F2001.05.5〜6.20
220 交通渋滞の実態は? 投稿者:みんぺい 投稿日: 6月20日(水)12時49分35秒
景観、治水、渋滞の問題があるなかで、景観と治水の両問題が合わせ考えられるとの各ご意見に
賛成です。
車の渋滞も解決されるべき問題であるのはいうまでもありません。ただ、バイパス問題が、そも
そもどうして堤防とくっついて出てきたのか、依然として僕にはよくわかりません。渋滞が理由に
されているのだから、きっと、混雑する季節・月・時間帯、場所、車の方向、通過する台数など、
つまり渋滞の詳しい実態が分析されているはずでしょう。バイパスが必要である、との結論を導く
根拠となった事実認識がいったいどういうものなのか、そしてなぜ堤防と共に造るのか、もっとは
っきりと各当局より説明されるべきです。それができないのであれば、やはり道路をつくるのが目
的なのかと疑わざるをえません。
バイパスと堤防がいっしょになって計画される限り、景観が大きく損なわれるのは明らかなよう
です。一方に我慢をしいるのではなく、素直に問題を解決しようと各人が意見を出し合うことがで
きれば全て解決できると信じます。
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219 治水と原風景共存への道!?A 投稿者:管理人
投稿日: 6月20日(水)12時44分46秒
岩淵 さま
私は残念ながら平泉の出身ではありません。私も小学生になった時、父に連れられて、平泉に参りました。中尊寺に詣で、月見坂を登り、東物見から衣川を見ました。あの時の景色は忘れられません。高館にも行きました。ここが義経公が亡くなった場所だと知り、驚きました。そしてあの北上川と束稲山を一望する眺望です。父から芭蕉の「夏草」の句を聞き、そんな大変な土地なのか、とその時は、チンプンカンプンでしたが、夏草の句は父の発した言葉として心に残りました。
そして東北を離れて、何年も経ち、父が亡くなったので、ひとりで再び、この平泉に参りました。何という掛け替えのない景色だろうと、体が震えるような感動を受けました。
その時、心に室生犀星のこんな詩が浮かびました。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや/ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ/そのこころもて/遠きみやこにかへらばや/遠きみやこにかへらばや」
やはり、「ふるさと」も「親」もその「かけがえのなさ」というものは、離れてみたり、失って、初めて実感できるものかもしれません。よくよく自分の心の在り方というものを考えてみると、これまでの人生の中で、意識はしていなかったのですが、意識の奥底には、常にこの景色と今は消え去ってないように見える奥州文化というものが存在していて、自分を守ってくれているとさえ感じます。これは不思議ですが、私が物事を考えるときには、必ず自分の背景にある東北の歴史というものを意識しているのです。
平泉の風景というものは、単に東北人のアイデンティティの中核としての原風景だけではなく、「遠野物語」が、単なる田舎としての「遠野」の「物語」というよりは、かつての「日本人」の誰の心にもあった「物語」として、愛されるように、日本人の原風景になりつつあります。だからこそ今、平泉は世界遺産に登録されるべき価値があるのだと思います。
都市で言えば、奈良と京都は、世界遺産に登録されましたが、それぞれの文化的価値は違います。違うからこそ、奈良も京都もユネスコは、登録を認めたとも言えるでしょう。さて次に登録されるべきは鎌倉や我が平泉ですが、平泉が世界遺産に登録されるのは、他のどことも違う文化的歴史的価値として認められなければ、たとえ鎌倉であれ、平泉であれ、地元や観光業者がどんなに騒ごうと、観光資源としての道路が整備されていたり、首都から近いなどという単純な理由で、世界遺産に登録されることはありえません。飛騨高山の合掌造りの家が世界遺産に登録されたことを考えてみても、むしろ何もせずそのままが一番価値があることだってあります。世界遺産は、人類の歴史において、これは本当に稀少で価値のあるものだと思われたものが、登録されることになっており、それが直ちに町おこしにつながり、町が活性化するというのは、すこし短絡的な考え方だと思います。奈良県のある先生が、いつかおっしゃっていたことが思い出されます。その先生は「世界遺産になったからといって、何かして貰えると思わないことだ。登録によって、地域が世界と繋がりを持ち、それを未来に伝えていく責任が発生することを忘れてはならない。登録がゴールではなく、むしろ登録がスタートなのだ。」と。まさにしかりだと思います。
確かに岩淵さまが言うように、「水害常襲地帯では、文化遺産も絵にはならない」という意見納得です。ですから何とか、何とかかけがえのない平泉の原風景を残しながら、同時に治水を考える道をともに探して参りたいと思います。いかがでしょうか。岩淵さま。
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218 治水と原風景共存への道!?@ 投稿者:管理人
投稿日: 6月20日(水)12時27分18秒
岩渕 さま
微妙なお立場で、なかなか発言し難い中を貴重な書き込みをいただき感謝いたします。
仰せの通り、その場所で日々暮らしている住民の皆さまにとって、平泉という町は、単なる文化というような概念で括られるべきものではなく、守るべき家族が住まい、そしてまた祖先たちが苦労して切り開き守ってきた父祖伝来の土地そのものであると思います。私の母も、一ノ関の生まれで、叔父叔母たちも彼の地に根を張って暮らしております。ですから治水ということの大切さは身にしみて存じ上げているつもりです。
このホームページを読んでいただければ、お分かりかと思いますが、我々は治水と堤防の必要性については、これを否定している立場はとっておりません。我々の主張は、”治水問題と掛け替えのない平泉の原風景を共存させる道はないものか?”という一点であります。少しの氾濫で、国道4号線の方に水が流れ込む現状は、当然解消されなければなりませんし、これは議論の余地のない話です。ところがここにバイパスの問題が介入してくると問題は少し違って参ります。
私としては、高館から国道4号にそって自然工法によって、盛土をして、夢の跡と言われる高館直下の夏草生い茂る風景を保存していって欲しいと考えております。高館からの眺望は、誰に聞いても素晴らしいもので、それを台無しにしてしまう巨大な平泉バイパスが目前を通るのはいかがなものでしょうか。元々この場所は、日本人が古来から持つ治水の技術をもって、高館直下は遊水の地でした。北上川が自然に溢れれば、ここに水が溜まり、自然に水が排出するような機能を果たしていたと思われます。その機能をもう一度復活させることをやってはどうでしょうか。欧米でも最近は、無理矢理にコンクリートで岸辺と都市を分けるような考え方ではなく、自然な形での治水の考え方が、主流を占めつつあるとも聞きます。ですからそのような考え方で、バイパスルートを考え直して貰いたいのです。
周知のようにこの議論は、10年前の柳の御所の上をバイパスが通り、学者の先生たちが中心になって、文化財保存を訴えた時から継続している問題であります。思い起こして見ますと、その時にはまだ柳の御所がいかに大切な文化財であるか、大方の人は分かっていませんでした。何故なら、昔ここには館や御所のようなものがあったらしいが、地元の人々にとっては単なる原野に過ぎませんでした。そこに長年古都平泉の発掘と研究に携わってくださった藤島藤島亥治郎先生のような方々が、その保存の意味を説明してくださり、そこは単なる荒地ではなく、かつて奥州政治の中心をなした政庁であった、との一声で保存の気運が一気にたかまったのでした。
それから柳の御所の発掘は一挙に進み、その結果中世の古代史が塗り変わるほどのめざましい成果が次々と発表されて参りました。もしもこれがあのまま柳の御所の上をバイパスが通っていたら、確かに便利にはなっていたとは思いますが、文化都市としての平泉の価値も魅力も半減していたと思います。柳の御所の発掘とその研究により平泉という町の文化的価値は、飛躍的増しました。そして今単に平泉という一地方の狭い枠組みを越えて東北全体のアイデンティティを形成する力を有しているようにも思えるほどです。地元では10年前に、あのような計画変更を通したのだから、これ以上国や県に対してワガママは言えないという雰囲気があると聞いています。しかしそれで本当にいいのでしょうか。次の世代の子供たちに私のは、便利な道路か、それともどこにもないような高館からの景色でしょうか。私は間違いなく、景色をとります。何故ならバイパスというものは予算があれば、いつでも造れますが、一度消え失せた原風景というものは、それを復元するのには多くの時間が掛かってしまいます。
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217 バイパス見直要求と治水問題 投稿者:びゃっこ
投稿日: 6月19日(火)15時26分15秒
