2003.1.12〜2003.6.14
最近の平泉町長さんの抱負を拝見させていただいたのですがしきりに開発の言葉を多用していると感じました。それらをよく吟味してみると大型観光地としての地にふさわしい物を揃えないと観光客の増加は望めないとの考えのように思えました。一般の日本人自身はよく事あるごとに 我々はちっとも豊かさを感じないし豊かではない。 と言います。しかし他国とくに東南アジア諸国からすれば道路に金が散らばっているようにもみえる金満大国なのです。やれ駅前の開発だの水辺プラザだのと平泉ブランドの確保に躍起となっていると思えてなりません。最近陸中海岸が世界遺産に登録をと運動を始めたようですが日本全土で世界遺産ブームが巻き起こっている。愚かとしかいいようがありません。
それでは平泉駅前の古都にふさわしい開発とは一体全体どのようなものなのか。角館のような建物を建てるのか全くその思想が備わっていない。平泉の自然を味わいに訪れるのにその自然自体を自動車の休憩所とコンビニを作るために何の躊躇もなく破壊するその神経を疑わざるを得ません。自殺行為に等しい。本当に価値のあるものや自然というものは
将来大金を払っても手に入れられなくなるといいます。そういう時代はもはや始まっているようです。
かつては日本のチベットといわれた岩手県。しかし乱開発が後を絶たず傷跡が生々しく思える。例えば浄法寺町ですが稲庭高原というのがあります。このあたりは日本を代表する渓流が多く手付かずの自然が多かった。しかしこんな山奥も川はコンクリで埋められふっと高原を見上げるとグロテスクな風力発電の鉄塔が立っていた。私は正直彼らは何を血迷ったのかと思った。山奥に大自然を堪能しようと来たのにこの有様である。
またある日八幡平の近くの松川の渓流である日突然工事が始まり無残にもその自然は葬り去られた。その数日後新聞紙上に代表者の挨拶としてどうしてこの工事が正当であり必要かとの説明が掲載されていた。とにかく残念でならない。ところが奥岩手を縦断する道路が開発中止に追い込まれたのは記憶に新しい。実際にこの自然の恵みを知り尽くした人たちの声が政治を動かしたのではないだろうか。
町長ならび町議会の人たちも地元の選挙での支持を得るためには実際事業を取り付けて業者を養っていくという使命があるのだろう。そういう意味では地元の為に政治を行っていると言えるだろう。今回の問題は名もない地方の町村での出来事であったなら何の反対意見もなかったであろう。しかし事ははるかに重大である。平泉を重宝し訪ねて来る人々の多くはその自然と文化歴史の織り交ざった独特なる景観を見に来るのである。もちろんただ自動車でレジャーで来てはすぐ次の観光地に向かう人々も多いことは事実である。
日本全土に目を向ければ徳島の吉野川の計画も地元の反対で中止となり何度も洪水の被害に会ってきた川の中島で農業を営む人たちも洪水いたし難しと結論を出した。洪水と共に生きて行こうというのである。島根県中海の干拓もやっと中止となった。大金を浪費してもそれと引き換えに失うものがあまりにも巨大であることを悟ったからではないだろうか。長崎県の諫早干拓も同じ運命を辿るだろう。この様に公共事業で税金を浪費しても失われる自然の価値の方が莫大なものであることをすでに日本人は分かっているのである。
前の管理人さんの説にありましたようにあの高館バイパスと休憩所を作るのは北上川の川辺にビニールハウスを建てて自分達で勝ってに満足している地元の人々のようです。
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竹西エッセイへの疑問 投稿者:佐藤 投稿日: 6月12日(木)10時49分05秒
橘次 さん
どうも。
竹西さんのエッセイ拝見しました。
情緒的で良いエッセイですが、ひとつ疑問があります。
この人は、最近の高館に登ったのでしょうか。
どうも私には、頭の中で書いているような気がします。
今こそ高館の現実をしっかりと見て、これを嘆いてくれなければ困ります。
最近の写真週刊誌のような「奥の細道」物やら平泉物が多く出版されていますが、
みな現実の高館には、目をつむってほおかむりで、観念的なことを言っています。
はっきり言わせてもらえば、この竹西さんのエッセイもこの感傷の的なイメージの
中で、観念的に書かれているものです。いつ登ったとも書いていないので、不明だが
もしも10年前だったら、これでいいかもしれない。しかしもし最近なら、彼女の
何かに「ほおかむり」を決めていることになる。
いったい誰に遠慮をしているのだ、と言いたい。
もしも現在の高館に登って、先のエッセイのようにしか感じないとしたら、彼女の人
文的感性を疑わざるを得ない。
歌人タワラマチと小説家立松和平の「新おくの細道」もそうでした。見てもいないで
書いている。NHKのテレビのタイアップの誰であったか、名も忘れたがその時の平
泉のエッセイもそうだった。
みな、義経の最期の地とそれを詠嘆した芭蕉のイメージを下敷きに書いている。
今回の竹西さんのエッセイもそうだ。杜甫にまで言及するなら、何故今この夢の跡
を台無しにするバイパスなんて造るのか。即座に中止すべき位のコメントは書いて
欲しいものだ。まあ、偉い人だから、自分の立場では、そこまで踏み込めないという
ことか。みんなほおかむり、みんな曖昧、これが平泉の高館を取り巻く現実だ。
ところで、2005年の大河ドラマが、義経さんに決まったようだが、高館のあの酷い
現実をそのままで、平泉町はこれも「ほおかむり」を決め込むのか。
幻想の夢の跡を見に来た観光客の100人に100人。千人に千人がみな口を揃えて、
「これはイメージにある夢の跡ではない。誰がこんな風にしてしまったのだ?」と言う
であろう。
もちろんみんなで決め込んだ「ほおかむり」がこのような高館の景観にしてしまったのだが。
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夢の跡 投稿者:橘次 投稿日: 6月 8日(日)00時06分01秒
ご無沙汰しております。最近、東北電力が出している『白い国の詩』に竹西寛子氏が次のような文章を書いておられたので紹介いたします。胸をうたれるかたが多いのではないでしょうか?
夢の跡
作家・日本芸術院会員 竹西寛子(たけにしひろこ)
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の詩を、自分なりに心に沈めたのは芭蕉の「おくのほそ道」を読んだ時であった。「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり」という一文の現れる平泉の項である。杜甫の詩の「草木深し」は「草青みたり」として引かれているが、芭蕉の「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」はここで生れた。
芭蕉の中の杜甫を知ってからほぼ半世紀の後、早春、私は初めて源義経の遺跡高館に立った。眼下に北上川を望む丘陵からの見晴しに息をのんだ。自分の耳目が実際に知っているどの土地にもない静謐に引き入れられたまま、宙にさまざまのおもかげを立てては消し、音を聞いては消していた。
北上川の大きな彎曲と手前の平泉の町、それに対岸の田畑との穏やかな調和に紛れもない二十世紀の国土を見ながら、その時の私は、人に尽しては背かれた義経の悲運を、その悲運への感情移入をわが俳諧探求の旅の一部とした芭蕉の人生のひとときと重ねていた。
花もいい。鳥もいい。だが、早春という度に近年まっ先に思い返すのは、あの高館から北上川を望んだ東北の春である。静かな大きな見晴しが、芭蕉が、義経が、杜甫が重なり合って私を呼ぶ。私はごく自然に古人の生に繋っている自分の現在を思い、言葉で生きた古人と離れようのない己れの今に安堵し、かつ恐れる。
言葉のありがたさと怖さである。
白い国の詩 http://www.tohoku-epco.co.jp
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人文的感性の欠如の日本人 投稿者: 管理人 投稿日: 6月 7日(土)17時54分05秒
かぐやさん
大変貴重なお話ありがとうございます。
慶応の川村晃生先生講演 「もう日本に道路をつくらせないわけ」要旨。
熟読させていただき、まったくもってその通りであると思います。
日本に環状型の道路が合わないというご指摘なるほどと感じました。ともすれば山を崩しあるいはトンネルを堀り、それをもって、かつては自然を克服する人間の科学文明の勝利のように言われている時期もありましたが、それが人間のおごりであると、やっと思えるようになって来た昨今であると思います。
その典型が、ダム建設ではないでしょうか。もはやダムにたい積する土砂や流木をどうすることも出来ず手をこまねいているではありませんか。裕次郎が、「黒部の太陽」という自然征服ものの映画を撮りましたが、あれが間違いであったとは。きっとあの映画が、未来において、20世紀の人間のおごった姿を象徴する映画として取り上げられる可能性があります。
夏目漱石は、イギリスに留学しましたが、水が合わないと見えて、ほとんど下宿先からでなかったようですが、先進国イギリスの首都を見ながら、これは日本もこれをまねたら大変なことになるぞと思ったのではないでしょうか。
美保の松原ですね。それから日本平から遠くに清水港と富士山を見るあの景観は、日本の代表的な景観ですね。外国の友人が、「今に広重や北斎がいたら、あの製紙会社の巨大な煙突越しの富士山をどう描くのでしょうね」と言って悲しい笑いを浮かべました。それから海岸縁に延々と続くテトラボッドとイチゴ畑のビニールハウス、これには辟易して、「どうしてこんなところにビニールハウスがあるのですか」と何度も首をひねっていました。役人だけではありません。変な景観にも馴れてしまって、眼が曇ってしまったのです。「人文学的感性の欠如」とは、日本人全体に問われていることだと思います。
京都でも、今はすっかり、あのミョウチクリンな京都タワーに馴れてしまっていますよね。最近では、漆黒の古都京都の夜空に、ケバケバしい照明に照らし出された京都タワーを「きれい」などと言っている観光客をみると、つくづくとそのように思うのです。
今後とも、かぐやさん 第二外環状道路の件レポートをお寄せください。私たちも注目して参りたいと思います。京都の里山の景観を崩すようないかなる道路も認めてはなりません。1200年に渡って形成されてきた大切な景観を、たかだか百年も生きない現代の科学文明のおごりから覚めない者たちが、画策する無謀・無内容・無感性な道路を造って、いったい誰が得するのですか。心からの連帯を表明いたします。
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もう日本に道路をつくらせないわけ 投稿者:かぐや 投稿日: 6月 6日(金)23時28分08秒
はじめまして。去る5月31日に「第二外環状を考える市民の会」第二回総会に出席し、慶応義塾大学の川村晃生先生による「もう日本に道路をつくらせないわけ」という講演を拝聴いたしました。要旨は以下の通りです。
日本の都市に環状型の道路は風土的にそぐわない。環状型道路は平地に立地する欧米だからこそ都市の縁辺に道路を巡らせることができる。対して日本は多くの都市が盆地や河川の河口部に立地しているため、環状型の道路を計画すると、必ず都市を取り囲む山々の環境、最近、里山と呼ばれる風景を破壊してしまう。古来日本人が愛してきた里山の風景は和歌などに詠まれた歴史的景観である。その歴史的景観の破壊が高速道路やバイパスという名目で破壊されている。
日本は道路の拡充がおいつかないほど車の台数が多くなってしまったことが今日の道路事情を引き起こした。つまり渋滞があるから道路建設をということでこれまで道路はつくり続けられたきたのである。これではいたちごっこだ。これには公共機関の移動手段を整備する必要がある。
高速道路や都市計画道路には多大な税金が使われている。そこには最近取りざたされている道路族立ちが横行するシステムが政治の舞台でできてしまっている。
長野五輪による環境・景観破壊を引き起こしたのは、「お金」だ。
近代文明をささえた科学にたいし、文学で対抗しようと思う。夏目漱石などの偉大な文学者は、文明の恐ろしさを目の当たりにし、文明が社会を便利にしてくれるが、人間を幸福にはしないだろうという予言を100年前にしている。現在はまさしくその予言とおりになってしまった。
最後に景観破壊を主導している人間に対し、人文学的感性の欠如という言葉を当てられた。静岡の景勝地である美保の松原はその海岸に注ぎ込む川の砂防ダムなどの人災によってテトラポットが並ぶ殺風景と成り果てた。この景勝地と元通りにさせようという運動をしている女性が御役人を車にのせ、現状を案内し「これを御覧ください」とテトラポット群をみせたところ、その御役人は、「これが気になりますか」と申したらしい。そういう人文学的感性が欠如した人々が日本の景観を破壊しているのだ。
我々は、道路計画にたいし意見する際には道路を日々活用しているという弱みがある。それを克服するためには我々の生き方も変えていく必要がある。
第二外環状道路とは、現在京都市内の南、石清水八幡宮より北側で行われている京滋バイパス(滋賀県と京都を結ぶ)と京奈和道(京都と奈良と和歌山を結ぶ)が交差する地点から名神高速道路大山崎に直結し、大山崎?長岡京?京都市西京区ーの山間部を通過して京都縦貫道路(京都市内から丹後を結ぶ)につながる道路のことです。狭隘な地形の大山崎は大規模な橋脚を持つ道路道路が交差するクロスロード地帯となり、第二外環状線道路のために学校のグランドが敷地にとられたり、中学校の側を高速道路が通過するという住環境の破壊も行われます。そして京都市西京区の大原野という里山には橋脚付きの道路が建設されるわけです。ここには在原業平のお寺や藤原氏ゆかりの大原の神社。西行ゆかりの勝持寺(通称花の寺)、西国三三ヶ所の札所でもある善峰寺などなどの古跡名跡が存在し、京都市内とは思えないのどかな里山の景色が残っている数少ない場所なのです。
このHPを通じて、第二外環状道路の現状を周知していただけたらと思います。
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水の都「平泉」が危ない?! 投稿者:佐藤 投稿日: 5月 3日(土)09時47分29秒
愛媛っ子 さん
仕事は、少し慣れましたか。世の中の矛盾の中に身を置きつつ、今あなた様がもっている純粋な無垢な精神を、忘れずに持ち続けてください。そしてあなたがたの世代が行政のトップに立つ時代には、その理想を実現するべくお励みください。
水は、どんなものにも変化をします。小さな古池の清水にも、そして人を襲う高波にも。でも自然に対する畏敬を失わずにいれば、水は人間にとってとても大切なものです。京都で国際的な水の会議がありましたが、かけがえのない水に危険が迫っています。
