佐藤版 古都平泉の新景観探訪2
 

トップページに転載した写真を中心に、平泉の世に余り知られていない景観を探してみましょう。

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1 梅雨に照り映える経蔵と青葉の茂り(中尊寺)
 
 

みな月の雨に艶めく経蔵は茂れる青葉に負けず若かり

幾たびか業火迫りし経蔵を守りし菩薩(ひと)の御恩に手合わす

青々といろは紅葉は経蔵を労るように垂れかかれり










2 旧鞘堂を背景に芭蕉翁の銅像が若葉の中に輝く(中尊寺)
 
 

中尊寺の松尾芭蕉像に

霧雨にわが躯(く)を余計輝かせ蕉翁永久に奥州に在り

蕉翁の「ほそ道の旅」偲ばむとしばし一時鞘堂に入る

鞘堂の脇の軒先草分けて銅の蕉翁ぬっと顔出す










3 大池の中尊寺蓮(泰衡ケ蓮)たちは、一ヶ月後の開花に備えて雨露を含む(中尊寺)
 
 


蓮という花は、本当に不思議な花だ。花の時期を過ぎると、蓮は泥池の中に静に眠るが如くじっとしている。
二〇〇二年六月二二日、金色堂の南方にある大池跡を訪ねると、八百年の眠りから醒めた中尊寺蓮(泰衡ヶ蓮)は、まだ膨らみの足りぬ小さな葉に、霧のような細かい雨粒を受けながら水面に浮かんでいた。例年、この中尊寺蓮が咲くのは、七月半ばである。中尊寺蓮という花は、開花の時期に入ると急速に成長を遂げて、夏の陽の光りの中で見事な大輪の花を結ぶ。一九九八年、泰衡公の御首と共に眠っていた中尊寺蓮は、八百十年の眠りから醒め、今年で開花から五年目の夏を迎える。この蓮は、不思議な魅力を持った花だ。そして今既に「新たな奥州の風物詩」とまで言われるようになってしまった。中尊寺蓮は、一雨毎に成長し、開花の時節を待っているのである。


 円かなる桶に眠りし泰衡が蓮は秘かに時節待ちをり

この丸き桶の底には泥在りて泥の中より蓮華は生ひぬ

真ん丸き蓮桶(おけ)の宇宙に天よりか恵みの雨は零れて満てり

大池に泰衡が蓮咲きませば奥州は皆楽土となりぬ








4 梅雨時(2002年6月22日)に西物見から北上川と霞む束稲山を望む(中尊寺)
 
 

雨雲の低くたれ込め束稲の山は霞みて大の字見ゑず










5 雨に濡れた木の根参道は釈迦堂へと通じている(中尊寺)


(熊谷宗和氏撮影)

釈迦堂の木の根を見よや奥州の心根映し強く逞し










6 高館を見上げながら義経公の御神体の鎧が行く(遊行舟下り200年6月23日)
 
 


 
 

法螺の音が高館山に木霊して涙の如き雨そ強まる

大河から高館見上げ偲ぶらむ花ある武者の最期の一夜を

舟縁に思いの丈を「永訣の月」と描きし画家(ひと)が手を振る










7 義経公の北の方が再興したという衣川の雲際寺(義経公は自害後、妻子とともにこの寺に安置された?!)

2002年6月23日、岩手県衣川村の古刹雲際寺に行った。源義経公を偲ぶためである。雲際寺の開祖は慈覚大師と言われ、かつて天台宗牛局(うしまど)山梅際寺と呼ばれていた。その後、寺は、中尊寺の別院となっていたようであるが、源九郎判官義経が、文治二年十月(1186)に奥州に下ってきた時、乳母の菩提を弔うために自身の守り本尊である不動明王像(一説にはこの運慶作と言われる)を奉納し、北の方を新たな開祖として復興させたというのである。住職には、義経公が北国街道を廻り険しい山々を分けて来る時、先達の役目を果たしてきた民部卿「頼然」という身分の高い僧侶が、乞われてその任に就く。

判官二度目の東下りの時、身分の高い三人の僧侶が、義経主従を守り、奥州に伴ってきたと言われている。吾妻鏡では文治二年七月十日の条で、「叡山の悪僧俊章、承意、仲教が(義経)に同心して」云々とある。この時のエピソードが安宅の関を越える時の弁慶富樫の伝説の原形となったのであろうか。但し、実際には、山伏の特権など問題にならないような書状を持っての関所越えであったはずで、もう少しスムーズに奥州に入ったはずである。でも民衆は、苦労に苦労を重ねて、弁慶が心で泣きながら、義経を打つような苦労噺が聞きたいのである。それが義経伝説を生む根本の心情であり、民衆の「判官贔屓」の心の正体なのである。またそれは心のエネルギーそのものであり、だからこそ今でも日本人は、義経公を語る時には、老いも若きも、目が爛々と輝き出すのではある。そうした民衆の心の欲求に答える形で、芸の道に生きる者は「義経記」を練り上げ、さらにその種本が大きなうねりを生んで能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」などが作られてきたのである。弁慶という新たな架空のスーパースターは、そんな義経物語創作の過程でリアリティを持って作られて行ったということになるであろう。

さて衣川という河は平泉と衣川を分ける境界であり、衣河の館で自害した義経公は、聖域である平泉の中尊寺や毛越寺ではなく、この雲際寺に担ぎ込まれた可能性が高いと推測される。するとここでかの御遺骸は、整えられ、御首と御胴体が分けられたということになる。夏草の生い茂る雲際寺に来て、渡辺義光住職の読経と法話を聞きながら、ふと往時の情景が偲ばれ、目頭が熱くなった。


自刃後に妻子諸共運ばれて郭公啼けり判官の寺
判官の妻子も共に眠るらし雲際寺なる古刹に詣で来(までく)

つづく



開設日
2001.8.1
最終更新日
2002.7.1