このHPの掲示板をみていて奇妙なことに気づいた。高館の景観問題を通じて、平泉の景観問題や世界遺産に登録されるための問題を提起しているHPだと認識している。そしてバイパスに見直しを求め、治水に対してはNOとは言ってないはず。HP開設当初にはバイパス建設促進を要求する意見があったが、いずれも町外や県外の人であった。岩手日報の記事となってから、地域住民と思われる人から水害経験を交えて堤防建設促進の意見が出されている。はっきりさせたほうがいいと思う。堤防建設に対しては反対していないことを。現在の工事が堤防とバイパス工事を兼ねていることは承知している。堤防のみなら、幅ひろい築堤は必要としないだろう。堤防には青々とした草が生えて遊水池内には自然風景がよみがえる可能性もある。最近河川審議委員が見直した点である。
地域住民からは堤防促進の切実なる声は聞こえるのに、バイパス促進の声はまだない。バイパス見直し要求を、堤防反対意見とみなし、誰かが操っているような気がしてならない。
堤防を造り、水害からの安全が保証され、バイパスをつくり、そのあと、どのような絵を描いておられるのか?住民の福利厚生安全を保証し、目先の事業を促進するのが行政マンの仕事であるなら、町の行く末を考え、未来を描き、町民をひっぱっていくのも、仕事のはず。ぜひとも、町長を始め町会議員の方々や、役場の方々のお考えをお聞かせ願いたい。
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216 水害常襲地帯では、文化遺産も絵にはならない 投稿者:岩渕勝次郎
投稿日: 6月19日(火)09時46分32秒
地元住民として、一言意見を申し上げます。
平成10年の洪水は、我家の周囲の水田が全て水没し、増水があと1mも高くなれば、20数戸の家屋水没は免れず、国道4号線も不通になる事態でした。しかし、暫定的に鉄道線路の高さの半分ぐらいに盛土をすれば、当面は中尊寺周辺、衣川橋付近は洪水から免れます。
地域関係者は全員地権者会に入会し、事業推進に全面協力し20数年経ってようやく待ちに待った堤防工事が始まったが、工事の完成はまだ先のようであり、腹立たしくおもっている。
中尊寺を中心として世界文化遺産登録運動をしているものの、堤防が完成せず水害常襲地帯の状況が続けば、絵にもならない。住民協力のもと、一日も早い衣川堤防の完成を切に願うものである。
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215 高館で起こっていることを気づかない文化人 投稿者:佐藤
投稿日: 6月17日(日)22時29分58秒
誰も気づかないのだろうか。
それとも気づかない振りをしているのだろうか?
それとも日本人が本当に文化という価値に鈍感になっているのであろうか?
こんなことを言うのは、今日近くの本屋で立ち読みしたところ、「奧の細道をゆく」
とか言う新刊本にがっがりさせられたからだ。
手にとって見たところ、NHKの番組の特集で、放送されたのか、放送するものか、
とにかく奧の細道の全行程を、リレーのように様々な文化人が、尋ね歩いて、コメ
ントをいう番組を本にしたみたいだ。
まず平泉の項目を開けば、コメンテイターはMT氏で、彼は蕪村の研究者であり
哲学者でもあるので、さぞ素晴らしい話をしてくれていると思ったら、それがどうだ。
基本的にM氏は、芭蕉の平泉での滞在と歩いた場所が分かっていないようだ。
まず彼は古戦場に行って、「これが芭蕉が「夏草」と感じた原風景だ」、
というような言葉を吐いている。そもそも芭蕉は古戦場までは、足を運んでいない。
はっきり言ってM氏は、蕪村ほど芭蕉を勉強していない。それより何より、
決定的なのは、高館に登っていながら、その景観の変化に言及していないことだ。
いったいこの哲学者は、今高館で起こりつつあることが、見えないのだろうか。
いったい哲学者とはどんなことをする人のことをいうのだ。
そんなことを考えると、本当に空しくなった。
M氏は目の前で起こっていることがみえないのか。それともみようとしないのか?
また工事が始まる前の企画だというのであろうか。まあそんなはずはなかろう。
ずいぶん後になって高館に登ったM氏は、芭蕉がいの一番のに登ったその場所で、
「川というものは、歴史を感じされる」というような言辞を使用しながら、
その横で夏草のむしり取られている光景には、ついぞ言及することはない。
芭蕉が、帰るべき家まで売り払っての「奧の細道」の旅だからこそ、芭蕉の直感はと
ぎすまされていた。その直感を追体験するのだ、という気持ちがあれば、もっと別の
ものが見えたはずだが・・・。当然そのような本を買うことはなかった。
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214 文化を守るということ 投稿者:前川
投稿日: 6月15日(金)11時19分30秒
『岩手をつくる人々』の中で、著書の森嘉兵衛氏は毛越寺消失に関して次ぎのように述べている。
現代の法隆寺消失においても根本は文化財に対する考え方・思想が問題なのである。文化財の保存は、保存のための保存ではない。文化財の保存は愛護し、新しい文化を創造するためなのである。古い文化財を媒介として新しい文化をつくるために保存するのである。この精神を欠くから保存は単に形式的・技法的になり、事故の禍因となる。
おしゃる通りと思いませんか?文化財保護法は、森氏の言葉の冒頭、法隆寺の焼失がきっかけで制定されました。法律というものは、多大な犠牲を払ったのちにようやく制定されるのです。現代のストーカー問題の時もそうでした。法律があってもその目をかいくぐって犯罪は行われる。どんどんエスカレートする。文化財保護法なんてものにあぐらはかけない現状が続いています。
森氏は文化人に対する言葉として野蛮人と称していますが、我々は文化人たりえるのでしょうか?平泉藤原氏は世界に類をみない文化を生み出し、それとともに滅んだのです。野蛮なのは頼朝や武士のほうでしょう。でも頼朝は平泉の文化に驚き、保護を与えました。そして中尊寺の二階大堂を模して鎌倉に永福寺を建てたのです。これは古い文化(平泉文化)を継承したものです。
我々は歴史の一瞬間に生きていて、歴史を生み出しているのです。過去との断絶はありえない。文化を継承し、22世紀へバトンを渡すのは我々です。文化人として。日常生活に文化などいらないという人がいるかもしれない。生活するのに手一杯だと。金持ちは文化人であることをステイタスとするようで、方々に寄付して名前をあげようとする。では文化とは金持ちのものなのか?私は文化とは心のより所であると思う。たとえ貧困であろうとも、一冊の文庫に心洗われた時もあるでしょう。例えば、嫁いだ娘が無意識のうちに実家の味で調理するというものも食文化の流れだと思うのです。それが他府県の味なら他府県の文化が持ち込まれたことになる。文化というのは難しく、手の届かないものではないのです。日常生活に入りこんでいて気づかないものや、また日常からちょっとの間脱出できる瞬間だと思うのです。
「心の癒し」を求める時代に、文化について考えてはみませんか?きっとその辺に身近な文化はころがっている。
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213 皆さんで知事宛eメールでも出しますか? 投稿者:佐藤
投稿日: 6月 1日(金)21時16分56秒
雷波少年さん
こんばんわ。
おっしゃること分かります。
小泉政権が誕生し、もう国会でも紋切り型の答弁がない時代なのだから、物事をはっきり言って貰いたいものですね。
そんなにテレビ放映が影響するのであれば、みんなで県庁宛てにeメールを出しますか。
「知事ごぞんじですか?ふるさと岩手、環境岩手のシンボルのような高館の景観が失われようとしています。お手をお貸しください。」とか何とか。
皆さま、それから新しく写真集8を貼付致しましたので、是非ごらんください。金鶏山の裏で繰り拡げられている無秩序な宅地造成の現実です。高館バイパス以外にも大切な古都の景観が、こうして失われていくのでしょうか・・・。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/6455/takadati_photo08.html
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212 治水と景観の保全は共存できる!! 投稿者:佐藤
投稿日: 6月 1日(金)20時47分51秒
taka さん
こんばんわ。
今はもう、芭蕉が感涙に咽んだ高館の眺めは、存在しません。いま何とかしなければ、天才芭蕉の残した「奥の細道」の景観は永遠に失われてしまうのです。かつて、この高館の方向に北上川が蛇行し、何度も高館は洪水に見舞われ、南北に200m以上もあった高館は、現在のような小さな姿となってしまったのです。
芭蕉が来た頃(元禄二年1689年)には、この高館に伊達綱村公が義経堂を造った後数年ばかり後のことでありました。現在もその御堂が、高館に健在であるからには、その後は、高館は余り変化はしていないことになります。ですから、我々がつい最近まで見ていた高館からの景観は、そう芭蕉が見た頃のものと、そう変わりがなかったはずです。
但し、昭和22年、23年のカスリン、アイオン台風では、相当被害を受けてましたが、これは明治以降に急速に進んだ、山林の伐採と無縁ではない、というような説もあり、私としても、明治以降急速に進んだ森林の伐採と共に治水の考え方が、日本古来の甲州流河防法のような川と共存するタイプから、西洋流の近代河川工法というか川の暴走を端から押さえ込むような考え方の変化も何らかの影響があったのではないか、と考えています。