数十年後、深刻な水不足の時代が来ると言われています。岩波新書の「地球の水が危ない」(高橋裕著2003年2月刊)は読まれましたか。
さて平泉という中世都市は、北上川という大河の河畔に造られた都市でした。北上川は、歴史にも記述されない太古の昔から、そこには豊富な栄養によって、魚たちが棲み、鳥たちが憩ふところでした。人は、その魚や鳥を自然の恵みとしていただきながら、営みを続けてきました。北上川は、太平洋に通じる水の道であり、陸に道が造られるはるか以前から、人の生命を支えてきた、まさに命の川だったのです。
山には山の神が棲むように川には川の神が棲んでいると、人々は考え、川にも常に畏敬の念をもって、接してきました。川の氾濫は、大きな収穫をもたらす恵みであり、この氾濫を災害などとは、呼ぶものはいなかったのです。水を分け、水を引くことこそが、豊かさを呼び込む道でした。
もちろん水が来るような地域に、住居を造る人間も居なかったのです。そもそも「治水」という言葉そのものが、自然(水)を支配してやるぞ、というおごった考え方に思えてきます。
平泉は、風水の占いによって、選ばれた吉をもたらす都市として、築かれた、まさに水の都だったのです。これまでの平泉は、往時の平泉の都市景観を彷彿と偲ばせる雄大な景色が残っていました。もちろん平泉の高館直下の辺りは、川が氾濫を起こしたおりには、水が溜まって回遊しながら、自然と時間を掛けて、下流に流すための氾濫原でした。
現代ヨーロッパ辺りでも、この氾濫原を無くしたことが、昨年のような大洪水を起こした反省に立って、川の蛇行を取り戻し、自然の氾濫原を活用する治水法に戻りつつあります。ですから日本でも、単に堤防を高くしたり、ダムを上流に造るというこれまでの間違った近代河川工法を反省して、もしも田畑に洪水が及んだ時には、補助金を出すなどの政策に転換することによって、川の自然の活力が、回復することでしょう。
平泉の現在を見てください。もうそこには、人々を癒す夏草生い茂る自然はありません。どこにでもある河川敷が広がり、そこには、道の駅などという極めて名前負けしたどうしようもない建物が建てられようとしています。
そして今や、魚も鳥も住めないコンクリートで固められた護岸がどこまでも伸びようとしています。愚かなことです。昨年、自然再生法は、成立しましたが、タイムラグがあるのでしょう。土建屋さんを一時期だけ、延命させるための短絡的で時代錯誤な河川政策が、今だに幅を利かせて、水の都「平泉」は瀕死の白鳥の如くなってしまいました。
このことを平泉に住む人は口をつぐんで誰も話しません。あなた方のふる里は消えようとしているのですよ。
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久しぶりです。 投稿者:愛媛っ子 投稿日: 4月27日(日)13時33分28秒
最近結晶を撮った写真集を買いました。
とてもこの景観にも深く関わっている空気を感じたので投稿する事にしました。
その写真集はさまざまな地の水を結晶にして、それを写真にしているものでした。
美しい結晶、自然の偉大な綺麗さに圧倒されました。
その中で、ずっと非難の言葉をかけつづけた水。
綺麗だねと言いつづけた水。
その二つを結晶にし比較した写真がありました。
あまりにも違いがありすぎてとても同じ水とは思えないほど、
非難されつづけた水の結晶は形を崩していました。
その写真に衝撃を受けました。
「人間の身体は7割が水、だからやさしい言葉をかけるととても綺麗になろうとする」
なら原形の水はもっと純粋にその心が反映されます。
非難しつづけられた水...。
土地開発の為に地を殺された地。その地にも確かに水は在る。
そして開発され、景観が綺麗でないと非難され続けて生きているその地の水たち。
人間の都合で地を壊されたあげく、もとの地ではないと見放されている地..水。
姿は変えられても、元の地と変わらないのではないのではないでしょうか..。
「綺麗でないから」そんな理由で見放して、非難して良いのでしょうか..。
例えどんな姿になろうとその地は変わらずそこで息づいているんですよね。
息をし、水を生み、人間に生を与え続けてくれている。
その変わらない本来の地を、人工的に変えてしまったのを、「他」せいにし、
変えられた姿すら愛することが出来なくなっている自分に気づきました。
とても恥ずかしくなりました。
非難をし、幻滅を勝手にしていましたが、例えその事業に関わっていなくても人間の行為に
変わりない。それを少し変わったくらいで愛せなくなる人間の勝手な心。
私の矛盾した、そして残酷な心。
どんな姿になろうと、深い深い歴史を見続けた地、そして水に変わりないのに。
その存在がないと人間が生きていけないことをいつのまに「当たり前」にしてしまった
のかと..。
改めて気づかされました。
どんなになろうとその地はその地。どんなに時を重ね、姿が変えられようと、その源は
決して変わらない。
私は間違えていました。ありのままの今の地をどうして「違う」といったのか。
言葉は地に水に...あまりに残酷に届いていたんですね。
今生きているこの瞬間を与えてくれている地に..水に..。
今一度言葉を。
「ありがとう、ありがとう。与えてくれて、綺麗に生を与えてくれてありがとう」と。
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平泉の都市計画マスタープランを貫く思想 投稿者:佐藤 投稿日: 4月
7日(月)19時04分12秒
広報平泉4月号に千葉和男町長の3月6日の施政方針演説が掲載されている。その中で、特に平泉バイパスの問題に関連する事項が、気になった。これは、平泉の都市計画のマスタープランに沿って述べたもので、高館からの景観が無視されているのが顕著なので、よく読んでいただきたい。いったいここにある「道の駅」とか「水辺プラザ」というものは、高館の夏草の景観を台無しにしてまで必要なものか、理解に苦しむ。また平泉バイパスを国土交通省の英断として捉える感覚は、歴史の町のリーダーの発言としては大いに疑問が残る。尚、平泉町の都市計画のマスタープランが3月19日に町の都市計画審議会で承認され、近々県側に報告をする予定だという。祈りの町から観光の町へ主客転倒の結果、招来する現実を平泉は否が応でも受け入れなければならない。平泉に来る人で、大方の人は、高くなった堤防を見にくるのではない。芭蕉が、夏草やと詠んだ、景勝の地を見に来るのだ。山菜やリンゴは、他の場所で買えば足りる。しかし夏草やの場所は、世界にここにしか存在しないのだ。今の情けない高館の景観を千葉町長は、英断と言った。忘れまい・・・。
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第6に「行き交う便利なまち」について申し上げます。
はじめに、地域基盤の整備につきましては都市計画マスタープランに基づき、平成15年度から都市計画の全体的な見直しを行い、町民が快適で安心して暮らせる「まちづくり」に努めてまいり。
国道4号平泉バイパスが国土交通省の英断の下に、平成19年度末をめどに全線開通させるとの見通しが示されましたが、その間の国道4号の慢性的な渋滞解消対策を引き続き関係機関に要望してまいります。
道路網整備につきましては、中学校線、髢石線、ウォーキング・トレイル事業等継続実施しておりますが、厳しい財政事情でもあり、緊急性の高い生活道路を優先的に整備してまいります。
都市計画道路毛越寺線改良工事につきましては、倉町遺跡の発掘調査の結果貴重な遺跡が出土し保存することとしたため、事業が1年ほどずれ込む見込みでありますが、地権者の理解を得ながら早期完成と、平泉駅前広場整備につきましても、町の玄関口としてふさわしい一体的な整備を岩手県に引き続き要望してまいります。
また、道の駅につきましては、国道4号平泉バイパスの開通に併せたオープンを目指して、国道利用者への沿道サービスだけではなく、「新たな平泉の地域振振興拠点」として位置づけ、さらには、世界遺産登録に向けた「平泉の文化遺産」を全国に発信するための中心施設として、水辺プラザ、防災ステーションなどの計画、ならびに無量光院跡・柳之御所跡遺跡復元構想や景観との整合性を図るため、民間も含めたプロジェクト会議を組織しながら基本構想を策定してまいります。(広報ひらいずみ四月号より抜粋)
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外国人ドナルド・キーン氏が見た平泉 5 投稿者:佐藤 投稿日: 4月
4日(金)16時35分55秒
?5 金色堂は、極楽浄土をイメージする装置か?!?
浄土のイメージを観想することを説いた観無量寿経(浄土三部経ひとつ)という大乗仏教の教典がある。このお経は、イダイケというインドのマガダ国の后にブッダが、浄土に往生するための方法を懇切丁寧に説くという形式で書かれているものだ。実に浄土の具体的イメージが伝わってくる教典だ。
ブッダは幽閉されているイダイケに、「浄土を観想する方法」をこんな感じで説く。
「『・・・生ける者よ、心を一つにし、思いを集中して西方を観想せよ。目のあるものは、皆沈む太陽を見ることができるはず。西に正座して、沈む太陽を見よ。・・・見終わったならば、その像が目を閉じても、明確にその像が観想できるようにせよ。これが日想である。・・・次は水の観想をせよ。水の流れの微細な様を見て、それを明瞭に心に納めよ。次に氷を想え。次に青き瑠璃(るり)の宝石を想え。・・・これ水想である。・・・次大地、宝樹、宝池を観想せよ。極楽浄土には、八つの池水がある。七宝よりなり、それは柔らかな宝石で、あらゆる願いを叶えてくれる源から溢れて、十四の支流へと分かつ。次に楼閣を想え。この中には、無数の天人がいて、無上の音楽を奏でる。・・・ここまできたならば、極楽浄土を観想したと言えるだろう。』・・・さてこの時に、イダイケの前で、阿弥陀如来は虚空に現れ、観音菩薩と勢至(せいし)菩薩がその両脇に立ったのでした。そして、イダイケは、ブッダに言いました。『尊き人(ブッダ)よ。私は、阿弥陀様とふたりの菩薩を見ることが叶いました。しかしこれから生まれて来る者たちが、どのようにしたら、この三人の菩薩を見ることができるでしょうか。』ブッダは答える。『仏を見たければ、七宝の大地の上に蓮の華を想え。蓮の華が美しく微細に咲き誇るのを想え。その花びらには、八万四千の筋があり、そこから八万四千の光が射し、金色の光をなす。鏡に己の顔は映るようにその華を想え。そうしたならば次には、心を一所に集めたならば、心の眼が開いて、華の台座の上に座す金色の仏を観ることが叶うであろう・・・』」(意訳して簡略化=佐藤)
金色堂の内陣の中央には、まさに阿弥陀様が中央に鎮座し、その両脇には観音様と勢至様が控えているが、この姿は、この観無量寿経の教えからきていることは確かだ。つまりこの金色堂は、ここを訪れる者に、より具体的な形で、極楽浄土を観想させ、往生するための方法を教え諭すために建てられたとも言える。いやもっと分かり易く表現すれば、金色堂は、極楽浄土を観想するための装置だった可能性がある。
考えて見れば、金色堂は、関山の高台にあって、蓮の華の如き形状をしている。金色堂は、黄金の蓮としてイメージされたものかもしれない。そして平泉のどこからでも、日の光にあるいは月の光に照らされて極楽浄土の池に咲く蓮華のように輝いて見えたことだろう。キーン氏は、「現実的」(リアリティ)という言葉を使ったが、それは金色堂というものが、初めから訪れる者を浄土のイメージを観想させるために造られたためなのかもしれない。あのように多くの園池を各所に配置した理由も、観無量寿経を読めば、よく分かる。やはり金色堂は、観無量寿経の説く極楽浄土をイメージして造られた可能性が高い性が高い。同時に平泉という都市も、極楽浄土をこの地に実現しようということを基本コンセプトとして設計された中世都市であったのである。つづく
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外国人ドナルド・キーン氏が見た平泉 4 投稿者:佐藤 投稿日: 4月 3日(木)18時17分31秒
?4 清衡公の思想?
「吾妻鏡」の文治5年(1189)9月11日の条に、中尊寺の心蓮という高僧が、祈り都市である平泉という都市を征服者の手から守るべく、清衡公の祈りの思想をもって、平泉の歴史を平泉に駐屯中の頼朝に語った。内容は、どのようにして平泉という都市は造られたか、そして又、清衡公という人間はどのように信心深い人物だったのかということに尽きる。所謂「寺塔巳下の注文」(じとういかちゅうもん)と云うものである。
「…(前略)金色堂ですが、上下の四つの壁から内殿で至るまで皆金色でできています。堂内は、三檀を設えてありますが、ことごとく螺鈿でできています。阿弥陀三尊、二天、六地蔵があり、これは定朝が造ったものです。鎮守として、南方には日吉社を祀り、北方には白山ノ宮を勤請してあります。この外に宋本の一切経蔵、内陣から外陣に至る荘厳、数棟の楼閣なども、その報告についても怠りなく、およそ清衡公の在世期間三十三年の間に、わが国の延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺などから、中国の震旦(しんたん)天台山の根本道場に至るまで、寺ごとに「千僧供養」(せんそうくよう:千人の僧侶を集めて行う大法会のこと)をしてきました。(その信心のお陰か清衡公は)入滅の年に臨んで、にわかに逆善を始めてこれを修め、それから百ヶ日間の結願の時に当って、ひとつの病もなくして、ただ合掌し、仏の名を唱えながら、眠るようにお亡くなりになったのでした。(後略)」(現代語訳佐藤)
この文章を現代語に訳しながら、不思議な気分になった。清衡公は、その在位にあった33年間の間に、千人の僧侶を集めて、盛大に執り行われる千僧供養の大法会を、次々と日本の名だたる大寺院で開催した。まず延暦寺(京都)、次に園城寺(おんじょうじ:滋賀県にある三井寺の別称あり)、東大寺(奈良)、興福寺(奈良)…。ここまでは何となく理解できる。しかし中国の天台山の根本道場にまで、人をやって、千僧供養を行ったというのである。とうてい初めは信じられなかった。もちろん財力があったからできた訳だが、お金があるからできるという類のものではない。清衡公の信心の深さというものがあって、初めて叶うものだ。願文の行間というものを、何度も繰り返し読むうちに「なるほど、清衡公ほどのひとならば、その位の事は成し遂げてしまうかもしれない」と考えるようになった。こうして初代清衡公は、大治3年(1128)、おそらく阿弥陀仏の来迎を観想しつつ、仏の名を呼びながら、見事な大往生を遂げた。享年は73歳であった。
もしかすると、金色堂の中で、ドナルド・キーン氏が感じた「平泉は一度も死ななかった」との直感は、清衡公の魂が、金色堂の内陣にあって、永遠の命を得て生き続けているためかもしれないとさえ思えてくる。つづく
外国人ドナルド・キーン氏が見た平泉 投稿者:佐藤 投稿日: 4月 2日(水)22時19分50秒
?3 平泉に永遠に生き続けるもの?
