D2001.03.03〜04.14
昨夜の「北上川フォーラム」に関する建設省のレポートは以下のサイトにあり。
http://www.river.or.jp/kawa/mi0012/mi005.html
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149 「北上川フォーラム」に意見する 投稿者:佐藤
投稿日: 4月14日(土)17時52分35秒
NHK教育テレビ4月13日午後23時に放映された「北上川フォーラム」を拝見した。このフォーラムは昨年の11月18日一ノ関で開催さ
れた同名のフォーラムの録画である。
1 平泉文化と北上川の関係の説明不足
北上川の紹介はほどほどであったが、肝心の平泉文化の成り立ちとの関係の部分の説明が少なかったのが、気になった。初代清衡公が豊田の館
を平泉に移した理由は、平泉が北上川という大河の湊として、京の都以上の可能性を見たからである。四方を山や川に囲まれ、船で北上川を下
り石巻から太平洋に通じる平泉という都市は、館として攻めるに難しく守るに易しい。同時に商業貿易を考えたならば、かつての平泉は絶好の
水の都であったことだろう。そのような意味で北上川の可能性に最初に着目した奥州藤原氏初代清衡公の北上川を中核に据えた都市造りの思想
を平川南氏に語って欲しかった。
前沢町にお住まいの三好京三氏の言に期待したが、少し話がずれているような気がした。それは政庁としての柳の御所という文化財を守るため
には川の流れを変えることは、仕方ない。人間の文化という為にはそれも許される、という論理には、異質なものを感じた。少なくても私は、
この三好氏の発想は、明治以来の治水思想に根ざした所の人間の科学の力によって自然を作り替えこともやむを得ない。また辞さない。という
一種の科学技術に対する過信のようなものに根ざした考え方に思われたからだ。(下へ続く)
2 平泉文化の独創性について
もしも平泉に花開いた平泉文化が大切だというのであれば、中世都市平泉の学術的解明を徹底し、平泉という都市の過去の姿の復元図を作るべ
きである。今平泉の古地図や、遺跡の発掘によって、次第に平泉の全貌が明らかになりつつある。先に書いていただいた前川氏は、最新の研究
成果を基礎として、中世都市平泉が全体として苑池構造をしていたという仮説を述べられている。確かに平泉は、様々な性格を持った都市であ
る。湊であり、館であり、苑池であり、仏を観相できる楽土である。すなわち商業貿易が容易にでき、しかも館としてもあり、また雅な遊びに
も興ずることができ、仏教の平和の思想を教える土地なのである。
ここまで書くと、平泉が、完璧な京都の模倣(コピー)であるという考え方が、間違いであることが明確になるであろう。都市である平泉と京
都の違い。その第一は、北上川と鴨川の違いをみればすぐに分かる。北上川は、北上川のまま、大洋に流れ込んでいる。しかし鴨川は、そうで
はない。川の性格の違いが、都市としての平泉と京都の違いとなって反映している。第二は、館としての性格を持つ平泉に対し、京都の御所
は、政庁ではあっても館ではない。京都は地形を利用しながらも、街を碁盤の目のように配列した。一方平泉は古地図を見、発掘の成果をみる
限り、人工的に成形したというよりは、段丘は段丘として、遊水池は遊水池のまま、むしろ自然の景観をそのまま利用しているようなふしがが
多く見られることである。今後平泉の中世時代の姿が明らかになるにつれて、平泉という都市を造った思想の独自性が明らかになって行くはず
である。
3 近代河川工法の限界
三好氏は、平泉文化の大切さは認識しておられると思う。しかし残念ながら平泉文化の何が、オリジナルで、現代に生きる我々が、その文化の
思想を未来に向かって、どのように伝えて行かなければならないのか、という認識が少し我々と違っているように思えて残念だ。おそらくそれ
は氏が戦後すぐにやってきたカスリン台風とアイオン台風の被害者であり、その災害によって、友人などを亡くされた経験が心の傷としてある
からであろう。確かにあの台風がもたらした大水は、いまでも語りぐさになっているほどのすごさであった。
あのような災害が起こらないようにするには、護岸工事によって、川と岸辺は、高い堤防を構築して防ぐしかないかもしれない。しかしよく考
えてみればこれは明治以来の治水の考え方で、災害に対する対処療法的な発想である。過去にももちろん災害はあった。しかしあの戦後すぐに
起きた災害をもう一度原点に立ち返って考えるならば、明治以来北上川沿岸で繰り広げられてきた治水の為の堤防による治水の限界という側面
を見過ごしてはいないだろうか。
明治以降、高い堤防によって、守られたため、田畑の耕作面積は飛躍的に増えた。また本来で在れば、遊水地となって草や葦などばかりの土地
に人家まで建てられるようになった。そこでは近代河川工法が自然に勝ったと評価されていたはずだった。しかし北上川の至る所にあった水の
遊び場としての遊水地が、近代河川工法によって、次々となくなってしまう中で、たまり場、遊び場を失った川の水は、これまで以上に勢いよ
く、下流へ流れることになってしまったのである。
平泉北上川は一ノ関をかすめて川崎町に向かうが、ご存じの通り、あそこは、狭い谷間を北上川が流れていて、水が集中的に集まってしまう場
所である。近代の河川工法の限界がここにあるのである。
そこで次ぎに登場するのが、ダム論争である。水がいっぺんに流れないように、ダムを造ればよい。こんな対処療法的な考えによって、すぐに
日本では昭和30年代にかけて一大ダム建設ラッシュが起こった。北上川でもそれは例外ではなかった。北上川の支流の上流にダム建設が盛ん
に進められた。勢いダム工事は公共事業でもあり、ゼネコンや地元に多くの利権となって降り注いだ。
しかし今や、ダム下流の地域で起こっていることはと言えば、水質が落ちたことや、途中の土砂崩れなどで、支流の川そのものが瀕死の状態に
なっていることを否定することはできない。今必要なことは、近代河川工法を頼りにした対処療法的な護岸工事ではなく、カスリン台風やアイ
オン台風が何故あのような災害をもたらすに至ったのかの再検討をし、水と真の意味で共生できる河造りを実現していくことではないだろう
か。
4 清衡公の「水と共生する都市平泉」というグランドデザインに学ぶ
そのためにも、我々は中世都市の平泉を建設した清衡公の平泉建設の思想に学ばなければならないと思う。清衡公の考え方は、中尊寺供養願文
に余すところなく表現されているが、それは一言でいえば、「水と共生する都市平泉」ということである。だからこそその子の基衡公も孫の秀
衡公も、水をふんだんに活用した苑池や堤、堀などとして、上手に配置したかつて日本のどこにも存在しえない都市平泉を、奥州の地に出現さ
せることができたのである。
あの北上川フォーラムにおいて出てきた河川に対する思想は、明治以来の対処療法的な河川工学の域を抜け出ていない論議で残念ながら、問題
の核心をついているとは到底思えない不毛な論議であった。元建設省の河川局の尾田栄章氏が、最後の方にいみじくも云われたが、「川の流れ
を変えて果たして川を守れるのか」という考え方は、一つの問いかけとしては意味があったと思う。河川の専門家が、高館と柳の御所前で蛇行
する北上川の流れを変えて、それで大丈夫か、ということは、大いに議論されなければならない。
さて最後に、「フォーラム」を総括してみよう。おそらく奥州藤原氏が滅んだ後の平泉には、多くの河川の氾濫があったことだろう。平泉は、
放って置けば、自然にでも水が溜まりやすい地形の場所である。そしてそこは江戸期の治水の考え方にしたがい、田畑化もされないままになっ
ていた。それは自然が500年の年月を費やして造り上げた廃墟の面影があった。その場所を訪れた俳聖松尾芭蕉は、その茫漠とした景色に涙
を零しながら生涯の一句をを詠んだのである。「夏草や兵どもが夢の跡」確かに芭蕉の感性が捕らえた高館からの景観は、ただ夏草と北上川と
束稲山と北へ向かう古道と、霞む衣川くらいしか見えないのだが、誰もが「平泉の原風景」として納得してしまうほどの凄味のある景色なので
ある。さて今回の「フォーラム」は、この高館の景観をまったく無視した形で進められた今回の「北上川フォーラム」には少なからぬ落胆と奥
州文化の未来への継承に赤信号が灯っていることを皆さんに訴えたいと思う。了
冠に「史跡」とあれば高館を守る人ありや文化行政
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148 岩手県県土整備部部長の考える平泉バイパス 投稿者:管理人
投稿日: 4月13日(金)17時49分03秒
皆さん本日の岩手日報「声の欄」をご覧になりましたか?