高館の前は、雨が降れば、水が自然にたまり、徐々に下流に流れるような遊水の工夫がなされていたと聞きます。私は川との共存をはかる上でも、自然工法による堤防を4号線沿いに施し、高館の前を水辺の植物を植えて、水鳥たちが繁殖できる湿地帯(遊水池)にすべきだと思います。鳥たちが憩いの場所になれば、これは素晴らしいことですし、高館の景観は保全されるはずです。幸い近くには白鳥の飛来地として知られる伊豆沼(ラムサール条約登録湿地)もあり、そうなるとこの地域全体が「エコミュージアム」としての可能性が広がりますね。
その意味でも、私は洪水を防ぐことと、景観を保全することは共存出来るはずと考えております。
どうぞまた意見を書き込みください。
「炎立つ」で安倍貞任を好演された俳優村田さんは、瑞々しい演技でしたね。確かに川の中で確か亡くなりましたか・・・。とても懐かしいですね。お知り合いですか。貞任と義家の歌のやり取りが偲ばれますね。
ふるき世に「糸の乱れ」と貞任が詠める處はあの辺りかも
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211 はじめまして。 投稿者:taka
投稿日: 6月 1日(金)00時32分07秒
こんにちは。はじめまして。今日初めて、このH.Pに来てみました。
私は、中学生の頃から高館によく来ていました。ここにきて、松雄芭蕉
が詠んだ「…まず、高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。
衣川は和泉ガ城をめぐりて、高館の下にて、大河におちいる。…」を
ほうふつとさせる景色に中学生ながら、心が落ち着いたものです。
「炎立つ」でも一躍有名になった高館が今はこのようになっていると
は…。近頃はあまり行く機会がなく、高館からの眺めがこんなにも
変わっているとは思いもしませんでした。
TBS系「旅・わくわく」で「炎立つ」で安倍貞任役を演じた村田雄浩
さんが馬術指導の日馬伸さんと番組のオープニングで、背後に「夢館」
が見える、衣川に通じる農道?がバイパスで寸断されてしまって、
ほんとに悲しいことです。去年の4月ごろ束稲山のキャンプ場の展望台
から平泉方面を見たときには、まだあんなにはなっていなかったのに…。
1200個のテトラポットで義経が死んだ1189(文治5)年と同じ「1189」
を考えると、悲しいものです。
800年の歴史の景観をたった1年で台無しに(しかも殺風景!)なって
しまうとは…。
洪水で何回も被害をこうむった現地の住人の方々はどのように考えて
いらっしゃるのでしょう?「洪水がなくなって良かった。」か、「洪水は
なくなったけど景観が変わってしまったのはかなしい。」か、「景観が
あまりにも変わってしまい、無念。」なのでしょうか?
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210 環境首都いわて?! 投稿者:雷波少年
投稿日: 5月30日(水)21時49分48秒
先日投稿したテレビ番組についての意見を県庁に問い合わせたところ、すばやい対応で謝罪の回答が寄せられた。それによると、「平成11年度にまとめた岩手県の総合計画では、「情報」「ひと」と並んで「環境」が3本柱の一つとなっており、「環境首都いわて」を目指す様々な試みを県民との協働により実施している。」とのこと、また県職員は「県民への奉仕者」であると書かれてあった。岩手日々新聞によると、抗議の電話やメールが役150件寄せられたという。
メディアの力はすごいもんだ。メールを出した後、ものの10分もしないうちに、真相究明する旨の返答があり、翌日には、県知事増田氏の名前で回答が返ってきた。対応の早さには感心したが、これはメディアを通じて全国に放映された内容であることと、抗議の数によるものだ。
例えば、平泉を本気で世界遺産にする気があるのか、環境問題についてメールすれば、回答が得られるのであろうか?何回同じ言葉を聞いたかもしれない、「ご協力と理解を求める」という言葉以外に答えていただけるのか。
「環境首都いわて」というからには、テレビの不法投棄問題だけではない。この平泉の景観問題を切り捨てにはできないだろうに。増田知事のご意見はいかがなものでしょうか?
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209 民主主義の基本?まず声を上げること!! 投稿者:佐藤
投稿日: 5月29日(火)19時59分22秒
雷波少年さんのお怒り、ごもっともです。
岩手日々紙によりますと、岩手県庁に抗議が殺到したようですね。
やはりこのようなIT革命と言われる時代、皆さんが、駄目だと思わずに声を上げることが大切だと思います。
貴重なご意見ありがとうございます。
一ノ関シンジさんの話。
とても身につまされました。問題を論じたり語ることにある種の「はばかり」のようなものがあるとすれば
それは一種の「社会的タブー」であり、とても危険な兆候です。民主主義の基本は、やはり個人が自分の
思っていることを自由に主張できる社会です。是非声を発してください。今こそ我々は声を発すべきです。
さいたまの住人さん
どうもこんばんわ。
高館に登ると落ち着けるという感覚とても分かります。しかし今は少し違います。実に悲しくなってしまうよう
な景色がそこにはあります。
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208 春の高館うたの旅14 投稿者:佐藤
投稿日: 5月29日(火)19時26分58秒
平泉に夕暮れが迫っていた。私は高館を後にすると、元来た道を辿りながら、無量光院趾、柳の御所を通過して高館橋を渡ろうとした。目的は束稲山にある西行歌碑の辺りで夕暮れの平泉を眺めることだ。車窓越しに、金鶏山から高館にかけての空が燃えているのが分かる。その夕焼けが、余りにも鮮やかだったものだから、橋を渡りきった所で一旦車を止め、北上川の向こうに広がる平泉の夕日をカメラに収めようとした。
ねぐらに帰るのか、鳶が「ヒュルルー」と鳴きながら、毛越寺の方向から束稲山の方向に飛んで行くのが見えた。夕日は更に赤みを増している。さあ、早く行かなければ、車のエンジンを駆けると、束稲山の「西行歌碑」に向かって曲がりくねった細道を走って、十二、三分で、目的地に着いた。
見える。高館が見える。高館の前は、今回の平泉バイパス工事によって、随分景観が変わってしまっているのがはっきりと分かる。南方の北上川は川の流れを移動するためかなり削られている。工事用道路が、平泉バイパスの予定地に沿って切られていて、とても痛々しい。こうして見ると、高館はまるで、まな板の鯉のように見える。高館という鯉は、命を止められ、声も立てずに、切り刻まれていくのだろうか。
まな板の鯉になりしか高館は切り刻まれて誰に喰わるゝ
夕日は、衣川の彼方にゆっくりと沈んでいく。空は次第に橙色を濃くしてゆき、夕映えが平泉という古都全体を浮かび上がらせていた。八百年のむかし、秀衡公や義経公や西行法師が、この都市に熱い夢を語った。桜の山と呼ばれ、あの桜の代名詞である吉野山の桜をも凌ぐ桜が、絢爛と咲き乱れていた。西行法師は、その花を息を呑む思いで見たに違いない。しかし今この束稲山は、桜の山ではない。所々にその花はあるものの、やはり桜の花というものは、人の気持ちが、ひとつにならないとそこに存在してはくれない類の花なのである。
束稲山に桜咲かねど西行の歌は残りて往時伝えむ
吉野山だとて、聞くところによれば、やはり役行者の開いた金峰山に対する信仰の力があってこそ、今日まで、桜の園が守られてきたのである。束稲山の桜は、一旦奥州藤原氏が滅んだ時から、急速に衰えて行ったことになる。もしもこれから心ある人々が、平泉を文化都市として復活させる気持ちがあるならば、この束稲山を桜の名所として復活させる運動をすべきではないだろうか。またこの山の少し南方にある観音山の採石の傷跡を修復する運動もまた大事である。
沈み行く夕日を見ながら、思わずその光りの中に仏を見ようとした。静に手を合わせてみた。何故か、秀衡公のことが浮かんだ。先ほど見た無量光院のことが気になっていたせいかもしれない。秀衡公もおそらく、日々において登る朝日を見、また沈む夕日を見ながら、その中に仏を観相していたに違いない。
やがて完全に日は没した。頭上には、白い弓の如き月が見え、微かに一番星が光っている。群青色の空を飛行機が飛び去って、空に一条の文字を描いた。既に日が沈んだ衣川の彼方の山並み影絵のように見える。明日もまたきっといい天気になるだろう。それにしても心配なのは、高館のことだ。あの高館の景色は、本当にもう見られなくなってしまうのだろうか。(完)
日は退きて月は微かに夕空にもの言いたげに懸かりてをれり
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207 驚いています! その2 投稿者:さいたま住人
投稿日: 5月29日(火)00時56分31秒
本ホームページで高館義経堂山門の案内看板に対して
>「眺望平泉随一」の文言が悲しい。
>「看板に偽りあり」今すぐ撤去してほしい!!