そのように考えてゆくと、平泉の金色堂そのものが、生あるひとつの生き物のようにして存在しているのかもしれない。古来より、日本の考えでは、死は肉体の消滅であって、魂の消滅ではなかった。古事記や日本書紀の中でも、イザナミの尊が、カグツチという火の神を生んで亡くなり、「黄泉(よみ)の国」という冥界へと旅立つ。黄泉の国は、根の国とも言われ、罪や穢れの集まる所と考えられていた。また古代には、黄泉の国とは、別に「常世(とこよ)の国」という考え方もあった。ここは、日本列島に住んでいた古代人たちが、信じていた海の彼方にある楽園のことである。おそらく日本列島に住み着いた縄文の民にしても弥生の民にしても、自分の体内に遠い祖先たちが、命の危険を冒しながら大海を渡って来た記憶があったはずだ。と同時に、海の向こうには、必ず常世があると思っていたに違いない。仏教の言葉で言えば、黄泉の国は、「地獄」あるいは「奈落」となり、常世は「極楽浄土」となる。
キーン氏は、直感をもって、平泉こそ常世だと感じた。氏はこんな風に平泉の印象を語っている。
「京都の東寺には、金色堂と同じような仏像がたくさん並んでいます。しかし金色堂の仏像と比較すると、感じが全然違うのです。東寺の場合は大きさ、すごさを感じますが、金色堂の仏像にはまったくすごさは感じません。むしろ金色堂に立つと自分が巨人になったというような錯覚を起こします。仏像はみんな小さく見えて、自分だけが大きい感じです。…(中略)もし清衡がはじめから金色堂を自分の墓として建てたとすれば、自分が仏像よりも大きいということになります。別の言い方をしますと、金色堂にあった三大の藤原将軍たちは、みんな浄土へいかなくても、けっこう浄土に入ったのです。このこの土地が浄土であるという印象が非常に強いのです。極めて現世的なのです。これほど現世的なところを私は知りません。あの世がいらないのです。この場所より美しいところは他にはあり得ないと考えられます。あるいは初めから永久に生きることを望んでいたのではないかと思われます。」
平泉という都市を建都した初代清衡の心には、初めからこの場所に極楽浄土を造る。そこで永遠にここに留まって永遠にこの地を見守り生きる。そんな思いがあったのかもしれない。確かにキーン氏が言うように清衡公が、そのような発想をもって、平泉を都と定めたことは、十分に考えられることだ。金色堂がある中尊寺を、平泉の住民たちは「山」という言い方をする。「山」とは、古来、神が鎮座する神道の思想に叶う場所である。神道の考えによれば、人は死後、山には行って神となる、そう思われていた。清衡公以下藤原三代の将軍たちは、山に鎮座して、平泉という都市を万民安寧の都として、祈りつつ神や仏となる己自身を強く意識していたのであろう。清衡公が、強い思いをもって起草させた中尊寺供養願文の行間を読めばそのことは一目瞭然に実感できる。
「…蓬莱山にある御殿に、太陽と月の光が、音もなく静に伸びて、善行という林の中で (私は)煩悩から目覚め、すっかり心が晴れ渡りました。まるで金輪王(転輪王のうち最後に出現し、金の輪法を感得して四州全体を治めるとされる聖王)のように、心は不動となり その衣すら動くことは無くなりました。」(中尊寺供養願文抜粋現代語訳佐藤)
これは私の推測であるが、ここにある「蓬莱山」とは、中尊寺のある「関山」を指し、御殿を「金色堂」と考えたらどうであろう。まさにこれこそが、キーン氏が直感した「現世的」ということではないだろうか。もっと分かり易く言えば極楽浄土なのである。できてからしばらく、金色堂は、皆金色の眩しき姿を、見せて四季を通じて朝な夕なに眩しく輝いていた。おそらくその姿を見た者は、ただ手をあわせ祈りを捧げずにはいられなかったに違いない。金色堂は、この平泉の中心にあって永遠に輝くという意味で皆金色の祈りを込めた生気溢れる御堂であったのだ。
ただ中尊寺供養願文には金色堂の記述がない。それは歴史のなぞとされている。おそらくその意味は、金色堂が、私的な自らの御霊屋(みたまや=墓)として建てた為であろう。そこには中央に対する遠慮がある。遠慮は抑制と言い換えられる。だからこそ金色堂は、あのように小さい御堂でありながらもあのように限りなく美しいのではないだろうか。しかもそこに凝縮されている思想というものは、実に壮大で、世界精神に連なる発想が見える。悲惨な戦争を経験した清衡公だけあって、その平和への祈りは、人類がこの世に存在する限り、永遠に生き続ける思想だ。つづく
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(無題) 投稿者:鈴木 投稿日: 4月 2日(水)11時36分55秒
世界一のトンネルや橋を作る技術はもっている。しかしそういった現代の科学の力を行使してしまえば問題が解決されるとはとうてい思えない。そういう時代であるからもっと慎重に事を運ばなければ大きな悔いを後世に残してしまうと思う。私は今回のこの問題でそれこそ何十万人という人たちがそれこそ日本全国で嘆いておられると思う。それほど平泉に魅かれた人々は多いのではないだろうか。忘れてはならない。あの高館と北上川は平泉の片方の半分であり中尊寺一帯が夫ならば妻のようなもの切っては離せないものである。
何度も書くが地理的にも小さい所に落書きをするような行為はとにかく愚の骨頂であろう。しかしこの工事もすでに契約済みでありそれを覆すのは相当難しい。なぜならばそこには利権が絡んでくるからである。我々日本人は優れた民族であるのは間違いないがこういうところで町の景観という点で思想の未熟さがあるといわれても仕方がない。
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(無題) 投稿者:鈴木 投稿日: 4月 2日(水)11時05分08秒
平泉の駅を降りて散策してみるとこの町が単なる観光地ではなく信仰の対象として威厳の思いをもって崇めたれ守られてきた事がよく分かります。町の役人並びに地元の人々もそれに従っていわばいろいろな規制を守りながらもこの心の落ち着く光景を保ってこられたのでしょう。俗なる物がなく人々も商売っ気がないというかつまり聖なる場所の邪魔にならぬようにとひっそりと商売をおこなっている。その為か醜い広告やら郊外店は見かけられず月見坂から腰をゆっくりと下ろせば目の前に広がる穏やかなる田園。高館の上から眺める景色も何にも比べられない独特なるそしてこの世界に存在する唯一のものと感ぜざるを得ない。
故に平泉は東北のある武家屋敷と桜で有名な観光地とは性格が異なりまさしく観光セットの町ではない。 この地に足を運べば松尾芭蕉の句と想像が重なり色々な思いが浮かび上がってくる。中世の大都市であったが今は農村。果たして往時の姿は?彼らは日々の思いをどの様に過ごしたのであろうか?こんな小さいひそっりした町にある中尊寺の金色堂は良くぞ守られてきたものだ。等などその興味は尽きない。
確かに土木技術の発達した21世紀であるからほとんどどんな工事も可能であろう。世界一の豚エル
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外国人ドナルド・キーン氏が見た平泉 2 投稿者:佐藤 投稿日: 4月
1日(火)18時23分45秒
?2 金色堂にみなぎる生気?!?
東北に生を受けた者としては、どうしても、文治五年(1189)の9月の奥州合戦の敗北によって、奥州は滅びてしまった、と考えがちだ。しかしキーン氏は、それでも平泉は生きていたと考えている。その第一の理由は、氏が昭和30年に、金色堂に入った時の直感よるものだ。その時の感動を、氏はこのように語っている。
「それ以前から私は写真などで平泉の仏像を知っていましたけれども、実物を見ると、そのすべてが一体の仏像でなく、全体が私の目に入った。そうすると私はまったくその中に溺れるような気持ちで、出られないような気持ちになりました。そうすると私はその世界に入った時、震えたのです。それは極めて直感的な話になりますが、私の場合、いつも直感を大事にしています。つまり美術に限らず、音楽でも、なにか私の背骨に冷たいものを感じたときに、本物にぶつかったのだと直感するのです。この直感は極めて非科学的ですが、金色堂の内陣を見た時に、私はきっとその全体的な美しさに驚いたのだと思います。中宮寺の弥勒菩薩はすばらしい飛鳥彫刻の代表作品ですし、広隆寺の国宝、弥勒半跏思(かし)像もすばらしい作品です。しかし金色堂の場合は、一つの世界が私の目の前に広がっているというような感じで、ものが言えなかったのです。」
西洋人は概して、日本人に比べて論理的思考の傾向が強いと言われる。その西洋の知識人が、直感で、金色堂のすごさを感じ取ったというのは面白い。思うのだが、芸術の本質は、論理性にあるのではなく、直感性にこそある。キーン氏が感じ取った金色堂の感動は、何か得たいの知れない生きているものがそこにあるという直感だった。考えてみれば、仏像にしても、清衡公・基衡公・秀衡公の御遺骸にしても、死した骸(むくろ)に過ぎない。しかしそんな命なきものが納められてお堂で、氏は生を感じたのである。つづく
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外国人ドナルド・キーン氏が見た平泉 投稿者:佐藤 投稿日: 3月31日(月)20時43分31秒
?1 平泉は一度も死ななかった?!?