本日、岩手件県土整備部部長、竹内重徳氏の署名で、3月5日付けの「紙面批評」に掲載された田村麗丘氏の「認識低い「風景」保護」に対す
る県の考え方が示されております。
田村氏は、3月5日の記事の中で、以下のようなことを云っておられた。
?「景観というものに対するデリケートな遺産についてはあまりにも日本人は
無知であり保存に対する意識が遅れている」
?「(高館は)ひん死ではあるがまだ完全に生命が起たれたわけではない。子孫に対し罪を犯さないためにも県民にも詳細を知らせ、衆知を集
めるのも地方紙の役割ではないだろうか」
?「岩手人が真価を問われている」
そして県の竹内部長の答えは、以下のようなものである。
?「県は、平成12年四月に平泉を周辺重点地域」にして、・・・広く「景観サポーター」を募集し、さまざまな提言や景観づくりに参加いた
だくなど、地域にふさわしい景観形成をはかっていくこととしております」
?「平泉は世界に誇り得る貴重な遺産であります。県としても早期の世界遺産登録の実現に向け、平泉町と連携、協力を図りつつ、平泉の文化
財の保存整備・調査研究などに積極的に取り組んでいきたいと館敢えています。」
?「・・・国道4号平泉バイパスの工事については、・・・わが国を代表する歴史的風土景観地域にふさわしい景観の形成ができるよう努めて
まいりたい」
さて皆さんはこの回答をどのように読むでありましょうか?
田村様、掲示板ご覧でしたらご意見をお聞かせ願えませんでしょうか。
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147 歴史に根ざした川づくり 投稿者:前川
投稿日: 4月13日(金)14時46分51秒
「北上川フォーラム」は、今晩11:00〜0:10にNHK教育テレビ「金曜フォーラム」で「歴史に根ざした川づくり」と題して放映され
るようです。出演者は三浦朱門、三好京三、平川南、尾だ栄章、千葉万美子、平野次郎の各氏と新聞紙面にはあります。
北上川治水がどのように「歴史に根ざしている」のか、はたまた「川づくり」とは如何なる趣旨か、見極めようではありませんか。
146 北上川フォーラムの放映あります 投稿者:前川 投稿日: 4月12日(木)22時44分13秒
明日,NHK教育テレビで夜11:00〜0:10、昨年一関で開催された「北上川フォーラム」が放映されるそうです。元建設省主催とあ
って文化人や有名人を呼んで行われたフォーラムには、近隣から大規模な動員がかけられ、まさに北上川の治水は国主導の事業であるというこ
とをまざまざと見せつけたのでした。このような中、中尊寺の千田貫首や国立歴史博物館の平川南先生は、高館の景観破壊など、この地域がも
つ歴史的景観を損なうことに警鐘を鳴らしておられます。
国家権力が大規模な国家予算とその権力をたてに、その事業の正当性を周知させるごとく全国放送させるのです。その渦中にある高館の景観
破壊や平泉の景観問題についても、全国規模で周知させる必要性があると思います。掲示板を閲覧しているみなさん、ぜひお力をお貸しくださ
い。
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145 尾山篤二郎翁の平泉の歌を巡って 投稿者:管理人
投稿日: 4月12日(木)15時24分17秒
歌人にして「西行法師全集」の編集者である故尾山篤二郎翁は、かつて大正9年7月に芭蕉の奥の細道の跡を辿るべく陸奥への旅を敢行した。
もちろん西行の研究者である翁にとって、平泉は特別な場所であることは当然である。元々芭蕉自身の奥の細道の旅そのものが、西行の旅を追
憶する旅でもあった。尾山翁は、二人の先達の心の軌跡を探しての旅で在ったのであろう。
翁は、平泉に来て、かつて吉野山にも比肩するほどの桜の名所であった束稲山に足を運んで、次のような歌を詠んだ。
束稲の山の桜はむかしこそ人見けむかもいまは草山
この歌は、当然西行の「聞きもせずたはしね山の桜はな吉野の外にかかるべしとは」を意識していることは明らかである。ここでいう「人見け
む」の人とは、多くの桜を愛でる人一般を指しているというよりは、特に西行を指しているように解釈すべきであろう。したがってこれを訳す
るならば、
”西行法師がその昔見て驚いたという束稲山の桜の花はいったい何処に消えてしまったのだろう。私がこうして見ている同じ山は、ただ茫々と
夏草が生い茂っているばかりではないか”
また高館山に登った翁はこのように詠った。
みなもとの九郎の館に美草生ひ木立まばらにして蜩(ひぐらし)なけり
この歌はもちろん芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」を意識しながら、「みなもとの九郎」と義経公を特定することで、独特の味わいを醸し出し
ている名歌である。翁が平泉に入ったのは、残暑厳しい八月の初めであった。日は西へ傾き、金鶏山の辺りが黄金に輝いていたことであろう。
夏草が生い茂り葛の葉が義経堂のすぐ近くまで迫っていたことだろう。その前を滔々と北上川が流れていく、翁は芭蕉が、刹那の中に感じた永
遠なるものを感じて、鳥肌が立っていたかもしれない。
それは「歌人よ。吾が歌を詠え。吾が思いを三十一文字の中に刻み込め」そんな義経公の声が聞こえた瞬間でもあった。するとどこからともな
くヒグラシの鳴く声が切なく響いてきたのである。芭蕉の歌に「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という句があるが、翁は亡者である義経公
の声をヒグラシの声の中に聞いたのではあるまいか。
この歌の中で、亡者である義経公とまさに生き生きと生い茂っている「美草」を媒介するものとして蝉の声がある。風景の中で聞こえてくる音
というものは、いわば自然が奏でる音楽のようなものだ。この歌には言葉としては盛られていないが、おそらく北上川のせせらぎの音と夏の風
の音が暗に含ませていたことであろう。そうすると歌人がこの歌を詠んだ時の生気に満ち溢れた夏の高館の情景が、沸々と浮かび上がってくる
のである。美草としたのは、この雑草がただの雑草ではないぞ、という高館の景観に対する並々ならぬ思いを表している。