とありますが、
平泉町のホームページの史跡・名勝の紹介を見ると下記のような
記述がありますが、この文言もすでに疑問符がつきますね。
>高館遠望・衣川古戦場
>高館(たかだち)に立つと、
>北上川とそれに合流する衣川を眼下にできます。
>兵(つわもの)どもが夢の跡、
>という芭蕉の感慨に自ずと共感させられる風景。
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206 驚いています! 投稿者:さいたま住人
投稿日: 5月28日(月)22時28分50秒
私は、埼玉県さいたま市に住んでいるものです。
平泉はとても好きで、この十年間に4回訪ねました。
高館からの眺望は、一番落ち着けて好きな場所です。
ここ4年ほど訪ねてなかったのですが、
まさか、こんなことになっていたなんて・・・かなりショックです
まだ、詳細を見ていないのでこれから勉強して、また投稿させていただきます。
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205 言えない空気が蔓延 投稿者:一ノ関シンジ
投稿日: 5月28日(月)18時13分18秒
平泉町の要望書を拝見しました。
何でしょうこの硬直しきった文章は?
全国の皆さん、達谷窟に行く機会があれば是非、
一級河川太田川がどのような有様になっているか見てください。
かわいそうに太田川はいまやコンクリートのただの排水溝のようですよ。
これが国土交通省が目指す河川改修の現実の姿です。
そこにお願いしますと頼みにいく地方行政の長たちがいる。
「もっと川を壊してどんどんコンクリート化してください」と言っているようなものではありませんか。
はっきりいって地元では声を出すのがはばかられるような空気があります。
言いたいことを言うとまずい雰囲気になるような。
でも何とかしたいです。
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204 大変偉い県職員 投稿者:雷波少年
投稿日: 5月27日(日)23時09分45秒
今日、テレビ番組を見ていて大変腹が立ちました。テレビ番組の内容は、「善意で河原に放置されているゴミを処分しようとしている2人が、地元の役場のゴミ担当課と県庁のゴミ担当課、河川管轄の河川砂防課にいってゴミの処分料を無料にしてくれないか。」という内容のものでした。何に腹が立ったかというと、行政特有の「どこどこへ行ってください。」というたらい回しです。また河川砂防課は、依頼者のお願いに「こちら側は、なりさがってそちら側と話をしている」という様な高圧的な態度で接していました。こんな接客態度は、サービス業である公務員にあるまじき態度だと思います。公務員はそんなに偉いのか。このご時世、「縦割り行政はダメだ!横との連携を取って!住民と同じ立場にたって接する!」これが、いまの行政の常識ではないですか。
今回のテレビを見て、岩手県の体質が見えてきました。県は、地域住民に「してやっている」、「だから文句は言うな」という態度で接しているようです。
このような体質が相手では、景観問題の解決は、雲を掴むようなものとなってしまいそうです。
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203 高館環境検討委員会とは何か?! 投稿者:管理人
投稿日: 5月27日(日)22時48分43秒
岩手日報5月26日夕刊の「ニュース最前線」で「平泉・高館からの眺望変化」という記事が掲載された。
http://www.iwate-np.co.jp/kikaku/knews05.html
内容は、バイパス工事をめぐる賛否両論を簡単に説明しており、当サイトの問題提起にも触れている。国土交通省岩手工事事務所は、高館環境検討委員会(仮称)を6月中に立ち上げて、住民の理解をもってバイパス工事を予定通りに推進する構えだが、現在このサイトでも紹介したテトラポッドの無神経が地元でもかなり問題視されてきており、そう簡単に様々な問題をクリアできるとは思えない。例えば、この環境検討委員会とやらに、高館を疑問視する我々のような主張をしている人物は、入れないような見通しである。とすれば、この「委員会」なるものは単なるアリバイ作りでしかないことは明確だ。そうではないと、岩手工事事務所が言うのであれば堂々と高館景観を重視する人物を論議に加えるべきである。
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202 平泉バイパス事業の整備促進の要望書を読む 投稿者:管理人
投稿日: 5月27日(日)22時28分53秒
本日、平泉の毛越寺では、曲水の宴が開催され、遣水から流れてくる盃を待ちながら、歌が短冊に書き付けられていった。どんな歌が詠まれたのか。とても気になるところだ。本来歌は魂の叫びであり、心の芯から発せられる思いそのものだ。
今歌として詠まれるべきは、平泉の大切な宝が失われると叫ぶこと以外にあろうか。鳥が啼こうが花が咲こうが、高館からのかけがえのない景観が失われたしまったら、どうして奥州の古都の風情を詠む意味などあろうか。
平泉町のHPでは、「北上川上流改修一関遊水地事業・一般国道4号平泉バイパス事業の整備促進を要望」というページが新たにリンクされた。内容は、国土交通省のこれまでの主張に添うように「新道路整備五年計画の推進と平成14年度道路事業予算の大幅な増額・道路特定財源制度の堅持・国道4号平泉バイパス事業の促進・国道4号アメニティ道路事業の促進」などが声高に叫ばれている。このような認識で、平泉の古都の貴重な景観が果たして守ることができるだろうか。
是非この全文を読んだ皆さんの意見を聞きたいものだ。
http://www.town.hiraizumi.iwate.jp/scripts/mgrqispi.dll?appname=hiraizumi&prgname=MakeHiraizumi
私はこの全文を読んで、これは完全な「高館景観の切り捨て」乃至「無視」あるいは「無関心」というように感じがした。これは高館の景観の稀少性を理解していない利便性優先の政治思想を持った人の文章にしか思えない。このような認識で本気で世界遺産に登録されると思っているとしたら、随分おめでたい感覚だ。よく考えて欲しい。世界遺産は、道路が立派で新しいから登録される訳ではない。人類の貴重な遺産として、長く遺されるべきと判断されたものが、世界遺産委員会の判断によって、登録される手順なのだ。この要望書はどうしても「世界遺産に登録されると、多くの人が訪れるから、道路は新しくしなければ・・・」というような感じにしか読めない。
高館の景観を、ばっさりと切り捨てるこのような要望書を私はどうしても容認することはできない。皆さんの意見を聞きたい。
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201 春の高館うたの旅13 投稿者:佐藤
投稿日: 5月21日(月)16時28分16秒
あわれなるもの(高館からの景観)
かなり日は西に傾いて来た。無量光院の彼方の金鶏山から中尊寺にかけての空が赤く染まり始めている。急いで高館に登った。夕日が北上川に反射して眩しく輝いている。彼方の束稲山は夕日を浴びて、稜線が浮かび上がって見える。
赤々と金鶏山に夕日落つ我一人見る廃墟の趾に
これと同じような景色を高館において、義経公は見たのであろうか。もしも中尊寺などに現存する平泉の古地図のが正しいものであれば、北上川は、束稲山の直下を流れていたことになり、高館も東西南北にもっともっとせり出している小山であったはずだ。すると目前の断崖とその前に拡がるバイパス工事のため草という草が取り除かれ、赤土が露出した場所もまた高館山そのものであった可能性がある。長い年月の天地(あまつち)の営みによって、地形も大きく変わってしまった。北上川は幾たびも氾濫を繰り返し、西側に蛇行してこの高館山を削っていったのである。その為に東西に2百数十メーターもあった高館は、その五分の一ほどになってしまったのである。
年月は怖ろしきかな奥州の覇者住む館も土塊となり