著名な外国人日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、最初に平泉を訪れたのは、昭和30年ことだった。「奥のほそ道」を何度も読み、氏は矢も立てもたまらずに平泉にやってきた。そして平泉を訪れた時の印象をこのように記している。
「私は日本にきてからすばらしい仏像に夢中になって、これこそ絶対的な美だと時々感じたことがある。広隆寺の薬師如来などがそうであった、だが、震えるほど美に打たれ、自我を忘れて、この世でない世界に入ったと感じたのは、中尊寺の内陣を見た時だけである。」と。
後に、昭和59年9月に「東北文化シンポジウム 平泉」(主催岩手日報社)というシンポジウムで、盛岡にきた時、そのことを振り返って、次のように述べている。
「芭蕉の俳句の中で、いちばん感激するのはどれかと言われたら、高館にのぼれば・・・として詠んだ、”夏草や兵どもが夢の跡””です」
そして、芭蕉がたどった跡をたどってみて、一番強い印象を持ったのは、やはり平泉だったと語っている。
もちろん芭蕉の「おくのほそ道」というものには、芭蕉が多くの虚構を含ませていることを氏は十分に知っている上で、氏はこのように芭蕉の芸術的感性と古都平泉についての熱き共感を語った。
「しかし結局のところ、芭蕉は平泉のいちばんたいせつな真実をいつかんでいます。旅行会社の案内パンフレットにあるような事実をのべたものはたくさんありますが、平泉の特別類まれな美しさや偉大さについて、芭蕉以前にも、芭蕉以降にも書いた人はひとりもおりません。・・・(中略)文化の中心地から遠く隔たった土地の文化、それが平泉文化の特徴です。」
優れた芸術文化というものは、何も文化の中心地にばかり創られるとは限らない。中国の敦厚遺跡だって、カンボジアのアンコールワット、ビルマのバガン、ジャワのボルブドゥールなど、極めて辺境なところに育った文化だ。しかもそれらの遺跡は、長い年月を過ぎて、風雨に晒され、忘れられてしまっている。そしてその忘れられた文明の優れた芸術性を発見したのは、外国人から来た旅人であった。中国の敦厚は、イギリス人、アンコールワットは、フランス人、ボルブドゥールは、オランダ人が発見したものだ。
多くの滅び去って忘れられた文明と比べて、平泉の違うところがある。それは平泉が一度も日本人から忘れられなかったという一点である。これはドナルド・キーン氏が、「平泉は一度も死ななかった」という表現で強く主張されていることだ。ではなぜ、氏が言うように平泉という都市は、「死ななかった」のだろう。つづく
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平泉を「夢の島」にしてはいけない!! 投稿者:佐藤 投稿日: 3月31日(月)18時33分25秒
筆武将 さま
こんばんわ。
書き込みのご主旨は、東京湾にハワイのワイキキビーチのような「夢の島」を造ろうとして頓挫したことについての日本人の国土開発思想のテイタラクぶりを言っておられるのですか。往々にして日本人は、国土開発のグランドデザインがないと言われますね。日本の中でも有数の景観を持つ、美保の松原から日本平にかけての景観は、テトラポッドの林立と製紙会社の白煙を上げる煙突によって、無惨にも殺されています。
ハワイのごとき夢の島が一転してゴミの島と化したのは、偶然ではありません。本気で、そこにハワイをと思ったのではないのです。そこには公共事業という全く持って美意識とはかけ離れたものが働いているから、結局、ゴミの島になってしまうのです。
今、日本中が、このような拝金主義的な発想による開発によって、国土そのものが駄目になりかけています。最近でも、平泉から20数キロばかり南にある白鳥の飛来地「伊豆沼」のほとりから産業廃棄物が発見され問題になっています。周知のように、この湖沼は、渡り鳥を保護するための国際条約のラムサール条約でも指定されている美しい湖沼です。そこがもうゴミの投棄場のごとき有様になっているのです。これだって、廃棄物業者を徹底的に取り締まるような法律がないから、投棄する側は、たとえ捕まっても、十分に利潤に見合うことで、違法投棄を繰り返す訳ですね。
これも開発思想が、自然保護思想を常に押さえてきた結果なのです。大体、1972年にできた世界遺産条約を日本が批准したのは、それから20年後の1992年でした。早く言えば、日本は20年間時間稼ぎをして、日本列島改造論なる土建屋首相の日本の美しき国土をそれこそ「ごみの島」のように乱開発を続けてきたのです。
平泉が、一方では、世界遺産になるという崇高な目標を掲げながら、一方ではまったくお話にならない聖地破壊をしようとしています。沈黙の里となった平泉はこのまま沈黙を通して、第二の東京の「夢の島」構想のごとき状況になってしまうのでしょうか。
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つわものどもがゆめのあと 投稿者:筆武将 投稿日: 3月31日(月)09時42分08秒
つわものどもがゆめのあと
この春の訪れとともにカラフルな服や、ショーウィンドーのブランド品、心が浮き立つ時節
もわかるが、それも平和あってのこと。破壊されたイラクの建物や死傷した人々が毎日テレビで
報道される日々のなかにあっては、華やいだ気分にはなれない。いまから、およそ5,60年
まえの戦後間もなく時の総理が発起人となり東京湾をハワイのワイキキビーチのようにと一大
リゾートにと言う思いで「夢の島」と名打ち開発をはじめました。が、何が問題かその企画は、
途中で御とりやめ、いまの「ごみの島」になったのであります。
所詮、日本人のトップの話も前東京都知事の東京湾岸ビルディングも崩壊。なんだったのだろう。
日本のみなさんどう思いますか。
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高館は神聖なる塚である 投稿者:佐藤 投稿日: 3月29日(土)20時19分28秒
鈴木 さん
書き込みありがとうございます。鈴木さんの文章を読んでこんなことを思いました。
日本人は古来より、住まいなどを選ぶ時、神に伺いをたて、その地の吉凶を占うなどしました。平泉という中世都市も、初代清衡公が、神に祈りを捧げて造営した場所でした。特に高館山から柳の御所一体は、簡単に造作を加えてはならない神聖なる地域です。この地そのものが祈りの対象の西方浄土であり、歴史的に極めて重要な文化財そのもです。
柳田国男翁は、「塚と森の話」という文章の中で、「一つ一つの邸、一つ一つの田といえども、皆史料である。ことに古い邸宅というものは、隅から隅までも、先祖の計画、先祖の意志が表れている。」だから簡単にこれを動かしてはならないと結論付けています。
高館は、塚そのものです。この地で義経公が自刃したということの真偽については疑問はありますが、ともかくその後にここに住み着いて来た名もなき人々が、かの英雄の最期の地ということで、この地を聖なる地として守ってきたのです。それが俳人松尾芭蕉の感性に響いて「夏草や兵どもが夢の跡」という名句となって、今日に伝えられているわけです。
そんな神聖なる地が、今や多摩川縁の景観と大差のないものとなって、先の週間「奥の細道」でもその景観が紹介されない状況にまでなっているのです。この変貌振りを嘆いている人は多いでしょう。神聖なる塚を冒涜するが如き巨大なバイパスの建設は、単に景観が台無しになるという以上に奥州のアイデンティティの否定にも通じることにのではありますまいか。このことにつき、地元の人たちは、この地の神聖を長い間持ってきた先祖たちへどんな言い訳をするつもりでしょうか。
ましてや、この辺りに、コンクリートの巨大な構築物を造った上に、「道の駅」だか「水辺プラザ」だかを造り、団体客を見越して地のものを販売するなどは、余りにも短絡的な発想であり、平泉の建都に対する冒涜ともいえる所行ではありませんか。そんなことをしたら、必ず本物志向の人々がそっぽをむいてしまい、平泉という地域を見放してしまうでありましょう。日本中には、芭蕉の「夏草や」の感傷を味わってみたい、あるいは黄金の都の景観をを見たいという人がたくさんいるのです。その人々の心からの要求に、今はともかく、未来において応えられますか。残念ながら、どうあっても応えられないと思いますが。
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歌をトップページに添付させていただきます 投稿者:管理人 投稿日:
3月29日(土)19時20分08秒
詠み人知らず 様
心のこもった歌を詠んでいただきありがとうございます。
皆様にご紹介したいので、トップページの写真の下に掲示させていただきます。
今後とも、どうぞご支援くださいますようにお願い申し上げます。
皆様も、歌や俳句など詠まれましたら是非投稿してください。
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(無題) 投稿者:詠み人知らず 投稿日: 3月28日(金)20時57分21秒
(高館の無惨な現実に・・・)
春来れど芽ぶくものなき赤土の北上河畔ほろびの風吹く
(無題) 投稿者:鈴木 投稿日: 3月28日(金)14時19分14秒
どう考えても歴史的なる柳の御所のすぐ側にバイパスを作るのは愚かとしか思えません。それどころか一体全体どうしてそんな事ができるのでしょうか?ますます理解に苦しみます。新幹線も自動車道も避けて通ってくれたのにです。国土交通省の人たちがどうしてこれほどまでに道路に固執するかというと聞いたところによると一つの発注を契約にこぎつけるならば多額のコミッションを手にいれることが出来るからだそうです。
ソビエトや中国のような社会主義がこの日本にあるのですから。皮肉なものです。佐藤さんが指摘されたように平泉は単なる観光地と化し多くの観光バスが来ては何の躊躇いもなく去って行くアトラクション的なものになってしまったように感じています。 これは日本人そのものに問題があると思います。物質的にあまりにも豊かになったので金色堂をはじめて目の前にしても何も感じない。ただ月見坂を登って降りてくるだけの人々のなんと多いことか。祈りとか精神の世界が欠如してしまっています。
奈良に行ったときの事ですがとても不愉快さを感じたことがあります。それはあの有名な東大寺の大仏のすぐ真下で ニヤニヤした人間達がそれこそ笑顔を振りまいて御神籤を売っていたことです。私は腹立たしくなりまたし日本人として恥を感じました。
残念ながら中尊寺の境内でもそのような事を感じました。観光地として商売に忙しいので目の前の4号線をもっと広くして沢山の見物客を引き寄せようと考えてもおかしくないかもしれません。
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高館は消えた! 投稿者:佐藤 投稿日: 3月27日(木)19時46分49秒
皆さま、本日、角川書店より、週刊「おくのほそ道」という今流行の続き物写真文集が発売されました。ご覧になりましたか。本日創刊ということで、買って早速見たところ、「夏草や」の場所である高館からの景観がどこにも紹介されてはいない。たぶん人々の平泉に対する素朴なロマンが消えるということで、編集者はバイパス工事に関わるような写真の掲載を一切しなかったのでしょう。これは深刻に受け止めなければいけない問題を孕んでいます。
冒頭は小説家高橋克彦氏の「芭蕉が見た平泉/夢の跡」で始まる。さてどこにも夢の跡が見えない。確かに現在の「夢の跡」の現実をデンと紹介したら、平泉旅行に行きたいと思っていた人も考えてしまうに違いない。
そこにあるのは、大きく舞川のあじさい園と小さく柳の御所の史跡の門柱、無量光院、それに中尊寺の経蔵前の紅葉だけ。また柳の御所の写真も、バイパスの工事現場が見えないようなもので、実に悲しいものです。
次ページを開く。これまた束稲山からの夕暮れの写真で、高館の方向は外れて工事の跡が見えないように細工が施してある。右上には桜越しの束稲山と冬の泉が城の辺りから撮った衣川。左にやっと見えたのは、高館から義経堂へ続く石段のみ。
そして後は、14ページの「芭蕉が思いを馳せた源義経、悲劇の逃避行」と続く。このバックに夕暮れの高館の写真があるが、北上川の対岸から金鶏山の彼方に沈む夕日を撮ったものです。これまた工事現場が見えないようにしている。下には昨年亡くなった藤里貫主と思われる人物が、義経堂を開帳して、法要を営んでおられる写真。下には朝日に映える義経堂とパンフレット写真にある修理を施したばかりの義経公の木像の写真。左には藤原祭りで、毛越寺を出る義経公の姿だ。
要するに、このことは、平泉にとって、何よりも大切にすべき夏草の跡(文化的歴史的景観)が消え去ったということに他ならないのです。別に犯人探しをするつもりなどありませんが、計画をした国土交通省、結局それを認めた県と町。そして住民の皆さんにも責任の一端はあると思いますね。
何が大切なものだったのか。人はどうした訳か愚かなもので、失った時に気づくものです。多くの人は、高館からの景観について、世界遺産の感覚で、緩衝地帯(バッファゾーン)という認識だった。早く言えば、中尊寺と毛越寺があって、高館からの景色など、問題にしていなかったのです。
しかし新しい高館橋が出来た時に、はじめて事の重大さに気付いて、こんなに大きいものか、となった人もいたようですね。今や平泉の高館からの景観は、はっきり言って見るべき景色ではない。下で、鈴木さんがおっしゃったように、京都タワーと同じなのです。夕暮れに京都の駅前に白く浮かぶ京都タワーを見たことがあります。あれは京都には似つかわしくない悪趣味な構造物です。いやそれ以上にひどい構築物が、柳の御所と高館という掛け替えのない場所に聳えることになるのです。平泉バイパスです。北上川の対岸から見て、この方向は西方浄土そのものでありました。その前にデンとコンクリートの壁が立ちふさがる光景がもうじき現れます。
今トップページに柳の御所前の樹齢50年のしだれ桜を掲げているが、バイパスの道路の高さは、この木の6割の高さとなって、北上川と平行に北に伸びることになる。そして150mばかり言って高館の前を右にそれて、高館の真下を斜めに国道4号線に向かって走るのである。
結論です。近い将来高館に登る人は激減するでありましょう。何しろ平泉第一の景勝の地は消え去ってしまったのですから・・・。
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平泉を蝕んでいるもの 投稿者:佐藤 投稿日: 3月26日(水)22時36分42秒
鈴木 さん
はじめまして。
ご指摘、すべてひしひしと伝わって参ります。
第一のご指摘同感です。渋滞の価値観が、都心に住む人たちとは違うことを感じます。また急ぐ人や車は、高速道路を通れば良いわけですしね。
第二の問題は、少し説明が要るかも知れません。この平泉バイパスは、一石二鳥を狙った計画で、渋滞緩和と洪水被害を防ぐ堤防の敷設の意味があります。これはまったく別の問題であり、無理があると思います。今、世界的な異常気象の問題があり、最近の河川政策の世界的な流れは、洪水をダムや堤防によって防ぐという対処療法的計画ではなく、川本来の流れを取り戻し、蛇行させ、適切なな遊水池を設けることによって、緩和するということになって来ております。「洪水」とは昔は、恵みそのものでした。太古の時代から、文明は大河の洪水という恵みによって、もたらされたと言っても過言ではありません。