その後に翁は、衣川の関に向かった。衣川の関は、古の歌人が、そのイメージを拡げるために歌枕として好んだ景勝の地である。
衣川関あととめてわがくればただに靡(なび)けり黄昏の草
衣川の関と言っても、そこには関が在るわけではない。ただこの辺りに関所があって、蝦夷の国と大和の国を分ける分岐点があったのではとい
う口承があり、立て札が立っているだけである。しかし歌人のというものは、その何もない風景の中に、かつてそこに蝦夷と大和の軍が対峙し
ていた気配のようなものを感じ、歌が自然に湧き出すのである。
黄昏時に長く伸びた夏草が、夕陽を浴びてゆらゆらと揺れている様を想像していただきたい。この場所に対峙し、蝦夷の血を引く安倍氏と源頼
義、義家親子は実に三十八年もの長きに渡って戦争をしたのである。その結果多くの血が流れた。平泉に行って、誰もが感じる切なく人の心に
迫ってくるような景色は、実は多くの生者が命を賭して戦いそして亡者になった哀感のようなものが、景観として塗り込められたいることによ
るものである。
この戦によって傷ついた奥州を何とか、しようとした者が登場する。その人物こそが、平泉に都を移した藤原清衡公その人である。この人物
は、自らを蝦夷の血を引く者という事実を隠さず、戦によって傷ついた人と奥州そのものを仏教の大乗精神をもって極楽浄土しようという高邁
な精神をもって平泉の都を建設しようとしたのである。
清衡公が「中尊寺供養願文」の中に、彼のすべて平泉という都市建設の思いが込められている。
「・・・(前略)吉土を占いては、堂塔を建て、眞(真)金を冶しては、佛経を顯(顕)わす。
経蔵・鐘樓・大門・大垣、高きに依りては築山
し、窪に就いては池を穿つ。龍虎は宜しきに協(かな)い、即ちこれ四神具足の地なり。蛮夷は善に歸(帰)し、豈(あに)、諸佛、摩頂の場
に非ずや。又萬燈曾(まんどうえ)を設して、十方尊を供(とも)す。薫修は、遍えに法界に定まり、素意は、成して悉地(しつち)を盍(お
お)う。」
この中で清衡公は、平泉の都市建設におけるグランドデザインを説明している。つまり平泉は占いによって決めた吉土である。そして自然の景
観をそのまま生かして、高い山には高いまま、窪地には、水を引き入れて池とし、風水の思想から竜がいつでも水が飲めるような寺社の配置に
する。このようにすれば、この地上そのものが浄土となり、争いごとも地上からことごとく消えてしまうのではないか、というような趣旨のこ
とを云っている。
中尊寺は、いわば平和の都市平泉の根本中堂として考えられた寺であった。その中でも金色堂は、中尊寺そのものの象徴である。
尾山翁は、金色堂でこの
五月雨のなかをとひ来てそのかみの人もわがごと心すみけむ
この歌は、芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」を受けて詠まれている。もちろん翁は五月雨の中ではなく、八月に来たのだから、情景の歌で
はなく、金色堂に来た時の翁の心象風景を詠った歌である。奥の細道を辿った芭蕉の心をなぞりながら、翁はそろそろと光堂の中に入った。す
ると時空がまったく変化して、不思議に心が澄んで行くのを翁は感じたのである。「このように芭蕉さんも心が清浄な光りが射してきたのであ
ろうか」
尾山翁が訪れた平泉の印象が今、消え去ろうとしている。都市の近代化は、必ずしも清衡公の供養願文が規定している都市建設のグランドデザ
インと合致しているものではない。そこが問題なのだ。永遠に朽ちぬ浄土を建設しようとした都市には、耐用年数が百年にも満たないようなち
ゃちなコンクリートの構築物ではいかにも相応しくないのである。
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144 中尊寺佐々木邦世新執事長のリーダーシップに期待する 投稿者:管理人
投稿日: 4月11日(水)23時00分53秒
本日の岩手日報の朝刊に、この度中尊寺の新執事長に就任した佐々木邦世師の紹介記事が掲載されている。
その中に、「高館からの素晴らしい眺望などを守るためには傍観者ではいられない」との師の言葉があり、感激した。また、師は平泉が世界遺
産に登録されるためのキーワードとして藤原清衡公が平泉文化建設の精神的支柱とした「中尊寺供養願文」を掲げて居られる。
まったく同感である。
あの供養願文の一字一句は、奥州の一隅である平泉という鄙の地に居りながら、その精神は、奥州を越え、日本を越え、現代にも通じる普遍の
浄土に遊ぶが如く徹底した平和と慈愛の精神に満ち溢れている。この清衡公の思いは、文化都市としての平泉を900年に及ぶ長きに渡って、
その基底において支えて続けている奥州の精神風土(思想)そのものなのである。佐々木邦世師が云うように平泉が今後世界遺産に登録される
時、この清衡公の精神が大きなキーワードになることは自明である。
いまでも恒久の平和を念じつつ平泉という都市を建設した清衡公の精神は、平泉の中尊寺や毛越寺のみならず平泉のありとあらゆる所に歴史的
景観として存在し続けており、その景観を台無しにする平泉(高館)バイパスの如き異質な構築物は供養願文の精神を蔑(ないがし)ろにする
ような愚行である。
清衡公の精神を生かすためには、藤原三代によって築かれた過去の遺構を出来うる限り、修景するなどして、歴史的景観を復元することが大事
であり、それが結果として、歴史的中世都市としての価値から平泉が世界遺産に登録されることにも通じるのである。安易な道路工事などで、
観光客の利便をはかれば人が集まるのではと言う考え方は、世界遺産精神にも、清衡公の供養願文の精神にも反する行為であり、再考されなけ
ればならない。
新執事長のリーダーシップに期待したい。
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143 高館の歌 六首 投稿者:佐藤
投稿日: 4月11日(水)10時48分28秒
ことごとく消え失せにけり高館の荒野に生ふる露草の群れ
高館は牛馬の如く屠殺場に牽かれつつあり声上ぐる者なし
冠に「史跡」とあれば高館を守る人ありや文化行政
じりじりと心の奥にやるせなき思い抱くも流れ抗せず
誰守る地元の民の声なくて掛け替えのなきふるさとの景色(けい)
かりそめに芭蕉西行甦り高館問題問をて答や