この高館山に芭蕉が登った元禄二年(1689年)の時には、すでに現在の状態に近い高館であった。おそらく芭蕉は、地元の者から、「高館は昔は、断崖の向こうまであったのですよ。」と聞かされたのであろう。その時、芭蕉の心に深く滲見入る「何か」があった。言葉にして言えば芸術的直感である。芭蕉の想像力は、一瞬にして失われた高館の情景を頭の片隅に再生した。すると「もしかすると断崖の下のあの草むら辺りが、義経公終焉の地かもしれない」との推測が働いた。かつて存在したものが、今無いというのは、実に寂しいものである。しかしそれはまた実に美しい滅びによる「無い」なのである。芭蕉は日本文化のあらゆるものに通底している「モノノアワレ」をこの高館に来て感じたことになる。こうして「夏草や兵どもが夢の跡」という不朽の名句が一瞬にして誕生したのであった。
高館に蕉翁あはれ催して滅びし趾に涙零さむ
現在の高館は、確かに八百年前の、源義経公が亡くなった当時の景観ではないことは明らかである。しかしそれは自然の営為とそこに関わってきた里人とその後に奥州の覇者の立場を占め、この地に影響を与えた伊達家の人々の先駆者奥州藤原三代と義経公に対する深い尊敬の念によって、形成されてきた日本文化の結晶そのものなのである。
そう思うと、八百年の年月を無視して進められているバイパス工事に対して無性に腹が立った。工事の状況の現場写真を、撮っていると、遠くで、タクシーに連れて来られた観光客の中年女性の声がした。「これはひどいね。運転手さん。この工事何とかならないの。地元の人たちで反対する人はいないのかしらね」運転手は、困った顔で「いや、これはその、堤防工事の意味もありまして・・・」とどうも歯切れが悪い。
そこで私はたまりかねて、そばに歩み寄ってこのように言った。「いや、おっしゃるとおりです。この工事を推進する人たちは、この景色の何たるかが、分かっていないのです。この景色がどんなに尊いかをね。水害を防ぐことと、この景色を台無しにすることは別の話です。この景色は日本中のどこにも残っていないような景色です。少し考え方を変えれば、この景色を残しながら、水害を防ぐ堤防を造ることも可能なのに、これでは取り返しのつかないことになります。」
すると、その女性は、「当然ですよ。だってここに道路が出来たら、平泉は平泉でなくなりますよ。私はね平泉という町がすきで、年に二度ほども来ている者です。この高館の景色では、平泉の魅力半減で、平泉はもう昔の平泉ではないということね・・・」と言われた。
階段を上り、枝垂れ桜が満開の義経堂に向かった。義経堂の背後の杉木立から夕日が零れてきて眩しい。「義経さん、義経さん、しばらく振りで参りました」と木像に語りかけた。義経公は、いつもの勇ましい姿で、こちらを物言いたげに見ていた。
桜花垂れ懸かれり義経堂主の生涯彩るように
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200 高館に若き命を散らした義経公の北の方に仮託して詠める歌十五首 投稿者:佐藤
投稿日: 5月20日(日)13時02分21秒
さながらに毘沙門天の君なりきその鋭きを敢えて畏れむ
頼りとて君しかいなき妻ならば君住む都旅し参らむ
郭公は遠くに在りて恋うる人呼びつつ啼かむ束稲山に
これほどの夫(つま)などあらむ宿命(さだめ)とてただひとしきり夕立の降る
ふるさとを遠く離れて奥州のこの高館に君と在りしに
幼子は泣くを仕事とするからにただ一途泣け声を限りに
君一人我と幼子奥州の山河在りせばただ安らけく
人の世の続くが限り我が君の武勲の譽れ語り継がれむ
契りして短きながら幸多き君と生きけることに悔いなき
衣川大河に注ぐどこまでも水清くして慎ましきかな
遠ざかる雲は悲しき山際をちぎれちぎれに流れ行きしも
つばくらめただ一心に子らのため餌を運ぶも健気なるかな
君と生き君と暮らせる高館に見ゆる景色のただ名残惜し
悲しきはただ幼子の何知らず笑み浮かべける無邪気なるかな
いついかに死は訪れむ夏雲の俄に涌きて雷鳴るように
添い寝せば吾子の寝息に和まされ明日の力を貰いけるかな
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199 不思議な都市平泉 投稿者:佐藤
投稿日: 5月17日(木)16時10分05秒
平泉という都市は実に謎に満ちた不思議な都市である。八百年以上も前に、奥州藤原氏が滅亡した後は、政治都市としての機能は完全に失われたにも関わらず、それからは大乗仏教の根本理念を純粋な形で反映する宗教都市として生き続けてきて、今日に八百年数十年前の栄華の一端を伝えている。
政治的なるものは失われ、宗教的なるものが、残ったというこの事実の持つ意味は、まさにこの平泉が、皆金色という一見豪奢で派手過ぎる精神を背景に形成された文化ではなく、仏教に帰依し万人に平和を観相させてたいという初代藤原清衡公の、強靱な念いが実現させた一種の奇跡なのだと感じる。それを仏教の言葉で言えば「大慈悲心」ということになるであろう。
ともかく清衡公の念いが中尊寺を創造する根本精神となり、さらにその嫡子基衡公がその父の精神を受け継ぎ発展させる形で毛越寺に民衆の前に仏の国を再現してみせ、最後には清衡の孫秀衡が無量光院に仏の心の何たるかを観相できる御堂を遺し、三代99年に及ぶ奥州藤原氏は、滅びてしまった。
確かに政治的都市平泉は滅びた。いや政治的な力と権謀術策によって滅ぼされた。ところが宗教的都市平泉、聖地としての平泉は滅びることはなかった。その理由は明確である。それは清衡公の念いが、時の政治によって、滅ぼされるような類の精神ではなかったからである。そこにこそ平泉文化の奥の深さと本質が在るのである。
歴史において、政治的生命を絶たれた都市が、宗教都市として生き残るのは、もちろん平泉だけではない。例えば、島根県出雲という古代都市があるが、国譲りにおいて、一切の政治性を消失したことによって、出雲の神々は、出雲大社という巨大な神殿の中に永遠に生き続けることになった。これは政治的な側面から言えば、政治的妥協ではあったこもしれないが、文化史的に言えば、出雲の宗教的精神が、さらに大きな日本精神に昇華した瞬間でもあった。これを表して「一地域文化の文化的昇華」という表現することもできる。
平泉において、812年前に起こった悲劇もまた、文化史的に表現すれば「文化的昇華」そのものである。まさに三代秀衡公が文治三年十月29日に卒去し、義経公が文治五年閏四月三十日に自刃し、最後に四代泰衡公が、文治五年九月三日、家臣の者に殺害された瞬間から、「奥州平泉文化の文化的昇華」が行われたことになる。
清衡公の念いはこうして平泉文化として結実し、奥州の一隅平泉にありながら、戦の無き世をひたすら念願する世界文化史の中でも稀有なる聖地平泉として、今日に至っているのである。平泉全体を覆っている独特なる神聖を、あなたはどのように感じるだろう。夏草の一本に至るまで、そこには平泉文化の匂いが充満しているはずだ。だからこそ平泉は、今世界遺産として登録されるべきであろうし、安易な道路計画は、再考されなければならないのである。
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198 春の高館うたの旅12 投稿者:佐藤
投稿日: 5月11日(金)13時10分23秒
秀衡公の心
柳の御所跡から柳の御所に向かう。今は昔の池の形状を偲ばせる小さな田んぼの中にひっそりと佇んでいる。かつて新御堂(しんみどう)という呼称で呼ばれたはこの寺は、藤原三代秀衡公によって造られた。
私はかねてより秀衡公が、若い自分京の都に遊学していたと推測している。その折り、秀衡公は、藤原秀郷流の同門である佐藤義清(のりきよ)こと西行法師と知り合ったはずだ。西行が若き日に北面の武士だったことは周知の事実だが、秀衡公もまた院の御所の警護に当たっていたかもしれない。その折りに、見た宇治の平等院の得も言われぬ美しさに感動した若い秀衡公が、いつか自分もこのような阿弥陀堂を故郷である平泉に建てようとしたのである。
このように考えると、秀衡公祖父清衡公の中尊寺や父基衡公の毛越寺に比べて、簡素なスケールの無量光院を建てたことの意味がよく説明できるのである。秀衡公は、祖父とも父とも違う自分の感性にあった阿弥陀堂をこそ、自分の生きた証としたかったのではあるまいか。