大事なことは、日本人は、このような自然の流れに合わせて、洪水を上手に利用することに長けていました。そもそも高館直下の夏草の景観は、北上川が、洪水によって溢れた時に、存分に滞留し、徐々に流れて行くような「遊水」という考え方にそって作られたものです。
藤原氏の時代も、何故この水の豊富な地に、都を造ったのかを考えれば分かることです。当時から、平泉はいたる所に水が遊び戯れるような水の都の景観がありました。芭蕉が見た景観は、自然が自然のまま、廃墟が廃墟のまま、ある美についての感動でした。
しかし今や、平泉に自然はありません。平泉に来る人は、自然の雄大な景観と藤原氏が創建した目には見えない「祈り」のようなものを見に来ているはずなのに。まるで平泉は、ディズニーランドの如く変貌させられようとしています。
第三の問題は、お説の通りです。何か国や県や町という単位で、官僚の皆さまが計画を遂行しているきらいがあって、誰が見てもこれはおかしな計画で、時代に合わないと言っても、通りません。平泉というものの価値そのものがほとんど無くなってしまうような、今回のバイパス計画であっても、最終的には「仕方がない」と口をつぐんでしまっているのです。
先日。3月22日に高館に登りました。人はほとんど居ませんでした。きっと高館の景観の変貌をみんなが知ってしまったのです。写真を観てください。どんどんひどくなります。ディズニーならともかく、コンクリートの橋脚を眺めに東北まで来る人はいないでしょう。まあ、世界遺産に登録された時には、一時のブームのようなもので、多少増えるかも知れないが、中長期で考えたらならば、おそらく、平泉を訪れる観光客は、減り続ける一方だと思います。芭蕉の見た高館の景色は、いよいよ、「おくの細道」という古典の中だけのことになってしまいかけています。残念ですが。第四の問題は、何事も、他人の眼で見て、考えよということだと思います。最近私は本気で思っているのですが、世界遺産の候補から外れてしまいかねないと思いますね。愚かな開発優先思想が、平泉という宝石を蝕んでいます。
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外国人のみた日本の街 投稿者:鈴木 投稿日: 3月21日(金)09時06分41秒
疑問その4 藤原氏は何のためにこの洪水のたびたび見舞われる土地を選んだのだろうか?そこをわざわざ選んだのは理由がある。それなのに自分の裏に雨水が進入したので堀を作ったほうがよさそうだ感覚でコンクリ堤防をつくるなんて全く愚かだ。
私は外国人達が日本を訪れたあるいは視察した内容の文章をよく見てきたが彼らが共通して言っている事といえばこの国のどこに行っても土建業者による工事でコンクリートが貼り付けられているという。大きな都市だけでなくどんなど田舎に行ってもである。岩手県だけでも必要もないのにそれこそせっせと作っている。自分達には美しく見えるかもしれないが外から来た人間にとっては幻滅以外の何者でもない。人間達はそれでもいいかもしれないがそこに住んでいる動物達は大いなる迷惑をこうむっている。
さて彼ら日本に住んでいない人たちが例えば京都という代表的な都市に来ると最初の印象はというと”東京よりは醜くないな。”である。もちろん京都は外見はコンクリートだらけでも古い寺院が沢山散らばっているのでそれらを見なくて本当の評価はできない。だが地元の人がもっとこの町を垢抜けた町にしなくてはと京都タワーを作った。彼ら外人達はそれが全く理解できないし反対に愚かしさを感じてしまう。
さすがに清水寺の隣に分譲マンションが建ったりはしないが。世界には観光で潤っている国が数多くある。私の予想では平泉という町も観光で潤っている町だと思う。その町の代表的な景観を真っ二つにするのは例えれば京都タワーのような感覚だと思う。
少し言葉が強くなってしまったが自分達がいいものと思っていても他人から見れば醜いと写るということを知ってもらいたいと思う。
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大いなる疑問 投稿者:鈴木 投稿日: 3月21日(金)07時14分13秒
疑問その1 バイパスが絶対必要というけれども平泉ほどの観光地ならば土曜日曜や祭日などは渋滞するのが当たり前ではないのだろうか。私が平泉に観光にいったときは渋滞など見たことがなかったが。自家用車でこのあたりを通ろうとするならば渋滞は当たり前と心得るのが当然だ。そうでなければ隣の東北自動車道を通るべきだ。それから平泉駅から中尊寺に向かう道は全く自動車が走っていないしがらがらである。
疑問その2 はたして平泉町で農業をしていられるお方たちは洪水がおこればそれが自分たちの即死活問題になってしまうという方が本当におられるのだろうか。日本人は先祖代々の土地といって死ぬまでその土地を手放さない精神があるがバイパスができなければ明日にでも死んでしまうような切羽詰った状態ではないことと察する。
疑問その3 岩手県の国宝の総数は日本では京都 奈良についで3番目に多いということを聞いたことがある。いわずと知れたことでそれらは平泉に集まっているのである。であるから勝手に景観を変えたり土木工事で土を掘り起こすなどの事は問題外のはずである。平泉の小さな町規模で景観をだいなしにするのでなく国家規模 国宝規模でその良し悪しを決めるべきなのに。
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京都で開催の「第3回世界水フォーラム」と平泉 投稿者:佐藤 投稿日:
3月17日(月)11時48分13秒
京都で、3月16日より、「第3回世界水フォーラム」が開幕しました。今世紀、世界中で、水不足が叫ばれる中で、期間中、「水と貧困」「水と平和」「洪水」などのテーマで、分科会や講演などが、開かれることになっています。
さてこの会議は、水の都の如き景観を持って建都された奥州の古都平泉の今後の流れにも大きな影響を与える問題でもあり、その動向に注目していきたいと考えています。
ともすれば、平泉を囲む北上川、衣川、太田川は、それぞれに人工的な造作が、洪水の常襲を理由にして、人為的な造作が施されていて、とても自然の流れとは言いかねる状況となっています。
昨年、夏世界中の川を巡っておられる天野礼子さん(公共事業チェックを求めるNGOの会代表)が平泉に来られて、北上川や衣川、太田川の状況をつぶさに見られて、がっかりされておりましたが、栗駒山に登り、ぶな林の中を流れる清流を手にとって、口に含むと、ふいにこんなことを言われました。
「平泉の世界遺産は、単なる文化遺産というよりは、自然文化複合遺産で運動をするべきではないの!?」
天野さんは、平泉が、栗駒山の下流域に形成された都市であり、また栗駒山は東北の背骨のように存在するぶなの山脈を通じて、白神山地(自然遺産)にまで連なっているということにいたく感激されているようでした。確か、日本にはこの自然文化複合遺産になっている地域はありません。考えてみれば、平泉という都市は、奥羽山脈からしみ出してくるぶなの滴を集めた水辺の都市なのです。
だから、この水辺の都市の歴史的景観を甦らせることが大切なのではないでしょうか。ところが現在の平泉バイパスの如き不自然極まりない構築物は、平泉の生命でもある水辺の都市のイメージを頭から否定するようなものに他なりません。「水フォーラム」の開催を契機として、平泉でもこのような取り組みが町民レベルで盛り上がることを期待したいと思います。
せっかく千年の町づくりなどということが、論議されている訳ですから、自然文化複合遺産ということを含めて、北上川という平泉にとっては、何よりも大切にするべき北上川を厄介者扱いにするような工事は即刻中止して、世界から讃えられるような景観を復元するような町造りが必要ではないでしょうか。
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忘れられる高館の眺望を嘆きて 歌十二首 投稿者:佐藤 投稿日: 3月
9日(日)12時33分18秒
奥州にも遅い春が来ました。また工事は粛々と進むのでしょうか。実に悲しい光景がそこにはあります。
沈黙の聖地となりてひそひそと「世界遺産」の声のみ聞ゆ
何方のことではなくてふる郷の祈りの聖地に危機迫り来ぬ
高館に春は来たれど霞たつ山河を遮るバイパスの影
空をゆく雲さへ此地行く時は畏まってぞ飛び行く見ゆる
さりとてもこのバイパスをこさへつつ世界遺産とは片腹痛し
忘られる高館山の眺望を書き留めおかむと歌作りおく
北上の岸辺に立てば赤々と金鶏山に夕日は沈む
幾度となく戦火に焼かれし草むらの雑草たちは逞しきかな
判官と消ゑゆきたりし忠臣の心を汲めば大河とならむ
道行ば朝日に映ゑしつゆ草の玉の涙に往時偲ばむ
滔々と清水溢るる北上の流路を分けてユンボは進む
この工事誰も良きとは思はねどそれでも止まず、公偉大なり
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若い人はバイパスをどう考えているのですか? 投稿者:未来からの使者
投稿日: 3月 5日(水)20時59分24秒
旅のものさんの書き込みを読み胸が張り裂けそうになりました。地元の若者たちは、何もかんじないのでしょうか。そこで書き込みさせていただきます。
今、何故地元で、平泉を語る人が居なくなってしまったのでしょうか。この掲示板にも地元の人は少ないですね。バイパス工事に矛盾を誰も感じつつも、それを感じまいと無理に抑えているのでしょうか。今平泉には、一種のえん戦気分のようなものすら漂っているのでしょうか。白旗の降参ですか。柳の御所の真上を通る時に見られた意識の昂揚は、どこへ行ってしまったのでしょう。あの時、必死で平泉の景観を守ろうとした人たちは、どこかへ消えてしまったようですね。多くの市民や研究者、観光客の人々が、反対の署名をし、それが世論となって、バイパスのルートは変更になりました。推測するに、運動の時点で、人々のエネルギーは消耗してしまったとしか言えません。きっと反対をする過程で、その人たちは、嫌な思いを沢山したのでしょう。そこで運動が一段落をしたとき、もう沢山ということになって、平泉の問題を誰も触らなくなったのでしょう。でもみなさんそれで本当にいいのですか。平泉バイパスを通していいのですか。
現在は過去から造られるといいます。結局、バイパスルートの変更で、運動が萎えて途絶えてしまった結果が、現在の平泉のあのひどい景観を形成しているのです。そして未来の景観は、現在が造るものです。しかし一方では歴史的文化景観を根こそぎ破壊消滅させておきながら、一方では、平泉の世界遺産登録促進運動をしているという矛盾をどのように理解して良いか。理解に苦しみます。恐るべき二枚舌としか言えないのではないですか。これには完全に言葉を失ってしまいます。
このことについて、地元の政治家は何と言っているのでしょう。結局「地方自治の時代、地元の意向が優先される。」と杓子定規な話でしょうか。つまりは票が欲しい政治家と地元の利害優先の沈黙でしょうか。とすれば、世界遺産の運動も所詮は、観光開発くらいにしか思っていないことになるのではないですか。
ひとりの勇気ある人はいないのですか。奥州に咲いた黄金の都の美しさは、かけがえのない未来への贈り物にすると奮い立つ人はいないのですか。若い人、若い人たちが、行動を起こさずして、誰が未来へこの平泉の有形無形の宝を伝えてゆくのですか。消え去ろうとしていますよ。あなた方の祖先たちが営々として守り抜いてきた遺産が風前の灯ですよ。いいですか、あの無量光院の趾に行って、瞑想してください。何故あなた方の先輩たちは、堀の形をそのままに、あそこに稲田を作ってきたのですか。中島もそのままです。結局、自分の代で精一杯の遺産管理をしたきたからこそ、あのように不合理ながら丸い形の田んぼになっているのでしょう。今田んぼは大きければ好いといって、農地改良事業が推進していますが、平泉や衣川のような歴史的地域でこれをやれば、昔の地割りが壊れてしまいます。無量光院を守った人たちの気持ちを私たちは理解しなければいけません。平泉はかけがえのない人類共通の宝です。安易な平泉バイパスのあのデタラメな造作が、平泉を駄目にするのです。
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平泉で感じたこと 投稿者:旅のもの 投稿日: 3月 1日(土)12時01分51秒
私は柳の御所資料館に行き展望台から工事風景をずっと見ていましたがダンプカーが唸りを上げて走っていました。信じられない光景でした。なぜならば私は自然のままの静かなるこの町が好きであるからです。小さいながら800年前の大都市が埋まっているしまだその全容がわかっていない言わば町全体が発掘にふさわしいといえる町。しかし今は普通の農村といえるこの町になんと東京の多摩川ができてしまうのですからひどい話ですよね。普段大都市に住んでいるものがそんなものを見たいと思うでしょうか。結局こんな開発を許したのは地元の人たちが全く何の反対もせずにいたことがおもな原因です。自分たちの住んでいる町な価値が分かっていない。話は少しそれますが私は石川啄木の故郷の渋民村にも行きました。もちろん歴史的な価値もなく比較するのもおかしいですが印象的だったのは渋民駅から歩いていくと道路の両側は農村で農家の人たちの農作業中。あまり観光化されておらず静かで非常に落ち着いていました。そんななかにひっそりと記念館がある。これは都会人にはたまりません。少し歩くと木が生い茂る清流がうねりを上げる北上川。そして岩手山。このまま永遠に残して欲しいと思いました。平泉も県レベルでこの問題を真剣に取り組んでいかないと手遅れにもなりかねないと思います。何よりも自分たちが全ての解決策を任されていると思っている建設省などにとにかく対抗していかないとどんどんコンクリートで塗り固められていくでしょう。それと同時に観光客も離れていくに違いありません。私が言いたいあるいは聞きたいのはどうしてわざわざその資源を破壊しようとするのかということです。町長も町の役員も世紀の大失敗をしたと将来言われないように願いたいですね。
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清衡は、何故「願文」で金色堂を「秘して」語らなかったのか? 投稿者:佐藤
投稿日: 2月27日(木)19時14分42秒
「秘すれば花」という言葉がある。云わずと知れた世阿弥の「風姿花伝」の中の一節である。古来日本人は、秘することによって、むしろそこに美を見出してきた。満開の花が、我が世の春と咲いていたところで、風流人はそれを少しも尊いと思わない。むしろ花を秘する心が花を生かし、花の美しさを際立たせるのだ。
利休と秀吉の話で有名な話がある。ある夏の茶事でのことだ。利休が天下人秀吉のために朝顔の花を何百と育てているとの噂が耳に入った。どんな色の花か、どれほどの丹精を込めて、利休が育てているのか、秘されていればいるほど、早く見て見たいという思いが、秀吉の中で膨らんで行った。
秀吉は人を差し向けて、どんなものか探らせたかもしれない。するともの凄い数の朝顔を用意しているようだとの情報が秀吉にもたらされた。さてその茶事の朝、利休は、朝顔をたったひとつ残してすべてつみ取ってしまった。そして、利休好みの質素な茶室の奥の床の間にたった一輪の蕾を生けて置いたというのである。そこには一筋の日の光が差している。