故郷の訛りも消えて高館の景色も消えて平泉の明日
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142 昔をなつかしむ 投稿者:ススム君
投稿日: 4月 9日(月)22時10分19秒
僕が平泉町に行ったのは今から10年ほど前のことでした。僕にとって平泉といえば、教科書に出てくる中尊寺金色堂や義経最後の地ぐらいでし
た。
しかし行ってみて驚きました。京の都から遠く離れた土地に京で花開いたような仏教文化があったなんて…。大きなお寺に立派な庭園、また史
跡として残っている観自在王院や無量光院等々。行った季節はちょうど夏真っ盛りで緑がたいへん鮮やかでした。季節がら観光客はまばらであ
ったけど、それが何ともいいい塩梅でした。思いました、「平泉には町の喧騒なんか似合わない、ゆったりとしたときが流れていて、皆はそれ
を感じにくるんだなぁ」と。
高館にものぼり、眼下を流れる北上川の雄大さも体験しました。千年の時をじっと見続けてきた北上川。「よく来たな」と言っているようでし
た。そこには、何事にも傲慢である人間の存在すら感じなかった。川や山、木々、空気があるだけのように思えました。
聞くところによると、平泉には北上川の堤防ができ、バイパスが走り、川の流れさえも変えようとしているという。車社会に囲まれた町、平泉
になってしまうのではないか。
もう遅いのか!工事の計画変更。私が感じた、「喧騒が似合わない町、平泉」は、やはり“夢のあと”となってしまうのでしょうか。
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141 高館から柳の御所を見ると・・・ 投稿者:前川
投稿日: 4月 8日(日)23時34分48秒
私の考える平泉時代の高館は、柳の御所の重要な軍事施設です。なぜなら、高館からは柳の御所を簡単に見下ろせて平泉の町も一望できるとい
う点、そして高館には12世紀代と考えられる堀が巡っているからです。丘陵上に堀をめぐらす構造や柳の御所のように段丘上に堀をもつよう
な施設は、この時代、関西には見当たりません。東北地方独自の産物です。だから、堀をもった柳の御所や堀をめぐらした高館をみた京都の
人、例えば義経なんかは、びっくりしたと想像されます。柳の御所が今後、遺跡公園として整備されていくなら、これら堀を復元しただけでも
十分インパクトがあると思います。
そして高館も、柳の御所と一体の施設と認識してもらい、高館から柳の御所を見下ろせるスペースを造るというのは、どうでしょう。高館の
柳の御所側の木を少々伐採し、堀も復元して、そこにそこからみた柳の御所のイメージ図と説明版(もちろん周囲の景観説明も)を設置しま
す。また、のぞくとCGで当時の建物などが復元されるような望遠鏡を設けるのです。平泉の町並みもCG復元したらおもしろそうだから、望遠鏡
はいくつかあったらいいでしょうね。史跡公園を上から見られるなんて、おもしろいと思いませんか?
柳の御所は建物を復元するとかいう話があります。でも清衡の頃から四代が使用しているのだから、それぞれの時代の建物があったと考えら
れますよね。最盛期の頃を復元したら、それだけのイメージだけになるのではないでしょうか?現代人に不足しているのは、想像力だと思いま
す。色んなイメージを想像させ、わくわくさせるような整備にしてもらいたい。高館から柳の御所を見たとき、ここには誰がいたんだろう?平
泉の中心施設を見下ろせるくらいだから、藤原氏の信頼が厚い人だったのかなあ-?とか。北上川の船舶も監視できるし、北から来る人もわかる
なあとか。
高館を有名にした義経も芭蕉もここでは登場しましょう。もちろん、場所を変えて高館から北上川を眺めながら。高館が歩んだ歴史を肌で感
じてもらうのです。教科書にも登場する「奥のほそ道」の一場面。高館で実際に国語の授業を受けたらおもしろいでしょう。教科書に載ってい
る場所を無残な姿に変えようとしている現状は、「教育」をないがしろにしている行為ではありませんか?
高館は現在、史跡でも名勝でもありません。そういうお墨付きがなくても、素晴らしいところであるということは、一度でも訪れた人はわか
るはず。町や県や国が守らないなら、私たちが守らないと。高館の景色に感銘を受けた皆さんで守りましょう。ぜひお知恵を拝借させてくださ
い。
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140 平泉という思想 投稿者:管理人
投稿日: 4月 7日(土)23時27分34秒
前川さん、詳しい説明どうもありがとうございます。
中世都市としての平泉そのものが苑池構造をしていたという考え方には感銘いたしました。
確かに文治5年9月(1189)に鎌倉から頼朝が攻め上ってきた時は、すでに政庁としての柳の御所は焼失しておりましたが、中尊寺、毛越
寺は健在でした。頼朝は、そのスケールと都市を造り上げた美意識に感動したことは、吾妻鏡にも表記されている通りです。頼朝が、深く心に
思ったことは、奥州に花開いた平泉という都市の背後に潜んでいる思想だったはずです。
つまり頼朝はこの鄙びた地に、浄土を作り上げようとした藤原三代の都市計画というか、グランドデザインにこそ感動を受けたのだと思いま
す。当然その思想は、京から離れた鎌倉に、新たな都を建設しようとした頼朝に大きな影響を与えたことは明白です。
我々が、平泉に佇んでいて、感じる不思議な感情は、奥州に楽土を実現し、戦に死んで逝った者を心から弔うのだ、という中尊寺供養願文に込
められた初代藤原清衡公の思いではないでしょうか。
芭蕉という感性豊かな人物が芸術として昇華させた「夏草や」のあの句にある独特の哀感もやはり清衡公の思いに感応した結果であったと私は
思います。
その意味で、柳の御所を分断し、その上を通るはずだった平泉バイパスが、心ある皆さんの反対により、中断されたことは意味のあることでし
た。その後、柳の御所の発掘調査が進み、単なる遺構の考古学的な研究に留まらず、平泉という中世都市を支えていた思想そのものが明確にな
りつつあります。
カワラケの出土とその研究から、北上川から石巻に出て海路を通しての京との往来が証明されつつあるなど、平泉という中世都市のスケール