無量光院は、大きな池の中に建っていた。小さな中島前にありそこから赤い橋を伝って、新御堂(しんみどう)と呼ばれた無量光院に辿り着く。中には、天才仏師運慶が彫った丈六(2.4m)の阿弥陀仏が安置されていた。堂の中の四壁には観無量寿経の大意を教える絵が描かれていて、特に秀衡公自身が筆を振るったとされる狩猟の図が存在したとされる。これはおそらく秀衡公が、祖父清衡公が起草した「中尊寺供養願文」に滔々と述べられている平和の楽土のイメージを大切にするが故に、自戒の意味を込めて逆説的に表現したものと思われる。
中尊寺供養願文の崇高な精神は、現代においても、立派に通用する世界精神であり、その中で述べられていることは、すなわち山河は云うに及ばず人間から動植物に至るまでの森羅万象のすべてのものに対する深い慈しみの心に溢れている。しかしながら政治家秀衡公の周りには、戦争の火種が燻っており、現実には、軍事訓練のために、鳥獣を殺傷していたであろうし、その理想の精神と現実の乖離に秀衡公は、簡単に割り切れない何ものかを感じていたのである。
だからこそ、無量光院は、己を冷静に見つめ、世を観相する場として、無量光院をこの場所に造ったのである。そこから見れば、前方には中尊寺金色堂が、その左手には、秀衡公自らが、富士山を模して人工的に造ったとされる小高い金鶏山が見える。またその左手には、父の造った巨大な毛越寺の伽藍が見えていたのである。
水の溢れる池に浮かぶ無量光院は、日月の昇降を刻々と映して、その表情風情を微妙に変える。晴れた日には晴れた日の、雨の日には雨の日の趣があったであろう。秀衡公は、池に浮かぶ蓮の華のようなこの阿弥陀堂を、時には政庁である柳の御所から、また時には自邸である伽羅御所からみて、様々な観相をめぐらせていたことだろう。
しかし今、無量光院は、遙か昔に焼け落ちてない。池の形状を偲ばせる田んぼと中島があり、そこには風情のある松ノ木が斜めがちに聳えている。本堂が在った辺りには、礎石と庭石が、何かもの言いたげに並んでいて、そこに行く者を俄哲学者にする。
花冷えの無量光院風吹けば礎石に桜花(はな)の降りかかりけり
今日もまたそこに足を運び、礎石に降りかかる桜の花に風情を催した。すると俄に電車が通る喧騒が聞こえ、その電車起こす風が、いっそう桜の花を散らせるのである。そばによってよく桜の花を見れば、まだまだ蕾が多くあるではないか。一方では散りながら、また一方では、これから咲こうとしている命がある。ふとこんな感想が浮かんだ。それは「散りながら咲くのか無量光院の桜は」という驚きであった。
確かにどこの桜にしたって、蕾もあれば、咲いている花びらもある。でもこの無量光院の桜ほどに、「散りながら咲く桜」という言葉がぴったりする桜はない。秀衡公が、己の生涯を賭けて、建てた阿弥陀堂の無量光院は、もう無いけれど、確かにこの礎石と庭石の間に間には、秀衡公の強い思いが漂っている気がするのであった。
秀衡が桜花(はな)は涙か風吹けば散りつつ咲けり無量光院
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197 残すべきもの。 投稿者:森のうさぎ
投稿日: 5月10日(木)17時11分49秒
初めまして、森のうさぎと言います。
ヤフーのリンクをたどってきて、このサイトを知りました。
今までにも何度か足を運んでいたのですが、今日の『次の世代に渡すもの』を読んで、ついに書かずにはいられませんでした。
本文を読むと共にうたも手伝って切なさが込み上げてきましたが、更にとても優しげなお母さんとかわいい女の子の写真を見たときに
ノックアウトされたような衝撃を受けました。
この可愛らしい女の子の笑顔を絶やさないためにも平泉の文化景観を残して欲しいものだと思いました。
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196 春の高館うたの旅11 投稿者:佐藤
投稿日: 5月10日(木)15時56分15秒
次の世代に渡すもの
高館直下の工事道路を高館橋に帰っていくと、工事で荒れ果てた岸辺にハクセキレイと思われる水鳥が二匹、愛らしい声でさえずりながら、餌を探しているようだ。しかし水辺は乾燥しきっており、餌になるような虫は居そうにない。北上川の水辺は、予想以上に荒れていて、水鳥たちの憩いの場は、日増しに狭まっている感じがした。私が口笛を吹くと、水鳥たちは、ピーピーと返事を返してきた。4、50mほど彼らと一緒に元来た道を戻って所で、彼らは、旋回して北上川の上流に飛び去ってしまった。
北上川の水辺乾きて戸惑いぬ水鳥悲し餌も無くては
高館橋の下に辿り着く。ふと見ると、小さな二、三歳女の子が、若いお母さんと一緒に、菜の花を摘んでいる姿が目に入った。赤いスカートを履いたその子は、実に人なつっこい笑顔で、私に向かって微笑みかけてながら、「オハナ、オハナ」とそれを差し出そうとする。お母さんが、笑いながらこちらに「すみません」というような会釈をするので、「こんにちわ、地元の方ですか」と聞くと、「いいえ、最近夫の転勤で関西から来ました」答えられた。
聞けば、元々御主人が、平泉の出身で、何度かこちらには見えているとのことだ。
「随分変わったでしょう」と私が聞くと、
「工事が半端じゃないですね。前の平泉とは、まったく違いますね。少し寂しいです」と若いお母さんが云った。その間にも、女の子は、花を摘み、お母さんに手渡そうとする。「あんまり取ってはいけません。お花さん、かわいそうでしょう」と云われた。
この女の子が成人する時、いったいこの平泉はどのようになっているのであろう。平泉という地勢的な条件もあって、開発という名の自然破壊から奇跡的に免れてきたこの古都平泉にも、今や大きな危機が差し迫っている。何とか、この世界にふたつと無き平泉の見事な文化景観を、この子たちの世代、さらにはこの子がお腹を痛めて産み落とすであろう子供たちの時代に遺して置きたいものだ。
花を摘む幼女に貰う菜の花のその小さき手に返すものなき
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195 なんともいえない風情 投稿者:石田
投稿日: 5月 9日(水)23時26分56秒
管理人様、丁寧なコメントありがとうございました。
>冷静に考えると、高館から見えるような景観は、もしかしたら日本中に
>あったかもしれない水辺の風景だったかもしれません。しかしそんな風景に
>奥州藤原氏の歴史が折り重なった時、何とも云えない風情が生まれて、
>今日の高館の独特の景観が生まれたのだと思います。もしも平泉が地勢的に
>関東にあったらなば、現在の平泉の景観はもっと早く台なしになっていた
>ことでしょう。東北にあったためにこの貴重な景観は、かろうじて保たれてきました。
僕もこのような感覚を高館で感じました。
「景色と歴史とが折り重なったときのなんともいえない風情」、これこそとても大切に後世に伝えていかねばならないことだと思います。
しかし・・・
これは皆さんが平泉の歴史をよく知り、それを語ることができるから感じられることかもしれません。丁度、私達が高館からの景色を感じていたとき、隣にいた女性が子供に向かって「お母さんが前にきたときとちっとも変わっていないわ。20年前だけどね」と語っていました。私は「ちっとも変わらない」という言葉に驚きました。この歴史を引き裂くようなバイパス工事が見えないの?といいたくなりました。
例え多くの人がこう思おうと、この「なんともいえない風情」は残していくべきです。
埼玉には同じような景色はあっても風情はありませんもの。せめて平泉にはがんばってほしいのです。
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194 春の高館うたの旅10 投稿者:佐藤
投稿日: 5月 9日(水)12時15分15秒
弁慶の館趾?!に立つ
