Blind Spots in Risk/Benefit: 6

 
    リスクベネフィット論の死角 6

環境問題を制す者は国家を制す
経済コストと健康コスト
化学社会の死角から
全体主義と民主主義の分岐点
危機管理の基本姿勢
          環境問題を制す者は国家を制す   
 
女性は従来、解毒機能に於いて、男性よりも大変有利だと言われてきました。
なぜなら、月々の生理出血とともに体内の毒も排出されるからであり、更には、
出産の度に、それまで蓄積された重金属の相当部分を子供に移行させて
いるから、女性の体はそれだけ毒の蓄積から守られている、というのが常識でした。

しかし、今や、化学毒の影響に苦しむのは、アメリカの調査でも女性が男性の
2倍に上っており、日本でも女性の方が断然多いと言われています。
ということは、女性に生来与えられた有利な解毒機能さえ、間に合わなくなっている
ということでしょう。

化学毒への耐性は、コーヒーカップに例えて説明することがよく行われています。
人によって、コーヒーカップが大きかったり、小さかったりして、化学毒が同様
に注がれても、人によっては、すぐにあふれてしまう人がいるというのです。

それも、あるでしょうが、容量の大きさが主な要因ならば、生理的に有利な
女性達の方が化学毒への耐性があり、患者は少なくても良いはずです。

しかし、実際は、男性よりずっと患者が多い。

これは一体、何を意味するのでしょう?つまり生理的な容量が大きい小さいという
レベル以上に、注がれる毒物が、余りにも限度を越え出しているということでしょう。


コーヒーカップによる説明は、解りやすい反面、人々の目を容器に向けさせ、
容量の小さな者は適応力が乏しく、自然淘汰されても仕方ない存在であると
言わんばかりの、冷酷な態度を取る人達を増やす残念な結果も生じています。

容器の大小による説明は、肝心の原因を個人問題のレベルにして、結局「自分の
問題じゃないか」とする患者切り捨て論に悪用されたり、社会問題隠しに悪用
されています。差別の助長という副作用も生じています。

カップの大小で説明する人に悪気はないのですが、それを解釈する側には、
疾患の主因を責任転嫁することに用いる人達がいます。
その点、説明する側も、その理論が下手に利用されないようにする配慮が必要で
す。同じ理論を展開するにしても、カップの大小と、注がれる毒の量と、どちらに
深刻な原因のポイントがあるかです。

今や、幼稚園や小学校で、すでに化学毒性に耐え難くなっている子供達がいます。

ある調査では、子宮内膜症の女性達や、その疾患が疑われる女性達の全員、
ダグラス窩の腹水からダイオキシンが検出されています。その環境ホルモンが
本人のみならず、胎児にも影響することが懸念されています。

これらの事実は、特に女性達が危機に曝されているということであり、特に子供達
が危機に曝されている
ということです。子供達は、大人達よりも、はるかに化学毒の
影響を受けやすい
ことが、アメリカでの複数の研究で深刻に指摘されています。

子供達は、子供同士のイジメに曝され、大人達からの虐待に曝され、車社会の
被害に曝され、化学毒にも曝されています。

決して避け切れないからこそ、最大限の注意を払って、化学毒の除去に事前の努力
を払うべきなのですが、環境を口にする人達の中には、避けきれない以上、それは
許容されねばならないと言う人達がいます。
極力減らそうとする他の人達の努力を、過剰反応だと言って批判までしています。

女性と子供が危機に曝されて苦しむ社会を作る男達では、悲しいです。
そこに、明るい明日があるでしょうか?自ら責任を感じています。
国家が甘い危機管理にとどまり、活力を失って行くならば、如何に経済政策、福祉、
外交、国防、教育云々と言って営々たる努力を積み重ねても、同時併行して
積み重なる化学毒の影響で、体の中から、足元から崩れていく砂上の楼閣です。


化学毒が、如何に人々の活力を奪い、耐え難い苦痛に満ち、あれもこれも
できなくなるかは、化学毒の影響を強く受けた人達が熟知しています。

人類にとって、まだまだ多分に未知の領域である複合汚染の世界を歩む時、
そこにレーダーのような存在が必要です。不可欠です。
複合汚染の世界は、まさしく闇の世界です。殆どの人達は体験したことのない
世界です。何が起きるかさえ知りませんし、知っていても知識に過ぎず、実感を
伴わず、深刻さが殆ど解っていません。

そう言う中で、レーダーの役割を担う人達、先遣隊となる人達、前線で化学毒と
闘うことになる人達がいます。もし、その人達の発信するメッセージを、その
言葉通りに受けとめないならば、続く人達も同様の目に遭うということです。

誇張だ、煽っている、と言う人達は、知らないから平然としてそう言えるのです。
痛みへの共感を失っているから、察することさえできないのです。

化学毒の問題に関しては、知識で語るだけでは、事実を誤解しがちです。
化学毒に苦しむ人達の声を、実態を、知った上でリスク論を語らないと、
国家百年の計を誤り、回復が極めて困難なほど日本は活力を失って行くでしょう。

車社会なら、政策ミスで交通事故へのリスク管理が遅れた時に、
犠牲者は続出し、関係者も大打撃を受けますが、他の人達は無傷です。


化学社会なら、政策ミスで化学毒へのリスク管理が遅れた時に、
犠牲者は続出し、他の人達もすでに化学毒を余分に摂取していて、
患者予備軍が続々と誕生しています。


車社会での更なる危機管理は緊急に必要であり、化学社会でも、緊急の対策、
及び徹底した対策が必要です。
運転者の肉体的、精神的状態にさえ、化学毒は影響を及ぼしていきます。