が、10年前とは大きく変化しつつあります。
平泉が、水の都だったと想像するとわくわくいたします。衣川と太田川が北上川に流れ込み、その水の流れが巧みに苑池として配置され、さな
がら水に浮かぶような都市だったといささか大袈裟なことまで考えてしまいます。
古地図や中尊寺願文の研究から、更に中世都市「平泉」全体像が鮮明となり、前川さんが指摘する如く平泉そのものが巨大な苑池構造というグ
ランドデザインを以て構想された都市であったことが明らかになると信じます。
ですから皆さん、もう一度、柳の御所を分断する平泉バイパス工事を中断させたエネルギーを復活させて、高館の景観をめちゃくちゃにする平
泉バイパス工事を反対する署名活動にご参加いただきたいと思います。
平泉の名誉町民であり、平泉研究の大長老藤島亥治郎東大名誉教授(当年102才)は、「東方に在り」の中で次のように書いておられる。
「藤原三代は、この地に12世紀の黄金文化都市を高めたと共に、東北第一の都市遺跡を残したわけである。これらは日本に顕著な史跡であ
り、町民の方々にも古都としてそれを守る誇りと責務があろう。しかもそれは古都の復元ではなく、古都的な風土を失わぬ現代都市でありたい
ものである。それには史的景観・自然景観を無視できない(後略)・・・。」と。
清衡の思い知るべし奥州に咲かせむとした大乗の華
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139 平泉の苑池−藤原氏が理想とした風景 投稿者:前川
投稿日: 4月 6日(金)13時41分23秒
先月一関で開催された平泉フォーラムで私が報告した「平泉の苑池」について、佐藤さんから簡単に説明して欲しいとご依頼を受けましたの
で、おそまつながら、述べさせていただく次第です。
私は、平泉を一つの大きな「庭」と考えました。「苑池」という表現を使用しますが、「苑池」とは、現代用語の「庭園」より広大で、山や
池や邸宅
や寺など諸施設が共存 する空間であります。たとえば平城京には松林苑、平安京には神泉苑など「その」があります。いまでいうなら
皇居御苑
のようなイメージです。「庭」には「借景」がありますよね。京都のお寺さんのお庭には比叡山を借景とした庭があります。当時は「眺望」といって、
庭園を造営する位置環境は重要でした。平泉をひとつの「庭」としたとき、平泉から眺められるすべての景観はまさしく「眺望」なのです。
平泉には23例の池跡があります。とくに現在の市街中心部に集中しているのです。ここを「平泉の苑池」空間と考えました。平泉の時代、
町割などの街区が形成されますが、広大な鈴沢池は埋めたてられません。また各池は単独でなく、流路で連結しています。毛越寺や無量光院な
どお寺に付属する池や邸宅にある池だけではないのです。ではどのような苑池でしょうか。
平泉は選ばれた土地でした。北に中尊寺がある関山と高館が、東に北上の大河が流れ、南は広く湿地が広がります。西には達谷窟からのびる
道があるという、玄武・青龍・朱雀・白狐の四神相応の土地です。その中心は柳の御所でした。昨年の調査で柳の御所から清衡時代の土器が多
量に出土しましたが、私は、清衡が江刺から柳の御所に宿館を移したことに平泉は始まると考えます。
柳の御所の真西には神奈備山とみまごう金鶏山があり、お彼岸には真東の束稲山と観音山の中間から登った太陽が金鶏山に沈む光景が望めま
す。また父祖の廟堂である金色堂の正面は柳の御所を向き、花館廃寺も柳の御所を見下ろすのです。金鶏山の頂上には経塚があり、その後ろの
山々の頂上には経塚が営まれています。まさに西方浄土を具現化した聖域なのです。
そこから流れ出る水や伏流水となった泉から取水して池が造られました。これら聖なる水はいくつかの池を経由して最終的には北上川へ注ぐ
のです。周囲にはお寺や邸宅、柳の御所があります。これら全体を「苑池」と考えたのです。これらの時期は二代基衡のころと考えます。
お隣の中国にもよく似た苑池がありました。北宋の帝都開封に内裏の東北を鎮めるために造られた「艮岳」という苑池です。これは12世紀
第1四半期であり、平泉と時間的齟齬はありません。
平泉を苑池空間にした理由には、平泉藤原氏の理想が反映されていると考えます。平泉周辺の山々を浄土にみたてた浄土思想、池の中島は蓬
莱山といわれますから神仙思想、そして京都に対する王城鎮守という観念が存在したのではと思いました。
平泉の苑池を「彼岸」とするなら、北上川をへだてた対岸地域は「此岸」にあたるのではないでしょうか?
「平泉」という名前は以上のような苑池的性格から名づけられたと考えます。平泉の語源のひとつに、「酒泉跡」があり「平らな泉の湧き出
る場所」ということです(『平泉旧跡志』)。同じ語源をもつ苑池が中国の唐にありました。その名も「平泉荘」。12世紀には遺跡となって
いた「平泉荘」ですが、白居易などが詩文に詠んでいるので藤原氏が知っていた可能性はあります。
このように考えられるわけですが、池は観賞用のみでなく、都市の排水場であり、浄化装置、また自然遊水地という実質機能を備えていたと
思われます。つまり、藤原氏は、平泉にたって360度見渡した山や川などの景観すべてに、当時の理念を織り込んで、意味付けをした上で、自然と共存
しながら「平泉」を創り上げたのです。だから、ひとつでも景色が損なわれては「平泉」ではなくなるわけです。
残念ながら金鶏山の西にある鈴懸森経塚周辺は温泉付分譲地として売り出されています。西方浄土と見立てた聖域をですよ。近い将来、柳の
御所から彼岸の夕日が金鶏山に沈む光景さえも見られないかもしれない。藤原氏がみた景色は二度と再生されません。高館の景観もそうです。
高館は柳の御所の重要な軍事施設と考えています。平泉随一の景勝地を台無しにしている。フォーラムのあと毛越寺に行きましたが、東北道の
騒音がうるさかった。騒音は上に響くため、平泉バイパスが開通すれば、ものすごい騒音が義経堂をつつむでしょうね。きっとお金がかかる東
北道よりこちらを使用するだろうから。工事が進んでいるのは重々承知のうえで、何とかしたいと、今しないと絶対後悔すると、心より願う次
第です。将来子供たちに「あの景色をみせたかった。でも仕方なかったんだ」と、言い訳をするのですか?