今私は、武蔵房弁慶の館があった辺りとされる北上川の畔に立っている。この辺りに立っていると、ふいに、弁慶が雲霞の如く現れる敵と奮戦し、無数の矢を受けながらも、必死で応戦し、肉体が死した後にも、その気迫によって、すっくと立ち、俗に「立ち往生」と言われるような活躍をした姿が浮かんできたのであった。
ある意味では高館のそのものが仁王立ちする弁慶そのものと云えないこともない。おそらく弁慶の実像は義経伝説に現れるような姿ではなかったと思うが、800年という長い年月の中で徐々歌舞音曲に取り上げられることによって脚色と誇張が進み、今日のような弁慶像が形成された。こうして武蔵房弁慶像は、いつの間にか民衆の中で、主君義経公に匹敵するほどの人気を得てしまった。弁慶という人物は、義経伝説の中にあっては、主君である義経公をどんなことがあっても守り抜く忠義の人である。
欧米流の個人主義と合理主義が隆盛となり、今日の日本ではいわゆる義経と弁慶のような強い主従の結びつきが影を潜めてしまった。実際の弁慶はどんな人物であったのだろう。そんなことを思いながら、盛土され草木が取り払われた夢の跡を見、次に義経堂に目を移した。自然に頭が下がった。悲しいわけではないが、見る間に涙が溢れ出し、高館全体が曇って見えなくなった。(つづく)
夏草の北上川の弁慶の館に立ちて仁王立ちせむ
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193 春の高館うたの旅9 投稿者:佐藤
投稿日: 5月 8日(火)17時06分44秒
松尾芭蕉が、この高館にやって来たのは、元禄二年(1689)陰暦5月13日のことであった。丁度この年は奥州藤原氏が三代に渡って築いた平泉が炎上して、滅び去ってから五百年目に当たっていた。奥州藤原氏が滅んだ年の文治五年(1189)は、周知のことだが、義経公が高館において自刃して果てた年でもあった。彼は三十一歳の短すぎる生涯をこの高館において終えた。時に文治五年閏四月三十日。つまり松尾芭蕉は、それから時を経ること500年と十三日後に稀代の武者の最期の地にやってきたことになる。
この年、四十六歳になった松尾芭蕉は、隅田川の畔にあった芭蕉庵を売り払い、曾良という門弟を引き連れ「奧の細道」の旅に発ったのであった。ふたりは三月二十七日の明け方、深川から船に乗って千住に上り、一路奥州を目指した。芭蕉が平泉に入るのはそれから四十四日後の五月十三日のことである。前日は、激しい雨が降っており、芭蕉と曾良は、合羽を着て、一ノ関に辿り着いた。そこで一泊し翌日、雨上がりの一ノ関の宿を午前十時頃、ふたりは、平泉に向かった。昼近くにまず真っ先に二人が向かったのは高館山に登った。北上川は、前日の大雨によって、満々と水を湛えていはずだ。
ふたりは、はやる心を抑えきれず無言で高館の石段を登る。すると前方に言葉にはならないような大パノラマが拡がる。茫洋とした景色が芭蕉の魂を突き動かす。直下を見れば、夏草生い茂る岸辺があり、そこには氾濫した雨水が貯まっていた。左方を見れば束稲山が悠然と聳えている。夏草のむせかえるようなにおいもあっただろう。そしてあの日本文学史の中でも特筆されるべきあの「夏草や兵どもが夢の跡」という名句が誕生したのである。(つづく)
芭蕉はやこの高館の何もなき遊水の地に永遠(とわ)を観しかも
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192 応援してます! 投稿者:北上のとんぼ
投稿日: 5月 7日(月)10時03分31秒
休み中、子供にパパの子供の時に遊んだ所に連れて行ってと言われて、多摩川へ出掛けました。
目的地に着いて、「パパまだ着かないの?と子供の声…」
しかし、久しぶりの目的の場所は、埋め立てられ無くなっていた。
魚も余り観かけず…子供の頃に、川海老で釣ったザリガニさえいない…・
まるで私が、昔に行った多摩川では無くなっていた。
仕方なく、多摩動物園の昆虫館に予定変更という始末である。実に寂しい事である。
新聞にこんな事が書かれていた。長野県知事が2月20日に発した「脱ダム宣言」と、
旧建設省の河川審議会が昨年の12月19日にまとめた「流域での対応を含む効果的な
治水の在り方について」という中間答申は、文体こそ180度違うが、論の根底にある認識は、
重なる部分が多い。 幾重にもダムを設け、水を一滴も外に漏らさぬよう、万里の長城のよ
うな連続堤防で河道を囲い、降った雨を川に集めて素早く海に流す。水を力で抑え込むこう
した治水には、一部で限界が見えてきた。
今、かつての遊水池には住宅団地ができ、山や土地の保水力は極端に低下して雨が降れば川は
すぐ大増水する。水を漏らさぬ建前の治水では、頻発する集中豪雨には対処しきれず、水害の
危険は拡大しかねない。治水哲学は転換を迫られている。
川は時としてあふれる。それを前提に、流域ごとに地形や気候などの特徴を踏まえて、遊水池の
設定や古くからの知恵である霞(かすみ)堤の活用など、きめ細かで柔軟な対策を講じて、川と
人間社会の共生をはかる。万一の洪水時には、人命を守り、暮らしへの影響を最小限に抑えるよ
う、土地利用などを工夫する。お役所文体の河川審議会の答申をかみ砕くと、こうなる。
知事の脱ダム宣言も、現状を告発するためかインパクトの強い言葉が並ぶが、要約すると「脱"ま
ずダム"宣言」と読める。国からの補助に寄り掛かった安直なダム計画や、治水というと反射的に
ダムを思う「まずダム」思考からの転換を訴え、「出来得る限り」コンクリートのダムを造らずに
、治水も利水も可能ではないかという提案だ。
川を取水や排水用の水路とだけとらえる時代は終わり、欧米では改修済みの河川を再び自然に戻す
工事が10年以上前から始まっている。湿原を抱えて蛇行する河川の自然環境としての価値を大切に
するというのが、世界の流れでもある。河川管理は人命を第一に、投資効率も考慮に入れて、
リスク評価とリスク管理を徹底する方向に向かっている。
川のそばに人家が集まる日本では、ダムを一律に否定はできない。必要なダムはこれからも建設し
なければならないし、無駄なダム計画はすぐに中止すべきである。
その合理的評価に不可欠な情報の公開が日本では遅れている。ダムや堤防を造るときも計画を中止
するときも、流域に暮らす人々やその川への思いがある者への説明責任は同等である。
新しい世紀が新しいものだけではいけない。
我が子とも「同じ思い出を時に味わい大切にしたい」と思った連休でした。
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191 春の高館うたの旅8 投稿者:佐藤
投稿日: 5月 7日(月)00時55分21秒
高館直下に生まれて初めてたどり着いた。今までここはただ黙して傍観する景観の一部であり、とても足を踏み入れられる場所ではなかった。それだけに複雑な思いがした。ここが芭蕉が「夢の跡」とした場所かもしれない、と思った瞬間背筋を電流のようなものが走ってたちまち鳥肌が立ってしまった。
そこには、もう芭蕉が「夏草」といった一群の草も立木もない。草は根っこから引き抜かれ、対岸から運ばれた土で盛土されて、四、五メートルは高くなっている。それが北の国道四号線に向かって走っている。この盛土が堤防の端となり、バイパスのルートとなっている。国土交通省のバイパス想像図によれば、この盛土をよりもさらに高い所にバイパスが走り、衣川の先で、四号線と交わることになっている。とすると高館の直下をバイパスが通過し北へ向かって走る景観となってしまうのである。何と悲しい景色であろう。義経堂の屋根が雄々しく天に向かって自己主張するように反っている姿が哀れにすら見えた。折から義経堂の周りの桜が散り始めて居り、その思いは一層強く私の心を揺さぶるのである。(つづく)
見上げれば九郎の館は散り初むる桜花(はな)に埋もれ忌日に向ふ
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190 「一関市民B」さんの意見を参考に 投稿者:管理人
投稿日: 5月 6日(日)16時19分47秒
四月二十八日にこの掲示板で「問題の整理」と題して投稿された「一関市民B」さんのご提案は大変貴重なご意見であると拝察いたします。
その趣旨は、以下のようなものです。
