992年2月12日だった。場所は観察の池に隣接する長浜検疫所という場所で、昔から防疫の機関として、ここに港を構えていて、問題のある患者を隔離していた。わずかの間ではあるが、野口英世が研究していたので、その研究所が今でも保存されている。地元の人間にとっては、あまり触れたくない場所タブーの空間として現在まで豊かな自然環境を残している。新しいまちにとっては、非常に得難い里山を保存してくれていた。「コジュケイ」はそんな里山に家族同伴で姿を現した。山の斜面をガソゴソ歩く五人の家族に初めて対面することができた。山の斜面がいかにも好きな感覚で家族は歩いていた。不思議なことに、一度姿を見ると何度も巡り会うことが出来た。私にとって、なんとか自分体験を語れる懐かしい鳥だ。 話は変わり、この検疫所の隣地にある野口英世の研究所が保存され、周辺は歴史となんとかの公園にかわってしまった。いま、振り返って考えると野口英世という人はなんだったのか、よく解らない。先頃金沢区の街博覧会という、いまいちよく理解出来ないイベントがあり、まちをよく知るためのクイズラリーを開催した。私も協力してクイズを考えて、野口英世が研究最中に感染して死亡した病気は何か、という問題をつくり、一緒に参加した大学生に質問をしたが、全く理解できず、すぐ答えがきたのは、私の同世代の主婦だった。しかし、私達が教わった黄熱病とは、果たして何者なのか、全く解っていない。なぜ野口英世さん英雄なのか、偶像化する前によく理解したほうがよい。しかし、この話題には、コジュケイは全く関係がない。その後も、この鳥のさえずりとか、家族の移動とか、私はかなり、めぐり会うことができた。 |