誰かがしてくれるものではないのです。私たちでやりましょう。
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138 奥州の「一隅」「平泉」を支える不思議な力 投稿者:佐藤
投稿日: 4月 4日(水)20時05分47秒
「東方に在り」の中で千田孝信貫首が「目に見えない遺産」と題して次のように語っておられる。
「平成十一年、東京国立博物館に平成館が竣工開館した際、当山からは金色堂の仏像を協賛展示した。・・・名だたる仏像群の中にあって、わ
が金色堂のみことけたちは、整った定朝様式の美意識を御身の隅々まで満ちわたらせて、何らの遜色もなく、ひとしお高く尊い後光を放ってい
るではないか、とくに地蔵菩薩の微笑みは、群を抜いた美しさであった。
掌を合わせて瞑目したら、清衡公が「どうだお前、わかったか!」と、直々に喚びかけてこられたような感動が、胸一杯にこみ上げてきて、溢
れる涙を抑えきれなかった。みちのくの土の匂いを金色堂の仏像の形象ぁら、敢えて拭い去ったお心の程が納得されて、「あくまでも完璧の普
遍を目指されたのですね」と、清衡公にお応えしたのだった。
十二世紀の平安末期、都から遙か僻遠(へきおん)の地みちのくに在って、しかも、みやこを凌ぐ普遍の花を目指した清衡公の「五分の魂」が
私の胸を打って止まないのである。
・・・(中略)人間は、宿命的な、それぞれの「一隅」で生きるほかない。その場は、それぞれに個別なLOCAL・地方である。しかしLO
CALに徹しぬいて、おのれの立つ一隅を掘り起こして生きるとき、不思議にも人は滅びゆく「個別」から滅びない「普遍」に達することが出
来るのである。・・・このように生きるとき、滅びゆく人間の宿命が、滅びない中尊の光芒を放つのである。・・・(後略)。」
金色堂は、実に不思議な御堂である。中尊寺のすべて伽藍が焼失して新たに建てられたのに、唯一この御堂だけは、焼失を免れた。そのことの
大きな理由は、まさに金色堂だけはおのれの一命を賭しても、守り抜くのだ、という奥州の人々の決意があったからに違いない。
まずこの地が頼朝率いる鎌倉勢の手に落ちた時も、早速に中尊寺の心蓮大法師が、頼朝に会いに行って「ここは清衡公が開いた霊場であり、狼
藉のないように」と、堂々と直談判をして、存立のお墨付きを得たのであった。(吾妻鏡 文治五年九月10日)
以来この中尊寺の象徴としての金色堂は、数多の焼失の危機を人々の決死の覚悟によって守り抜かれ今日に至っているのである。さや堂は、そ
れから百年あまりして出来たものだが(1288:正応元年)、これも人々の思いが鎌倉幕府を動かして出来たものである。
芭蕉はそれから五百年して、この地を訪れ、高館で「夏草や兵どもが夢の跡」を詠み、中尊寺を訪れ、さや堂の偉容に感動して「五月雨を降り
残してや光堂」と詠んだ。更に金色堂に入ると、不思議な光りが、蛍のように現れ、柱の中に消え入る光景を眼にした。この時、芭蕉は金色堂
そのものが生きていることを実感したに違いない。もしかしたら芭蕉はこのような清盛公の声を聞いたのかもしれないとさえ思う。
「そなたに儂の思いが分かるかな?この堂に込めた儂の思いが・・・」
そして、芭蕉は、この不思議な瞬間を句にしようとした。
蛍火の昼に消えつゝ柱かな
この句は、「おくの細道」には収載されていないが、芭蕉の稀有な芸術的感性が捉えた一瞬の中にある永遠なのではないだろうか。
千田貫首の一文を読ませていただきながら、
奥州の「一隅」の「平泉」を支えている目に見えない不思議な力の存在を感じざるを得ないのである。
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137 「柱」を詠んだ一句の謎 投稿者:佐藤
投稿日: 4月 4日(水)17時54分13秒
こんな句がある。
蛍火の昼に消えつゝ柱かな
この句だけではなんのことか、まったく分からない。駄句のようにも思える。解釈してみると、蛍が昼下がりの中に飛んで来て、柱の陰に消え
たような印象を受ける。但し、「柱かな」とあるから、柱に強い感銘を受けての詠嘆であることはわかる。柱に消える蛍火とは、いったいなん
だろうか?
実はこれは平泉の中尊寺金色堂の中を詠んだ句である。
とすると情景が朧気に分かってくる。おそらく昼とは云え、さや堂の中の金色堂は暗かったのであろう。その中で灯明の火が人が入ってきた拍
子に風にそよいでゆらゆらと揺れたのであろう。すると柱に埋められている螺鈿(らでん)の貝に光りが反射して蛍火のように一瞬光り、それ
らの蛍のような青白い光りが、次々と現れては、柱に溶けいるように消えて行くのである。
ここでこの句が金色堂の螺鈿の柱の神秘的な輝きを詠んだ句であることははっきりした。さてこの作者は誰あろうあの俳聖と言われる松尾芭蕉
その人である。すると突然、駄句と思えていた句が光り輝いて見える。権威というものの、怖さである。
この句は、おくの細道の旅の中で、高館にのぼり、あの名句、「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んだ後に、中尊寺を訪れ、金色堂に行った時に詠
んだ句なのである。金色堂で詠んだ句として、おくの細道に収められているのは、周知のように「五月雨を降り残してや光堂」の一句のみであ
る。芭蕉は、「蛍火」の一句を入れなかったのは、やはりこの句そのものが独立して存在し得ないものを感じて弾いたのであろう。
芭蕉は、金色堂において、さや堂に守られて、500年もの間、雨風を凌いでそこに立っていたことの素晴らしさを讃えた句として、「五月雨
を降り残してや光堂」を残した。芭蕉が訪れた時平泉には、五月雨が降っていた。その雨の中の金色堂の情景を詠んだ後、光堂に入って詠んだ
のが、「蛍火」の句なのである。この時、金色堂は、相当荒れていたことは確かなようだ。その事実を以て、この「蛍火」の句を、古びて侘び
しい気持ちを詠んだのだ、という解釈をする人もいるようだが、私はその解釈ではなく、螺鈿の中に次々と光りては消えていく、無数の光りを
目の当たりにした感動を素直に詠んだものだと解釈したい。つまりは「詫び」や「寂び」ではなく、金色堂が醸し出す神秘的なる火に永遠なる
美を見たと思うのである。
確かに俳聖の句としては駄句かも知れない。しかし私はこの句の中にある芭蕉の審美眼を信じるものである。
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136 平泉から夏草の景観が消えていいわけがない 投稿者:佐藤
投稿日: 4月 2日(月)20時59分21秒
「東方に在り」の中にあるTRさんの次のような文章に感動した。
TRさんは、イギリス出身の女性で、縁在って夫君の田舎に農業をするために嫁いできた人物である。彼女は今農作業のかたわら、達谷窟毘沙