「今朝の新聞を読んで感じたことですが、堤防の問題とバイパスの問題を一度切り離して考えた方がよいのではないでしょうか。(中略)国が「渋滞緩和と洪水」を一まとめにして、「唯一の対策」という、その発想に疑問を感じます。」
そもそも「渋滞」という発想が、不思議です。普段の四号線は、渋滞などほんの数えるほどのものです。それは地元の人に聞けば誰もが云うことです。例えば、祭り時やお正月などに来る人からみれば、バイパス在った方が便利と思うでしょうが、一度普段の四号線を走ってください。ですから「渋滞」はバイパスを造る根拠にはなりません。
次ぎに「洪水」です。これは確かにすぐに水の溢れる地帯ですから、何らかの対策は必要です。「一関市民B」さんが云う通り、必要なものと不要なものを一体にしている国土交通省の一方的な主張は、丁度売れるものと売れない品物をセットにして片っ方では売らないよ、と言っているようなものです。
我々はバイパスは必要ないと考えていますが、どうしても必要であれば、東京のレインボーブリッジのような形に新高館橋を使って、束稲山の前を迂回する形で四号線に800m程遠回りしてみてはではどんなものでしょうか。すると先にもう一つ橋を造らねばならないことになりますが。新高館橋を越えて見る景観は、平泉の新しい景観の発見につながる可能性もあります。このやり方は、平泉の平泉とも云うべき高館山を中心とした中核地帯をなるべく人為的な構築物を造らずに残すための一つの方法であると思います。それにこのバイパスについては、景観に最大限に配慮してデザインや色にも気を配って、周囲の景観を損なわないようにするべきでしょうね。
次ぎに堤防ですが、下にも書いたのですが、高館山を包むような形の自然工法の堤防にして、現在の高館前の夢の跡は、そのまま残して、湿地帯にして、水辺の葭などを植えて、水が自然に溜まりそして流れて行けるような箇所にしたらどうでしょう。
元々平泉は水の都の風情がありました。白鳥などの水鳥たちが自然に集まる水辺の楽園になればと思いますが。
以上「一関市民B」さんの意見を参考に少しあるべき平泉の方向を考えてみました。
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189 高館景観の稀少性 投稿者:管理人
投稿日: 5月 6日(日)15時13分39秒
石田さん
初めまして。
貴重なご意見ありがとうございます。
高館の景観ご覧になられてショックを受けたこと実によく分かります。
あそこには、目には見えませんが、何か神聖なるものが存在する領域であり、あのような安易な構築物を造っては本来ならない場所です。あそこから見る北上川は、まさに歴史の絵巻物を広げたような雰囲気がありますね。人によっては、景観は時代と共に変わるのは当然。川の位置も、高館の大きさも昔とは全然違うではないか、と主張する人々もいます。私も古地図を見ていますし、古文書を読んでおります。過去の平泉については知っているつもりです。
問題なのは、変化して良い変化と変化させてはいけない変化があるということだと思います。何故むざむざと、何とかかろうじて残っている貴重な景観を、没個性の人為的な構築物を造って、台なしにしなければならないのでしょう。いずれにしてもおそらく世界遺産登録の際には中核地帯(コアゾーン)ないしは準中核地帯なるであろう高館の景観の変化は、登録時の最大のネックになることは避けられません。
「高館山はこのままではいつか消滅する、高館が消滅すれば、柳の御所も無くなる、だから、堤防は絶対に必要。」
このような論法で、堤防と道路を一体にして、今度の景観を破壊するバイパス工事が現在強行されています。堤防については、埼玉に住んでおられる石田さんもご存知かとお思いますが、荒川や利根川や江戸川の堤防がどうなっているか思い出してください。元々高館の前は、遊水地帯であり、湿地だった所です。雨が降ればここに自然に水がたまり、やがて少しづつ下流域に水を流して、土地に潤いを与える場所でした。そのような茫洋とした景色を見て、芭蕉は句心をかき立てられ、あの「夏草」名句が生まれたのでした。
冷静に考えると、高館から見えるような景観は、もしかしたら日本中にあったかもしれない水辺の風景だったかもしれません。しかしそんな風景に奥州藤原氏の歴史が折り重なった時、何とも云えない風情が生まれて、今日の高館の独特の景観が生まれたのだと思います。もしも平泉が地勢的に関東にあったらなば、現在の平泉の景観はもっと早く台なしになっていたことでしょう。東北にあったためにこの貴重な景観は、かろうじて保たれてきました。
それをあえて、今日本経済の財政難が叫ばれている最中に、国土交通省の中央集権的な道路敷設と河川改修のステレオタイプの発想で一緒にされてはたまりません。おそらく国土交通省は世界遺産という意味を分かっていないのでしょう。きっと彼らは、世界遺産になった時に、便利なように、方々に行くための立派な道路があれば便利だろう。それと百年の水害に備えた工事をしてやっているのに何故、反対するとは何事だ?位に思っていると思います。
それは我々がこれからの時代に残していく文化遺産というものの本質が分かっていない人たちの主張であり、文化とは、そもそも観光だけのためにあるのではなく、不便さえもいとわない感覚を持って取り組むべきものではないでしょうか。
私は以前から申し上げていることですが、堤防に関して反対する者ではありません。ただしコンクリートの要塞のような造形のものは断固反対したいと思います。自然工法により、高館山を取り囲むような形で四号線沿いになだらかな堤防にし、河川敷は元の湿地帯にして葭や古来の水辺にある植物を植えてブッシュのようにします。そこにはきっと白鳥や鴨などの水鳥の憩いの場になる可能性があります。
ともかく奇跡的に生き残ってきた高館の景観が、いかに稀少な景観であるかを今後も訴えて参りますので、今後ともご意見などいただければ幸いです。
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188 平泉をはじめて訪れて感じたこと 投稿者:石田
投稿日: 5月 5日(土)00時34分10秒
昨日、春の藤原まつりの源義経公東下りを見に、初めて平泉の地を踏みました。ここは豊かな山河と輝く人々の歴史が共存し、それを800年の間守り続けてきたところでした。多くの観光地とは違い、小さな町でした。小さな駅でした。でもそこにある歴史の深みと誇りは他で感じたことがありません。すぐにこの町を好きになりました。
暖かい日の光を受けながら観自在王院跡、毛越寺、柳の御所、伽羅御所、無量光院跡と歩きました。そして衣川古戦場を望みながら、アテルイ・田村麻呂、清衡・義家、秀衡・義経、芭蕉・・・といった平泉の歴史を創ってきた人々と対話をしようと、高館に臨みました。
ショックでした。
800年もの間、大切に受け継いできた歴史が傷つけられたような気がしました。歴史は建物だけが語るのではありません。そこに生きていた人々の思いと、その人々が共存してきた自然とが一体となって歴史があると思います。
平泉は、人の思いと自然が対話しながら歴史を創ってきたことがはっきりと見とれる、日本でも有数の土地です。そして高館の遠望は、そんな平泉を平泉たらしめる象徴だと思います。
確かに、高館の景色は800年前とは違います。昔はなかった家も線路も堤防も見えます。川の流れも昔とは変わっていると思います。でもそれらのことは北上川、衣川、束稲山を一望する景観全体を壊すことなく、なんとか遺産と調和しながら存在しています。でも、工事中の茶色のバイパスだけは、どう見ても、歴史と自然を見るものから分断するような破壊力をもっていました。
平泉で暮らしている人たちにとって、バイパスができることはとてもありがたいことなのでしょう。私は埼玉県に住んでいますが、新しい道路ができると確かに暮らしも快適になります。でも、歴史を壊すような姿でバイパスをつくることはないでしょ。
歴史は後世の人たちが強烈に意志をもって残していこうとしないと、伝えられていかないものだと思います。平泉をただの観光町にしないでください。平泉の歴史の意味を語りつづけていってください。
2000.11.26
2001.06.20 管理人