その部屋に秀吉が入ってくる。そしてさしもの天下秀吉も、腰を抜かさんばかりに驚いたのである。ここに利休という芸術家の美意識が表現されている。花は秘するからこそ花なのである。おそらく利休は、世阿弥の花伝書は、花のように秘せられていたのだから、読んでいることはなかろう。しかし見事に、利休は世阿弥の美意識に連なっているのだ。
さて時代は江戸時代に入り、松尾芭蕉は、俳諧という世界一短い文学の大家となったが、それまでの俳諧は、滑稽味を出した庶民の言葉遊びの領域の芸に過ぎなかった。しかし芭蕉という人物は、己の美意識を世阿弥や利休の同じ領域に踏み込むことによって、俳諧というものに「秘すれば花」という日本文化が持つ独特の美意識を注入した。芭蕉の俳諧の特徴は、いかに語るかではなく、いかに言いたい言の葉を秘すか、というところに主眼が置かれている。ことそのことによって、俳諧はいつか江戸庶民の言葉遊びの次元を飛び越えて日本文化の魂に連なる高みに達してしまったのである。
さて今日ここで云いたいのは、金色堂についてである。金色堂について、奥州藤原氏初代清衡は思いの丈を込めて奏上した「中尊寺供養願文」の中で言及していない。そのためにこれまで様々な憶測がなされた。ある人は、自分の入る霊廟だから、「願文」では触れなかったと語り、又ある人は、結局「願文」そのものが中尊寺についての言っていないのだから「金色堂」もないのも当然、「願文」そのものが中尊寺の建立ではなく、毛越寺のことを指しているのではないか、などと言うのである。
私は今日そのことを学問的に云々するつもりはない。それは私は金色堂という金色の蓮華のような形状の御堂を造るにあたり、その花のことを秘したのではないか?と考えたいのである。秘すほどに人は、その花を見たく思う。丁度利休が、秀吉に秘したように。結局、この秘したことにより、その噂は、マルコポーロのような海外の人物にまで、伝わることとなり、黄金の国ジパングの伝説が、出来上がったのではあるまいか。
「秘す」という日本人独特の感性を、エミシの血を受け継ぐ奥州人清衡が、本当に意識していたかどうかは謎である。しかし「願文」を一読すれば、清衡がどれほど慈愛に満ちた人物であるかは、一目瞭然であり、その可能性はかなりあると思う。あえて「秘す」という感性をどこから得たのかということを、批判を怖れずに推理すれば、天台密教の教えから受け継いでいる可能性があるとだけは最後に言っておこう。
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平泉は何故美しいのか?! 投稿者:佐藤 投稿日: 2月26日(水)13時23分59秒
平泉が何故美しいのかということを考えてみたいと思います。平泉は何故美しい
のでしょう。そのことを考える前に、ギリシャに行った時の印象を書きます。も
ちろんギリシャは世界遺産にも登録されているあの歴史都市です。でも現実はひ
どいものでした。観光という名の景観破壊が進み、見た人を感動させるものが欠
けているように思えたのです。これは平泉にとっても大変大事なことだと思います。
私は、ギリシャへ行って、パルテノンのあるアクロポリスの丘に登った時、少し
も美を感じませんでした。そこにあるのは巨大な大理石のモニュメントであり、
世界遺産に登録されてはいるものの、何か違和感がありました。何故、私はパル
テノンに美を感じないのか。そのことをずっと考え続けていましたが、少しして
その理由が分かりました。それはギリシャ正教会に入った時でした。ギリシャに
移入されたキリストは、トルコ風の建物に納まって、じっとこちらを見ていまし
た。そこには、祈りがありました。でも私は、そこでも違和感を持ちました。何
故、ギリシャ人は、ギリシャ神話のような世界に誇るべき神がいるのに、ユダヤ
の息子のキリストを唯一の神として信仰するのか。と思った瞬間、パルテノンで
思った疑問が解けたのです。
つまりパルテノンは、地元の人々にとって信仰の対象ではなくなっているので
す。それは歴史のモニュメントであり、観光資源でしかないのです。そこには
「祈り」はありません。かつて最高権力者のペリクレスだって、年に数度しか訪
れないような聖地が、異教の異民族が、ひっきりなしに訪れて、土足で神殿を踏
み荒らしているのです。パルテノンに祈りはない。それがこの巨大な遺跡に美を
感じないことが分かったのです。
当時に、日本に置きかえて考えた場合は、どのような小さな神社仏閣でも、地元
の人の祈りは、営々として残っています。それ出雲大社や伊勢神宮のような大神
社でも、小さな村の名もない小社にも、あるいは奈良の東大寺、法隆寺だけでは
なく、住職のなり手もいなくて寂れた小寺にも漂っているものです。祈りがない
都市というものは少なくても私には、美しいとは感じられないのです。考えても
見てください。夜になれば、あの聖なるパルテノンが信号でもあるまいに、赤や
緑や青に変わって、夜の闇に浮かび上がるのです。おぞましい姿でした。観光客
に対する過剰サービスです。古代ギリシャ人が到達した究極の美を見たいと思っ
て訪れた者にとっては幻滅以外の何ものでもありません。
ギリシャに行く一年前に、ローマに行きましたが、とても感銘を受けていました
ので、ギリシャでも同じような感動を受けるだろう・・・。てっきりそう思って
いたのです。そこで結論として思ったのは、ギリシャの精神は、すっかりローマ
という国家に吸収されてしまったのだろう。という事でした。神々の神話も文化
も、ローマがこれを相続し、骸のような都市になってしまったのだろう。少し極
端な感じがしますが、そこまで思いました。聞くところによれば、今ギリシャの
山々のほとんどは、はげ山ですが、昔は鬱蒼とした森林だったということです。
ここにもギリシャが、文明として、自然を徹底的に破壊した挙げ句に、その文明
自体も、ついに滅びるに至った原因があるようにも思いました。
このことを考える時、信仰ということを抜きにして「美しい都市」ということは
考えられない気がします。すなわち聖地(あるいは霊場)というものが、都市の
どこかに存在し、少なくても多くの民衆あるいは市民が、その地に対して畏敬の
念をもっている場所があること。しかもその聖地というものが、伝説として長く
語られるような場所があること。こうして聖地の存在は過去から今に生きる民衆
がこれを相続し、今度はこれを未来へ渡す場所があって、「美しい都市」という
ものは、かろうじて成り立っている花のようなものではないでしょうか。
ここまで書いて平泉が何故美しいかはお分かりでしょう。中尊寺という祈りを込
めた聖地が存在し、そこには僧徒が命に替えても守りぬく覚悟の三代の御霊の眠
る霊廟の金色堂が凛として存在しているからです。祈りが有る限り、平泉は滅び
ることはないのです。確かに政治都市としての機能は800数十年前に死してし
まいました。でも平泉の美の本領は残っています。今平泉バイパスが、聖地の本
領にまで悪影響を与えようとしています。ギリシャの例をひくまでもなく、観光
のための人為的操作は逆効果しか生み出さないことを知るべきだと思います。
なるべく、むかしのままの景観を保ち、あるがままを見せ、それを未来に伝える。
この世界遺産の精神をわれわれはけっして誤解してはならないと思います。
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写真家「土門拳」の見た平泉 2 投稿者:佐藤 投稿日: 2月25日(火)20時50分11秒
土門拳という芸術家の透徹した眼は、あるがままの平泉をあるがままに見て、そこに亡びるに至る奥州の歴史と文化を視ようとしている。確かに彼の気持ちはよく分かる。現実の金色堂が美しいのではない。金色堂に込められた清衡の思念が美しいのである。それは亡びた者たちへの鎮魂であり、自らも亡びゆくものであることを自覚した上での「祈り」でそのものである。だからどんなに他の堂塔が燃えても、この金色堂だけは、中尊寺に仕えた数限りない有名無名な僧侶たちによって守られて、我々の前に美しい姿を見せているのである。
この文章の少し前には、「江戸中期の小堂や木像など、撮影に堪えない」として、高館の「義経堂」や「義経木像」にまったく興味を示していない土門拳の気骨を示す言葉がある。彼は半分芭蕉だって眉にツバを付けて見ているフシがある。その反面、彼は、高館山において、持っていたステッキをショベル代わりに地面に突き立て、土器の数片を探し当てた。それを石ころであると知りながら縄文土器だとうれしがって見せた。彼はこの高館が、奥州の人々の祖先である縄文人たちの土地であったことを懐かしみながら、眼にはけっして見えないものに心を「寄せて」心の中でシャッターを押したのであろうか・・・。
彼は平泉という古都の歴史というものが、単に奥州藤原氏の人々や義経や芭蕉によって、彩られているから尊いのだとは見ていないようだ。むしろ彼は平泉という町の価値を、名も知れぬ原日本人という言葉が相応しいかどうかは別にして、歴史以前の歴史をも含めた奥州という土地に連続して流れている人やその人々が暮らした趾が、今も何かしらの面影をもって、この地を訪れる人々の前に存在しているということが尊いと言いたげである。
最近、中尊寺の北裏にあたる衣川との間河川敷付近で、縄文人の狩猟の落とし穴と見られる縄文の遺構趾が、100基見つかった。これもよく聞いてみれば、「一関遊水地事業」の一環であり、衣川が去年の夏に洪水に見舞われたりして、堤防を高く工事の前の調査の過程で見つかったものである。今や衣川の河口付近は、以前の衣川ではない。河床はコンクリとなり、北上川と合流する河口付が海のように緑色に変色している。不思議がっていると、何のことはない。「川底にコンクリにつく藻が大量に発生している」と説明を受けた。愕然とした。もはや衣川とて、清流ではないのだ。散々に手を加えられ、更にどんどんと堤防は高く強固になり、自然であるべき川は、まるで動物園の檻のように川をを封じ込めて、あっと今に上流まで達するのであろう。それも毛越寺の南を流れる太田川を見れば一目瞭然だ。一級河川太田川は、今や死の川か、ただの水路にされてしまった。衣川もいずれは太田川のように魚も棲めぬコンクリートの水路そのものに変貌してしまうのであろうか。それとも壊した張本人たちが、今度は自然再生推進法を盾にして、カネに任せて、自然の再生事業を行うのであろうか。何と愚かな政策であろう。これが世界遺産に登録されようとする平泉の周辺の事情である。
我々はもう一度、土門拳の眼をもって、平泉という亡びた都市の価値を見直さなければならぬ。もう一度、何故多くの日本人が、平泉の風景や寺を愛して止まなかったのか。考えて見る必要がある。そして最後にもう一度土門拳の言葉を噛み締めよう。
「人はだれでも平泉にくれば、歴史家になる」
何とも良い表現ではないか。しかし今の平泉には、旅人を歴史家にしない流れが出来上がりつつある・・・。
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写真家「土門拳」の見た平泉 1 投稿者:佐藤 投稿日: 2月25日(火)19時55分28秒
土門拳(どもんけん:1909?1990)という写真家がいる。山形県酒田市生まれの骨太の写真を撮る人物で、写真家という枠を踏み越えて、昭和の日本を代表するような大芸術家である。彼は多くの古寺を訪れて仏像を撮った。彼の写真を観ていると、何か仏像の魂が伝わってくる。そこには制作を依頼した人物の思いや、この仏たちを創造した仏師の心までが透写されている気さえしてくる。写真の世界には、「もう一歩寄れ」と口癖のように云う写真家が居るらしいが、土門拳の場合は、被写体の魂の領域まで寄っているという感じがする。
その土門拳が、平泉についてこのように語っている。
『平泉中尊寺は、魅力あふるる寺である。さんざん古寺巡礼して、いわば寺ずれしているはずのぼくでも、機会があれば何度でもゆきたく思っている。創建当時の遺構としては、眇(びょう)たる金色堂一宇が残っているだけなのに、何がこうも人をひきつけるのか。それは亡びたものは美しいからである。人はだれでも平泉にくれば、歴史家になる。敢えて金色堂とかぎらず、路傍の小さな五輪塔にも、月見坂の杉木立にも、いや、残るものとては何もない田圃の中の地名にすら、ひとは人間のドラマを見ることができる。時間を一挙に空間に置きかえて、人に見させ、人に感じさせるものが平泉にはある。芭蕉ですら、平泉にきては歴史づいて、杜甫の詩「国やぶれて山河ある・・・」を想いうかべたり、「夏草や兵どもが夢の跡」の一句をものしている。
しかし悲劇の武将源義経の運命も、ぼくには、どうでもよい。むしろ、そうした中世の英雄、王者、首長の覇権のかげに名もなく立ち働いていた兵士、工人、庶民たちが問題である。それは、まさしく縄文の後裔でなければならない。なぜなら・・・北上川流域に、数千年の先史時代を生き抜いた何十万、何百万の縄文人たちが、・・・急にどこかに消えてなくなるはずはないからである。平泉中尊寺では、それら中世の大衆を通して、その先祖たる縄文人を窺(うかが)うことができる。平泉周辺の風土は、縄文人のものである。つまり、ぼくたち日本民族の原形的な姿と歴史、少なくても天皇制権力確立以前の、日本民族の原形的な姿と歴史を窺うことができるはずである。それは、平泉へきて。相当に歴史づいた芭蕉ですら、思いも及ばぬ世界だった。』(「世界」1959年11月号)
更に「古寺巡礼 第四集」(形あるものは亡びる美術出版社71年刊)ではこのように云っている。
『中尊寺に詣でる人たちは、果たして金ピカの金色堂に驚きの声をあげるために登山されるのであろうか。ぼくはそうは思わない。日本人の生み出した文化の、八百年の歴史に頭を垂れたくて、岩手県平泉を訪れるはずである。今まさに崩れんとする金色堂を前に、八百年の歴史に思いを馳せるために、中尊寺に訪れるのである。
「形あるものは亡びる」亡びるものは亡ぼしめよう。剥げ落ちる金箔は、剥げ落ちるにまかせておけばよい。「形あるものは、命あるものは、いつかは亡びねばならない」ものなのである。亡びつつも美しさは衰えることはなく、そして昇華する一瞬においても、美は消え去りはしないのである。』
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旅人の視点が欠けている「平泉世界遺産論議」!! 投稿者:管理人 投稿日:
2月23日(日)15時06分41秒
旅のもの さま
はじめまして。
お説のこと、同感です。ひとりの人間の命は有限です。あっという間の命です。ところが自然は延々と生き続けて、未来の人々もまたそれを目にします。開発という名の破壊が、日本中の過疎の地に押し寄せ、それが日本経済を支えると信じていたリーダーたちによって推進されてきました。でもそれが間違いだったことは、すでに現在の日本経済の混沌を見るまでもなくはっきりと見えてきました。現在の平泉バイパス計画は、そんな間違いの最中に企画が練られた計画であり、即見直されなければならないはずです。ところが、様々な理由付けがなされて、この時代錯誤な計画は強行されているのです。
現在、世界遺産登録へ向けて懸命の努力がなされているように見えますが、「旅のもの」さまの云うように大いなる矛盾を抱えたままの「世界遺産」というブランド獲得の運動のようにしか見えません、大切なことは、聖なる地の歴史的景観が守られることです。俗の固まりのようなコンクリのバイパスを町の中央に通すような感覚では世界遺産になる資格などはありません。