門神楽を修行中である。これについてはNHKでも報道されて見た人も多いはずだ。彼女は、「神楽との出会い」と題したエッセイの締めくく
りで、次のように書いている。
「今まで、踊ったところで最も印象に残っているのは、北上川の中で水量の少ない時にしか現れない六畳ほどもある大きな石の上を舞台にして
踊ったことでした。それは夕方の閑かな平和な一時に、西に見えるシルエットを背景にした踊りでした。これは千年以上も変わらず続いてきた
光景だと思いますが、同じ場所が今日、大工事で地域全体が掘り起こされているのを見ることは大変なショックでした。かけがえの無いものを
失ったような悲しい気持ちになりました。私は将来、子孫や孫の時代になったときに、松尾芭蕉の久我「夏草や」ではなく「コンクリートや」
にならないことを切に願わずにはいられません。」
まったく私はこのTRさんと同じ気持ちです。いったい平泉にとって遺さなければならない景色とはいったいなんでしょう。世界に誇れるあの
夏草の景観ですか、それともコンクリートの道路なのでしょうか。
高館に桜花咲くとも若草の瑞々しきは何処にありや
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135 2年前−高館からの絶景− 投稿者:佐藤
投稿日: 4月 2日(月)19時47分10秒
「東方に在り」第五号の表紙の平山郁夫氏の高館のスケッチを、著作権の関係でお見せ出来ないのが残念です。
そこでその年の夏に「義経ロマンの旅500キロ」の最終地平泉御巡幸の際に撮影した8月28日の高館からの「平泉遠望」HPの冒頭に掲示
致しました。平山氏の画も大体このような構図ですので想像していただきたいと思います。写真の方が、夏草がせり出しているようですが、角
度は一緒です。
二年前の8月を今さらのように思い出します。この時、菅原次男氏は、神奈川の藤沢市の白旗神社(祭神義経公:近くに義経公の首塚あり)を
皮切りに、胴塚のある宮城県栗駒町の判官森まで、500キロの道程を、白装束の山伏姿に笈を背負って、御首と御身体を合祀する旅を続けま
した。
しかも藤沢を出たのが6月13日で、この日は義経公の首が首実検された日に当たります。菅原氏はそれから43日(義経公の首が藤沢まで届
いた日数にあたる)をかけて延々と東山道を北に歩いたのでした。
7月25日、栗駒町にある判官森にて、首塚の土と胴塚の土は合祀され、ここに義経公の遊離した御神体は象徴的に一緒になったのです。それ
から一ヶ月、義経公の合祀された土は、一時、中尊寺様の粋な計らいで、金色堂内に父とも慕う秀衡公の元に安置されました。そして28日、
義経公の御神体は、平泉を巡幸しながら終焉の地である高館山に登ったのでした。高館の義経堂は、美しい花が飾られ、義経公の涙雨と思われ
る雨の中を、毛越寺藤里貫主のお導きで、高館の義経堂で催行されたのでした。藤里貫主の読経の声が響き、散華が舞い、終始荘厳な雰囲気の
中で義経公の鎮霊祭は終了し、高館の下の広場で、義経公を偲ぶ栗原神楽から一ノ谷合戦が奉納され、無事に式は終わりました。写真の景色は
まさにあの時の高館からの遠望なのです。
松尾芭蕉が、平泉の高館に真っ先に登った時も雨が降っていました。おそらく夏草が生い茂り、雨が煙幕のように北上川を覆っていたと思われ
ます。その中で読まれたのがあの、名句夏草や兵どもが夢の跡、でした。芭蕉はきっと、雨の降る中で、遠い昔に義経公の無念を思い涙を流し
たのでしょう。その前にあの写真のような幻想のような景色があったのです。
しかし今、あの夏草生い茂る風景は、完全に損なわれつつあります。平泉の至宝とも云うべき景色は、コンクリートの人工物の前に跡形もなく
取り払われました。これで良いのでしょうか。私は絶対に反対です。
下に1999年8月28日に執り行われた「義経公御霊平泉御巡幸」の記事をリンクしておきますので、ご覧下さい。
http://www.st.rim.or.jp/~success/hira_828.html
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134 平山郁夫画伯の描いた「高館からの平泉」 投稿者:佐藤
投稿日: 3月26日(月)22時13分32秒
このほど、平泉文化会議所より、「東方に在り」第五号が刊行された。
実に素晴らしい出来映えだ。
表紙には、平山郁夫画伯が平成11年5月に高館からスケッチされた平泉の風景が使用されている。そこにはあの松尾芭蕉翁が「夏草や」の名
句を詠んだ高館の歴史的景観が描かれてある・・・。平山画伯と言えば、この度タリバンによって、爆破されてしまった「バーミアン巨大石仏
を守れ」として立ち上がったユネスコ親善大使である。現在そのことに心を痛めながら、心にあるバーミアンの石仏を画伯は鎌倉の自宅で、必
死の思いで描かれていると聞く。
この下の欄で橘次氏が書かれているが、まさに今平泉高館で行われているバイパス工事は、形こそ違え、文化景観を破壊しつつあるという一点
でみれば、バーミアンの悲劇と何等変わることはない。
平山画伯が、奇しくも描かれた2年前の高館からの平泉全景はもうないのだ。
おそらく平山画伯はこの事実を知って居られない可能性がある。もしもこの現実を知ったら何と云われるであろう。
それ以外にも、当年百二歳になられた藤島亥治郎(東大名誉教授で平泉名誉町民)や元文部大臣で俳人の有馬朗人氏など、平泉に縁の人々が、
思い思いに平泉を、熱く語っておられる。編集は佐々木邦世氏である。
この冊子を見て、いよいよ、平泉が「世界遺産」登録に向けてスタートしたのだ、という感じがした。その為にも、市民レベルで、もう少し平
泉の文化景観を含めたレベルの高い論議をするべき時だと思うのだがどうであろう。
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133 高館に看板設置 投稿者:橘次
投稿日: 3月26日(月)08時20分46秒
先日、早春の平泉を訪れました。暖かな陽気に誘われて高館に向かいました。
高館の料金所と、階段を上りきった地点に、平泉バイパスの完成予想図と、遺跡を守るために迂回させた経緯を掲示する看板が設置されていま
した。
工事は、以前このHPでみた赤い土盛りではなく、無機質の構築物へと変化していて、国家権力をまざまざと見せつけられているような印象を
受けました。
数名の観光客が訪れていましたが、いづれも残念そうに見えました。
高館をわざわざ訪れる人は、何を求めてくるのでしょうか?
先高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也、衣川は和泉か城をめくりて、
高館の下にて大河に落入・・・夏草や兵ともか夢の跡
芭蕉が後世に残したこの名作を胸に、人は高館に来るのだとは思いませんか?