周知のように世界遺産条約は、高速道路のような構築物で、史跡が破壊されたり損傷されることを禁じています。場合によっては、計画の撤回を勧告したり、登録を抹消するケースもあるのです。1998年の出来事をご存じでしょうか。ユネスコは、イラン歴史都市であるイスファンの高速道路計画に計画中止を勧告しています。柳の御所や無量光院に史跡公園を造ったとしても、それがどんな意味をもつのでしょう。そのまま、そのままで平泉は、十分に世界遺産に値する歴史都市なのです。世界遺産になるために周囲を整えるつもりが、あの独特の高館からの景観が消滅させてしまう矛盾は、誰がどんな弁論術を持っていても、弁明できるものではありません。
利便や時代遅れの治水計画をあくまで強行しようとするならば、世界遺産なんて自ら辞退すべきではないでしょうか。旅人が平泉に来るのは、日本中が俗な景色に毒されているなかで、まだ平泉という町が聖なるものを宿していると思っているからでしょう。今後、平泉バイパスのような、景観オンチな建物が、町の中央にデンとい構えているような場所に、二度三度と足を運んでくれるでしょうか。今平泉の景観を考えている人々の多くは、町の人と一部の専門家ですね。これでは駄目です。旅人の視点を入れた委員も入れるべきでしょう。
さて22日、土曜日、平泉郷土館で、景観を考える会が開かれたようですが、そこでどんなことが議論されたのか、参加された方は、書き込みをお願いします。
旅のもの さま また書き込みをお願いいたします。
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勇気を持て平泉の人・人 投稿者:佐藤 投稿日: 2月23日(日)13時28分58秒
吾妻鏡によれば、平泉が都市としての機能を失ったのは、文治五年(1189)八月二十一日のことである。しかし初代清衡が「中尊寺供養願文」に込めた平泉への「祈り」はそこに住む勇気ある宗教者によって守られた。吾妻鏡の文治五年九月十日の段から引用してみよう。これは実に感動的な場面だ。
「十日、丁卯、(中略)今日、奥州関山中尊寺の経蔵別当の大法師心蓮が、二品(源頼朝)の滞在されている場所に参上して、愁いながら、次のように申しました。
『中尊寺は、経蔵以下仏閣塔婆など、みなこれ藤原清衡公が建設されたものです。ありがたいことに鳥羽院の御願寺として長年の間、寺領をご寄附くださり、また国家鎮護の御祈祷をする場所となって来ました。経蔵には、金銀泥行交りの一切経を納められております。まさに厳粛な霊場であります。ですのでどうか、今後とも苦境に陥ることなどのないようにお取りはからいください。次に今回の奥州における合戦によりまして、中尊寺領に住んでおりました民百姓らは、恐れをなして、みなどこかへ逃亡してしまいました。ですからできるだけ早く、寺領安堵するとの御命令を出していただくようお願い申し上げる次第でございます。』
すぐに二品(頼朝)は、この僧をお近くに呼んで、清衡、基衡、秀衡三代の間に、建立した寺塔の事などを、訊ねて聞いた上で、明解に答えて、平泉のことを細大漏らさず報告しなさいとのご命令をくだされた。これによって、まず経蔵領の境界である東の鎰懸(いつかけ)、西の山王の窟(いはや)、南は岩井河、北は峯の山堂の馬坂まで、所領安堵の御奉免状を下されたのでした。逃亡した民百姓らは、ただちに土地に戻るべきとの命令を出すように言い渡され、これを散位の親能に執行させたのでした。
十一日、戊辰、平泉の寺々の住職のうちの源忠(巳講)、心蓮(大法師)、快能などが再び参上しました。そして寺領の事につき、清衡の時より勅願による国家鎮護の御祈祷所として役割を果たしてきたので、今後もまた相違なく励みなさいとの文書を下さったのでありました。寺領は、たとえ荒廃の地であったとしても、地頭らはこれを妨害するようなことがあってはならないとの内容もこれに盛られておりました。(中略)
十七日、甲戌、清衡以後三代が造立する堂舎の事につき、源忠巳講、心蓮大法師らが報告書を献上しました。親能朝宗がこれを拝見しまして、二品(頼朝)は、たちまち感心なさられました。そして寺領の件は、これをすべて寄附されて、「国家鎮護の御祈祷を怠らぬようにしなさい」と云われました。このことをすぐ紙に書いて毛越寺の円隆寺南大門の前に書状として張り出すようにとご命令なされました。僧侶たちはこれを拝見して、口々に安心して暮らすことができると言い合ったとのことです。その書状には、このように書かれてありました。
『平泉内の寺領においては、先例に任せて、寄附する所となった。堂塔はたとえ荒廃の地であったとしても、聖なる仏の法灯を絶やさぬための務めであるから、地頭らはくれぐれもそれを妨害することのないようせよ』(現代語訳佐藤)
ここにおいて、清衡の「祈り」は受け継がれた。わずか泰衡が逃亡し、二十日と経ぬうちに、心ある平泉の人々は、勇気を奮い、祈りを込めて、初代清衡の灯した法灯を守り抜いたのである。だからこそ平泉は美しい。だからこそ平泉は、未来永劫において、清衡の平和への思いを込めた法灯灯す聖地となり得た。27万の鎌倉軍を統率する総大将源頼朝と文字通り命を賭けて渡り合った宗教者の心に去来するものを、今平泉に住む人はどのように考えるのか。未来に伝えるものは、平泉バイパスか、それとも人類の共通の文化資産の魂としての清衡の聖なる「祈り」を内包した歴史的景観(風土)か。
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地元の無関心 投稿者:旅のもの 投稿日: 2月22日(土)12時55分14秒
私は今年の8月に2年前にも中尊寺を訪れたが もう工事は始まっていた。非常に残念ではあるがこれは地元の人ならびに行政の無関心であるといいたい。多くの人にとって景観の問題などどうでもいいのである。それが事実である。世界遺産にしようといっているあいだに景観破壊をやってしまうこの矛盾をどう説明できるのだろうか。とくに遠くに住んでいてたまにやってくる観光客にとってそのかわり様には唖然とせざるを得ない。
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芭蕉が平泉で観たもの 2 投稿者:佐藤 投稿日: 2月19日(水)16時54分26秒
次に高館に登って、芭蕉がイメージとして観ているものを挙げてみよう。
第一「大門の跡は一里こなたに有」
第二「泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり」
第三「国破れて…」
平泉において大門というものが果たしてどこにあったかということは、まだ明かされてはいないようであるが、当時の考え方から、毛越寺の大門ではないかというのが、奥の細道を研究している人々の考え方のようだ。芭蕉は毛越寺については、触れていないし、達谷窟の西光寺にも行っていないから、現在の四号線に沿った奥州路を岩ヶ崎まで行って、そこから一迫に抜けて行ったというのが定説となっている。したがってこれは書籍からの想像で書いている。また衣の関は、関山中尊寺の西の裏に当たるから高館からは目にすることは不可能なので、これも筆の流れに任せて書いていることが分かる。大体、エゾを防ぐというのであれば、田村麻呂の時代であるから、意味が不明である。古来からの歌枕である「衣の関」という言葉を入れることによって、奥州という自分のイメージを増幅しようとしたのかもしれない。
そして最後杜甫の「春望」の漢詩であるが、高館に登って、芭蕉の心に突如として、この詩が浮かんだのであろう。ただ茫然と何もない大河と山野を見ながら、この詩のフレーズが、芭蕉の脳裏の中で復唱されたに違いない。表現の技法としてはイメージの固着であり、読み手に強烈な滅びた都の印象が残ることを狙っていると思われる。
こうして芭蕉が、高館で観たものが、朧気ながら見えて来たように思う。それは単なる奥州の寂れた古都の風景などではない。もちろん人々が一般に言う廃墟というものを見て感傷に耽っているのでもない。それは滅びというものの現実の風景を目の辺りにした瞬間に、時というものの無常なる姿が、眼前に亡霊のようにして芭蕉の前に現れたのではあるかいか。所詮、人が造り出す都市というものも「一瞬の巧妙」に過ぎず、自然の織りなす造形には歯など立ちようがない。平泉という都市というものが滅び去った後に、伸びやかに命を漲らせている夏草の生命力に、芭蕉は明らかに感動を通り越して畏れをなしているかのようだ。芭蕉はきっと、高館からの平泉のパノラマの中に、永遠なる「美」というものを観たのであろう。
この時の畏れの結晶とも言える句が、あの、「夏草や兵どもが夢の跡」ということになる。
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芭蕉が平泉で観たもの 1 投稿者:佐藤 投稿日: 2月19日(水)16時53分05秒
奥の細道を手元において、平泉の景観というものを改めて考えてみよう。平泉バイパス工事によって、一番問題となるのは、やはり柳の御の西北の段丘にある源義経の最期の地とされる高館からの景観の破壊である。そこは今から300年ほど前に、松尾芭蕉によって、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠まれている平泉第一の景勝地である。芭蕉がこの句に込めた思いはいったいなんだったのか。彼はこの高館において何を見たのだろう。芭蕉がこの地にやってきた丁度500年前の夏、平泉という黄金の都は、君臨していた奥州藤原氏とその郎党、また源義経と臣下もろとも、一瞬の光芒のように滅び去っていた。
芭蕉は、元禄二年(1689)5月12日(新暦6月28日)、雨をついて一関に到着そこに停泊した。翌日、雨は上がり、初夏の奥州路を、真っ直ぐに高館にやってきたのであった。さて義経が自害し果てたと言われる高館の高みに立ち、このように記した。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。まず高館にのぼれば、北上川は南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、巧妙一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
ここで、この文章で、実際に芭蕉が目にしたものだけを挙げてみよう。すると、不思議だが、芭蕉が観念というか、心のなかで描いているイメージが浮かび上がってくる。
第一に「秀衡が跡は田野に成て」
第二に「金鶏山のみ形を残す」
第三「北上川は南部より流るゝ大河也」
第四「衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入」
第五「義臣すぐってこの城にこもり、巧妙一時の叢(くさむら)となる」
一関から奥州路を北に一里ほど進むと平泉になる。芭蕉は、ただ「平泉平泉」と心で念じながら、歩いてきたはずである。なだらかな丘の道を越えて、彼方に平泉の景観が目に入ったはずである。旧街道は、奥大道と言って、毛越寺の前を西に向かう道であったが、芭蕉は平泉に入る大門と思われていた毛越寺には行かず、現在の四号線沿いの道を真っ直ぐに来て太田川を渡り、秀衡の館の跡と言われる伽羅御所跡と柳の御所跡を右に見て、左には無量光院の跡を見ながら、あれが金鶏山などと言いながら、高館に一路向かったと思われる。
そして眼下を見下ろす。ここは稀代の英雄源義経が自害して果てた場所だ。という思いが、芭蕉の気持ちを揺さぶっていたであろう。そして栗駒山から吹き下ろしてくる薫風は、夏草のむせ返るような匂いを運んで、その感傷を一層掻き立てたことであろう。ただ目に見えるものは、夏草の青さと大河の淀みない流れと束稲山、遠くには奥羽の連山がかすんでいたことだろう。しかしここで不思議なことがある。芭蕉がこの地を訪れた元禄二年には、高館の上には、義経堂が建立されていたはずだ。しかし芭蕉は、天和三年(1683)というから、わずか五年前に建てられていたこの小堂について一言も触れていない。この小堂は、仙台藩四代藩主の伊達綱村によって、建てられたもので、中には義経像も奉られていたのだから、言及してもいいはずだ。ところがまったく語らないのだ。このように見てくると芭蕉にとって、平泉という都市の印象は、ただ滅びたという以外には何もないかのようである。(このことは、西行法師が、平泉に燦然と輝きを放っていたはずの金色堂を一切歌に詠み込まなかったことに共通する何かがあるのかもしれない。)
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祈りの郷としての平泉が消える 2 投稿者:佐藤 投稿日: 2月18日(火)13時48分42秒
平泉の場合も、ご多分に漏れず、平成12年(2000)に平泉が世界遺産にノミネートされると、すぐに「平泉・高館環境委員会」なる組織が出来て、平泉バイパスによる高館からの景観が論議された。委員会は2年で4度の検討委員会を開催し、提言を出した。その結果、平成14年(2002)12月3日、平泉バイパスの一部設計変更などが、「平泉バイパス設計説明会」で発表されたのであった。
それによると、「新衣川橋?高館橋間(約2キロ)の高さを計画より1m?3.8m低くする。又柳之御所史跡指定地付近は1.1mほど低くなる。更に新計画ではのり面はひとつとし、植樹によって自然な景観にする。尚、植栽は盛り土工事後に検討。」となった模様である。これによって「」の提言に応える形としたものだ。これで国土交通省側は、高館の景観に配慮したとのことで、平成19年までの全線開通を目指す構えのようである。もちろんこれではまったく問題の解決にはならない。歴史的景観の破壊の問題を差し置いて、景観に配慮したというのだから、その見識の低さは、それだけでも世界遺産に値するようなレベルの判断ではない。しかし国土交通省は、これで、平泉バイパス工事を押し通してゆく算段のようだ。これで良しとする平泉町、それから県の考え方も問題がある。
日本には、財産となるようなものもなく、自力で町おこしに苦労している市町村が多い中で、平泉という奥州に咲いた黄金の都の遺跡の上に、町は存在している。案外近くでいつも見ている、それがどれほど素晴らしく凄い価値のあるものでも、何も感じなくなるものだが、平泉の場合はその典型だ。自分で何かをしたことがない。やるのは、国の予算を頂いての公共工事によってだ。すでに一関遊水池計画では、81年から、2500億円の巨費が投じられているが、いったいそれで何が変わったのだろう。変わったのは、平泉の財産とも言うべき歴史的景観が変わったことと、水害になる場所が、川下に移動したということ位であろう。20年以上も前、すなわち日本が世界遺産条約を批准しなかった時代に基本設計がなされた平泉バイパス工事が、今日も粛々と進められ、祈りの都市としての平泉の歴史的景観が台無しになろうとしている。この悲しい現実を日本中の心ある人々に伝えたいものである。了
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祈りの郷としての平泉が消える 1 投稿者:佐藤 投稿日: 2月18日(火)13時46分40秒
平泉という都市が造られた背景には、奥州藤原氏初代清衡の平和への「祈り」がある。この祈りこそが、中尊寺や毛越寺の衆徒によってあるいは平泉にその後住んできた民衆によって守られてきたのである。
しかしながら現在の平泉が、私には大いなる不条理を抱えて悩んでいる老人の面相に映る。本来老人というものは翁といって賢者を意味するのだが、平泉の今の顔はそうではない。抱えきれない財産を相続しながら、それをどうしていいか分からず、途方に暮れている悲しい老人の印象だ。ここで私が不条理という言葉を使った理由は、平泉の行政担当者たちが、両立不可能な二つのことを同時にしようとしていることを指摘するためだ。平泉が世界遺産に登録されることと一関遊水池計画に付随した平泉バイパス建設は両立しえない矛盾である。もしも平泉が、世界遺産に本気で、なりたい登録されたいというのであれば、一関遊水池計画と平泉バイパスという歴史的景観を損なう計画は白紙撤回されなければならない。もしも世界遺産よりも命が大事、交通の利便性が優先というのであれば、景観は破壊されるのだから、世界遺産登録は自分でその候補から降りるべきである。
不条理というものを、作家のカミユは「濡れまいとして川に飛び込むようなもの」と表現しているが、まさに的を得た言い方である。平泉の行政担当者は、この不条理をどのように考えるのか。是非聞きたいものだ。周知のように昨年、国会では、「自然再生法」というものが成立した。この法には様々な問題は指摘されているが、これまでの公共事業のあり方を見直して、自然破壊型の工事から、自然再生型の工事への転換を目指したものである。その立法趣旨は、「過去に行われた自然環境を取り戻すことを目的として、関係行政機関、関係地方公共団体、地域住民、特定非営利活動法人、自然環境に関して専門的知識を有するものが参加して、河川、湿原、干潟、藻場、里山、里地、森林その他の自然環境を保全し、再生し、もしくは創出し、またはその状態を維持管理する。」というものである。しかしこの法とは裏腹に、日本を取り巻く現実は、自然破壊型の公共工事が、時代錯誤的に強引に推し進められている。諌早湾干拓、長良川河口堰(せき)、川辺ダムなど皆、根本的な問題の解決はなされず、工事はなし崩しで進められている。平泉もこれらの地域とまったく同じである。そこで行われるのは、国土交通省のリードで意図的に作られる「…委員会」による地元の反対の声のガス抜きだ。反対の声が起こると、「・・委員会」なるものが、いつの間にか出来る、そこには地元の名だたる人物が推薦され、中には必ず反対派と目されている人物も入る。座長には、大体有名大学の学者が就任する。何度かの委員会を作り、予め役人によって作成されたと思われる文言を追認するような提言がなされた。そこで若干の設計の変更がなされ、「シャンシャン」と手打ちをして、ほとんど基本設計には変更がない工事が進められる図式である。つづく
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中尊寺供養願文の精神に触れる 投稿者:佐藤 投稿日: 2月12日(水)22時58分05秒
本日、めでたく中尊寺供養願文につき、現代語訳を終えましたので、ご報告申します。この文を読むと、藤原清衡という人物の平泉という都市を造った時の強烈な思いが伝わってきます。表面では御願寺を建立し、国家安寧を祈るという形式をとっていますが、実は戦争と平和の両方の時代を経験した人物の深い生きているもの全てに対する慈愛の念が溢れています。これこそが、京都という都市とは、ひと味違う部分ではないかと思うのです。この理念をもって平泉という所は、世界遺産に相応しいのであり、建造物としての金色堂や大泉が池という浄土庭園があるからではないのです。実は見えない供養願文に散りばめられた精神こそが、世界遺産なのです。目に見えるものは、佛教的に言えば方便に過ぎません。ブッダは言っていますね。仏法とは、筏(いかだ)に過ぎない。川を渡りきってしまえば、筏はもう必要ないのだと。そんなことをあれこれ思いながら、鳥肌が立つ思いで、訳し終えました。
「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのである。官軍の兵に限らず、エミシの兵に限らず、古来より多くの者の命が失われた。それだけではない。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく屠殺されて来た。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっているが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなき命を奪われものの御霊をお慰めし、極楽浄土に導きたいと願うものである。
(中略)縁があって、私は東北のエミシの酋長に連なる家に生まれましたが、幸いにも白河法皇が統治される戦のない世に生れ逢い、このように長生きをして平和の時代の恩恵に浴して参りました。そして我がエミシの里では争い事も少なく、捕虜を住まわせた土地や、戦場だった所も、よく治まっております。さてこの時代にあって、私は、分不相応にも、祖先の残した事業を引き継ぐこととなり、誤って、エミシの酋長の立場に座ることになりました。今や出羽や陸奥の人の心というものは、風に草がなびくように従順でございます。粛愼(しゅくしん)やユウ婁(ゆうろう)のような海外の蛮族もまた、太陽に向うひまわりのように懐いております。なすがままに治めて三十年以上、この間にも、時を享受しつつ、毎年の租税を納めることに励んで参りました。生業を失うこと無く、鳥の羽や毛皮、獣の牙の貢ぎ物の献上も怠ることもありませんでした。これによりたびたび憐れみをかけていただきました。遠い都から国のために尽くしたとのご褒美を戴き、そのご恩に感謝しない日はありません。ところが私は、既に「杖郷の齢」(じょうきょうのよわい:60才)を過ぎてしまいました。人の運命というものは、天にあるものではございますが、どうして、忠義と貞節をもった国へ尽くす思いというものを忘れることがありましょう。与えて戴いたご恩に報いることを思えば、善行を積む以外にはないと思い立ちました。
そこで、租税として貢いで後に残ったものを調べ、残っている財貨を洗いざらいなげうって、吉と占いに出た土地に、堂塔を建て、純金を溶かして、佛経を書写させた次第です。 経蔵、鐘樓、大門、大垣などを建て、高い所には築山を施し、窪地には池を掘りました。このようにして(平泉の地は)、「龍虎は宜しきに叶う」という「四神具足の地」となりました。エミシも仏善に帰依することになり、まさに、この地は、諸佛を礼拝する霊場というべきではないでしょうか。また万燈会(まんどうえ)を設け、十方尊を供養しております。衣に付けた香の香りは、広く法界に定着をし、この私のかねてよりの思いは、きっと普く大地を覆うでありましょう。 その全てを分かち捧げ、お祈り申し上げます。(後略)」
願文の清き御魂(プシケ)を継げばこそ世界遺産とかの地呼ばれむ ひろや
全文は以下に。
http://www.st.rim.or.jp/%7Esuccess/ganmon.html
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無関心からの脱却 投稿者:佐藤 投稿日: 1月14日(火)22時23分59秒
愛媛っ子さん
新年早々のご登場大変うれしく思います。
さて昨今の世相を見渡しますと、日本というものを取り巻いている空気というものが得体の知れない雲に取り巻かれて、しまった感じがします。何か最初は、糸が絡まったね、と軽く考えていたのに、最初に糸の絡みを解くべき人が、軽く考えて別の方向に引っ張った為に、余計に糸の絡みを複雑にしてしまったのでしょう。
今や、日本の行財政改革ひとつをとっても安易な取り組みではけっして解決しないといった気が致します。さてここまで、日本に対する内外の評価が下がった原因を考える時、私は日本人の政治や行政への無関心というものが根底にあると考えます。結局日本人の無関心が、せっかく奇跡の復興とまで云われた戦後日本の繁栄を、台無しになるまで疲弊させてしまったのだと思います。
ではどうすれば、このどうしようもない閉塞状況を打破出来るかと言えば、やはり無関心を素直に反省して、政治と云わず経済と大きく構えず、身の回りの小さなことに関心を持って、何故そのような理不尽なことが許されるのか、と正義感を持って、考えることではないでしょうか。何故、それこそ日本列島改造論による道路造りが華々しく行われている中で奇跡的に残った高館からのあの素晴らしい景観を、こともあろうに、景観に対する配慮が、各地でなされている今日、それを台無しにする形で強行されなければならないのか。まったく分かりませんね。でもこれもシビアな言い方をすれば、人間の無関心が、行政をある方向に走らせているだけなのです。
今や自然は、田舎にもなくなってしまいました。そこで国でも自然再生法なるものが成立しています。これは自然を壊す開発優先の考え方から、開発によって失われた自然をもう一度再生するという法律です。時代は貴重な自然の景観を再生することを希求しているのです。しかも高館からの景観は、単なる風光明媚の地というだけではなく、奥州藤原氏の文化あるいは英雄の源義経、さらに歌人西行、松尾芭蕉といった歴史的人物に連なる、歴史的文化的な景勝地なのです。それだからこそユネスコ世界遺産の候補地にも名を連ねることになったのです。ところが、現状を見てください。どうですか。無味乾燥な平泉バイパスが、大切な聖域をまっぷたつに寸断して北に走り、景観を見事に破壊しています。これでは世界遺産になる資格などないと思えるのですが、世界遺産になるための観光客の道路の確保などという論理が、平気でまかり通り、馬鹿げた工事が強行されているのです。
ヨーロッパで、昨年凄まじい洪水が、起きました。特にドイツでは大変な被害で、さまざま取り組みがなされ、その結果やはり堤防を高くするだけのこれまでの治水のやり方から、自然に氾濫する地域を設けることによって、防ぐ方法が大切との反省がなされつつあります。結局平泉でも昨年6号台風による洪水が起きましたが、被害は下流の砂鉄川付近で起きました。堤防を高くすれば、河床は結果として高くなり川の流れは速くなります。そして水はますます下流域で猛威を奮って洪水を起こすのです。
もう対処療法的な取り組みでは、無理な所まで来ています。じっくりと山の木を育て、川を蛇行させ、水の遊び場を再生しなければ、結局同じことがいつ起きても不思議はないのです。それでも日本人は、様々なしがらみという衣を纏い、無関心を装って生きるのでしょうか。
公務員になられるという愛媛っ子さん。
憲法15条の規定によれば、
「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」
「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」
と明記されています。どうか日本の未来を良く変えていってください。
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探訪冬4冬の夕暮れその1は平泉の歴史を見るような気がしました 投稿者:伊勢春太郎
投稿日: 1月13日(月)21時57分12秒
久しぶりにホームページにアクセスしました。
吹雪く衣川からの関山の景色、胸を打つ瞬間の映像です。人の愚かな所業を風刺し、その身勝手を拒絶する神の怒りを見るような思いがしたと言ったら大げさでしょうか。
仮想現実のコンピュターグラヒックが世を席巻する時代です。身も凍るような現実が忘れ去られようとしています。
身体の芯から凍えるような生の映像が追いやられています。
我々の間違えようとしている所は、案外そんなものかもしれません。
山を崩し、野をアスファルトで被う。
多くの人にとってこれも仮想現実なのかもしれません。
平泉区域を席巻している開発事業。これもまた然りです。
吹雪く衣川は冷酷な風景です。人間を拒絶する厳しい自然のすがたです。
安易なコンピュターグラフィックなどでは表現できる訳がないと言ったら、皆様の怒りの声が聞こえそうです。
私はなぜかこんな風景に心が安らぎを感ずる変わり者の一人です。
ひょっとして、
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新年もよろしくお願いします。 投稿者:愛媛っ子 投稿日: 1月12日(日)15時00分56秒
>管理人様、Takahashi様
ありがとうございます。とても活力になる意見を本当にありがとうございます。
最近、年金の給付などの改革が進んでいるようです。少子化・高齢化が進んでいるにしても
もっと別に改革すべきことはたくさんあるはずです。道路公団・・・特殊法人はすべて赤字、民間の企業なら倒産している状態なのに税金を使い経営を継続させている。戦慄の蕩尽である。
そんなことのために税金を納めていることが今の若い世代の政治・行政離れを悪化させているんだということに早く気づいてほしいです。しかも、それを理由に税を払わない若者がかなり増えているそうです。国民年金を若者の3人に1人が払ってないそうです。年金を納めていないのにも関わらず公務員試験に合格した方がいます。
そんな志のまま公務員になって何のビジョンもないままいい給料を貰い生きていくんでしょうか?
公務員というのは「公」=「国民の為」にあるものではないのでしょうか?
いつのまに「利己」になってしまったのでしょうか?
「公」のためというのなら、いっそのこと24時間体制にすればいいと思います。
現状は時間は5時まで。祭日・休日は必ず休み。いつでも行けるような状態ではない。
仕事の時間を割いて、市役所なり役場に足を運ばなければならない。
そして駐車場の狭いこと。社員の駐車場はしっかりと完備されているにも関わらず、なぜ「公」
の使用する私達国民の税金で建てたにも関わらず、決して利用する側が不便を強いられる。
24時間いつでもいけるよう消防員のように「国民の為に」という志で仕事をしていけば、
「公」として重みを感じビジョンを持ち少しずつでも変わっていくのではないでしょうか。
市町村合併が進んでいる中、とても住民達にはいい事ではない作為的な合併でしかないような感じがしますが、それによりいい方向に進んでいくこともできます。
合併とともに24時間体制をしていただきたいと思います。
私達若い世代がいかに関心が無いことが日本に負の連鎖を築き上げてしまいます。
「今がよければそれでいい」そんな考えで生きて「面倒だから、将来貰える保証もないから」
そう思い若い世代が皆払わなければ、どんどん情勢は悪化していきます。
そんなことで若者が国民の義務を放棄していたら誰が今の日本を支えるんでしょうか?
先賢の方達が日本を思い未来を築く為、時間を惜しみ、身を削り、築き上げた
日本という国を、そんなことで崩してしまってもいいんでしょうか?
今の環境に甘え、当たり前にあるものだという考えにしてしまったのは、誰でもなく自分自身だということに気づくべきだと思います。
そう思います。
これからも行政に目を向け、自分なりの考えをもって生き、
未来を築く為に、先賢の方々の歴史を学び成長していきます。
どうぞ、よろしくお願いします。
今年は是非、高館に訪れたいと思います。
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2000.11.26
2003.6.15 管理人