なのに階段を上りきって、広がる風景、一度訪れたことのある人なら目をつむれば浮かび上がるあの壮大な風景をさえぎるかのように設置され
た看板。そして工事・・・・
初めて訪れた人に以前に、以前の風景を見せてあげたいと思うのは私だけでしょうか?
料金所の方に「残念な景色ですね」というと、「よくいわれます」との返事。
「しかし、本来なら柳の御所が壊される予定だったから」と、看板と同じ答えが返る。
柳の御所が保存されたことと、高館の景観破壊は別の次元の問題だと思います。
なぜなら、本来バイパスは、柳の御所の真上を通り、高館を一部削って建設される予定だったのだから。当初から高館の景観破壊は決められて
いたのです。単なる言い訳にすぎない。
もちろん、迂回ルートが決定したときに、トンネルにでもすれば良かったと思う。
しょせん、世界を背負う日本の技術もこれまでか・・・と情けなく思います。バーミヤンの大仏破壊とどこが異なるのだろうか?
この問題についてマスコミがあまり取り上げないのも変な話ですね。
閲覧されている方々、事態は深刻ですよ。
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132 明日は、「第一回平泉フォーラム」開催の日です!! 投稿者:管理人
投稿日: 3月19日(月)20時01分41秒
皆さま
明日は、「第一回平泉フォーラム」が開催されますので、
一関文化センタ− 中ホール(〒021-0884 一関市大手町2-16)
に10時まで、御集合ください。
きっと、眼から鱗が落ちるような話が聞けるかもしれません。
またご参加なさった方は、感想など是非掲示板に書き込んでいただくよう、お願い申し上げます。
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131 茂吉の短歌を鑑賞する 投稿者:佐藤
投稿日: 3月 6日(火)23時04分47秒
斉藤茂吉の第九作目の歌集に「石泉」という作品があります。この作品は、昭和六年(1930)から七年にかけて詠まれた歌が収められてい
ます。茂吉が丁度五十歳から五十一歳の時期です。
その中に「中尊寺行」と題した20首の歌が並んでいます。その中から、私が好きな五首を選んでみました。
義経のことを悲しみ妻とふたり日に乾きたる落ち葉をありく
中央の文明ここに移り来てひとの悲しみ歴史とどむる
いまの現(うつつ)のごとく悲しみいにしへの此処に滅びし人をおもへり
ここに来てわがこころ悲し世のものはうつろふ山河より悲し
向こうには衣川村ありといふ滅びしものはとほくひそけし
とても哀切の情に充ち満ちた歌です。それもそのはず、この年の十一月に茂吉は長兄を亡くして、その折りに平泉を訪れた時の歌ですから、尚
更かもしれませんね。季節としては、12月前後ではないでしょうか。きっと寒風が吹きすさんでいたことでしょう。二十首の歌は、ほとんど
中尊寺で作られた歌のようです。
季節としては、丁度西行が、旧暦の十月十二日に平泉に訪れて、あの有名な
”とりわけて 心もしみて さえぞわたる 衣河みに きたるけふしも”
を詠んだ時期とほとんど変わらない季節だったと思いますね。
私のこの茂吉の歌の中で、最後の二首「ここに来て」と「向こうには衣川村あり」が好きです。きっと中尊寺から北を遙かに衣川の方を見てし
みじみ詠んだ歌でしょう。平泉の冴え渡る情景が浮かび上がって来るような悲しい歌です。
この時の平泉の情景は、夏を詠った芭蕉の「夏草」の句と対比を為し、今後平泉を詠った名歌として語り継がれて行くのではないでしょうか。
それにしてもやはり、平泉には「滅び」のイメージが似合いますね。遮るものがない平泉の荒涼としたとした景観は失われてはなりません。こ
の景観無くして、世界遺産登録が実現するとは思えません。
皆さんどうでしょう。
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130 本日の岩手日報の「紙面批評」を読んで 投稿者:管理人
投稿日: 3月 5日(月)17時59分41秒
皆さま、本日付け(3月5日)の岩手日報の紙面批評をご覧になりましたか?
そこにこの当サイトの参考文献リストに掲載させていただいている「風景と景観」の著者の田村麗丘氏が高館の景観問題を、取り上げて居られ
ます。
その中で、昨年12月28日に「日報」で「ばん茶せん茶」欄に掲載された「さよなら、私の「高館」」という文章を取り上げながら、このま
までは貴重な高館の歴史的景観は、「消え去る運命にある」と言い切って居られる。
この大事な事実をマスコミが、取り上げないことを明確に指摘し、「景観というものに対するデリケートな遺産についてはあまりにも日本人は
無知であり保存に対する意識が遅れている」と云われて居られる。
また現在の高館について「ひん死ではあるがまだ完全に生命が起たれたわけではない。子孫に対し罪を犯さないためにも県民にも詳細を知ら
せ、衆知を集めるのも地方紙の役割ではないだろうか」と提言されてもいる。
そして最後には高館の歴史的景観を遺せるか否かは「岩手人が真価を問われ」ているのだ、というようなことを云っておられる。
正直、涙が出ました。田村氏が、ここまで、言い切ったことの真意を我々は更に真剣に受け止めなければならない。
私は田村氏の発言を目にして、高館を田村氏の云う「殺風景」にしてしまったら、平泉が、厳しい世界遺産の基準をクリアして、栄誉ある地位
を得るはずがない、と確信するものである。様々な立場の皆さまのご意見を是非お聞かせ願いたい。
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129 柳の御所の遺構研究に新展開!? 投稿者:管理人
投稿日: 3月 3日(土)07時55分19秒
3月2日の岩手日報紙によれば、昨年に見つかった柳の御所跡の「かわらけ」の年代測定から、その製作年代が12世紀初めのものであること
が判明した模様です。
これはニュースですね。何故なら、柳の御所の遺構そのものの時代的に少なくても50年は、遡るものと見られるからです。とすると柳の御所
には、初代清衡の時代からの、遺物が埋まっているということになります。これまでの「かわらけ」は秀衡期のものが中心で、こうなると柳の
御所跡の発掘が新段階に入ったことを物語っています。
場所は、同遺跡の堀内部地区の東端、昨年発掘した大型建物跡とコの字型に張り出す溝跡の中間の井戸跡付近。これについて、福島大の工藤雅
樹先生も、「中心地域以外に遺構が広がっていたことが判明し、あらたな平泉研究の転換期」という注目すべきコメントを添えて居られます。
ともかくこれらの研究成果は、3月20日に開催される「第一回平泉フォーラム」(一関文化センター10時)で発表されるようです。是非詳
しく知りたいものですね。我々の運動にも大いに影響があるかもしれませんので・・・。
2000.11.26
2001.04.14 管理人