後方にいる人達の声だけを聞くのではなく、前線の死角で苦しむ人達の声を
聞かなければ、これから先に起こることの見当さえつかないでしょう。
後方の学者の声は一生懸命に聞くけれど、前線の声は無視同然というより非難する
人達による環境論も世間には出回っています。

環境問題を語る時、死角を見届け、先を見越し、悲鳴を一瞬でも早く聞き取る
ような感受性こそが、必要不可欠です。


環境問題が決定的な役割を担う今世紀では、環境問題を制する者は国家を
制します。

飲食物から大気まで、日常環境に化学毒が蔓延するのを厳しく制することは、
化学毒というテロリストが人々の体内に不法侵入し暴れるに任せないぞ、という
決意
です。

危機管理を甘く見るならば、政府自身が国民に毒物を続々と盛るも同然の
危険分子
「赤軍派」ならぬ「迫危群」という存在になります。

「赤軍派」は解散しても、「迫危群」という大物が控えているのでは
私達は決して油断も安心もできません。

国民の安全と権利は風前の灯火も同然です。
日本を弱体化させ、混乱をもたらす手強い「迫危群」の存在を誰が願うでしょう?
化学業界も政府も、長期の国家戦略にもとづいて判断し、自らの首を絞める
結果にならない道を選択することが緊急に求められています。
環境の世紀の初年に、方向性をしかと見据えることが大切ではないでしょうか?

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            経済コストと健康コスト

アメリカの最高裁で、大気浄化法を巡って、コスト・ベネフィット分析や
リスク・ベネフィット論を退ける判断が相次いでいます。
予測できない危険を伴うことに対して、機械的に損得計算を当てはめることの
不適切さが考慮されています。

米国トラック運送協会とキャロル・ブラウナーの裁判では、大気浄化法等の
実施計画は、コスト・ベネフィット分析に支配されるべきではない
、との
結論を最高裁は下しています。

その後、最近の最高裁判決を、イギリス BBCニュースからご紹介します。
2001年2月27日 ワシントン発 BBC

クリーンな空気は、アメリカ人にとって、どれくらいの価値があるのか?

満場一致の決定で、9人の裁判官は、次のように裁決した。
大気汚染の基準を定める上で、健康のベネフィットが唯一の基準であるべき
、と。

(その裁判では)
企業団体の弁護士達は、環境保護局が明確な判定基準もなく、推定で年間
500億ドルのコストがかかることを考慮することもなく、オゾンや煤煙の基準値
を引き締めた、と主張した。

環境保護局は言う。汚染への新しい基準は、生命を守り、健康のコストを
減ずるだろう、
と。

http://news.bbc.co.uk/hi/english/world/americas/newsid_1193000/1193293.stm

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              化学社会の死角から

国家戦略と言っても、ここでは、どこかの国と闘うための戦略ではなく、私達に
降りかかる重大な難問に総力を挙げて取り組むための戦略です。難問の中には
異国との摩擦も含まれるでしょうが、特にそれに限定した意味ではありません。

他国との安定した共生を実現するには、国内の安定した共生がまず必要です。
車が蔓延する車社会での取り組みは前哨戦であり、引き続き、化学有害物が
大地にも、大気にも、水にも、食物にも、家庭にも、職場にも、学校にも蔓延する
化学社会の中で、化学戦争へも突入しています。

そのことにまだ気付いていないなら、よほど安閑とした後方にいて、前線からの
伝令にうとい人なのでしょう。息せき切った伝令の声に耳を塞いでいる人かも
知れません。そういう人がリスクを語り、人々をリードする立場にいないことを
願います。

循環型社会の中で、資源の循環を促進し、有害物質の循環を断つことが緊急に
必要であり、それがゼロエミッション構想です。


人間にとって有害な物質を防ぐことは、自然界に蔓延することをも防ごう
とする姿勢であり、誰も人間の健康のみを考慮しているのではありません。
そもそも、循環型社会の中で、人間だけが救われることは不可能です。
私達は自然界の一部であり、運命共同体です。

人間の悲鳴に耳傾けることは、自然界の悲鳴に耳傾けることでもあり、どんなに
それが絶滅寸前の少数派であろうと、それは、私達の運命とも連関しています。

人間の健康リスクを軽減すれば、他の生物のリスクを増やす、そういう面も
確かにありますが、川にしても、人間にとって有害な物質の流入を防止すれば
川に生息する生物にとって有害な物質を防止することにもなります。
そういう関連性も無視できない自然界の姿です。

弱肉強食の対立のみ強調した進化論に対して、棲み分けの事実が強調されて
きたのは、対立、矛盾を強調する理論が人類の対立と矛盾を当然の事として
煽り立て、植民地支配を正当化する理論として機能したことへの反省でもあり、
じみちな観察と研究の成果にもとづいています。


二律背反を強調する発想では、リスクを無くそうとすればベネフィットと対立
するし、人間の保持に力を入れすぎれば、他の生態系にリスクが及ぶ、と、まるで
それが全ての図式であるかの如く強調します。
その理論展開では無理があり、健康への努力や、有害物質軽減への真摯な姿勢
にブレーキをかける勢力となりかねません。

リスク論者は、ゼロエミッション構想や環境保全運動を推進する企業に向かって、
それは不可能であり、そんなことをすれば、他のリスクが増えて経済は破綻し
他の生態系には害が及ぶ、と声高に主張してはどうでしょうか?
個人相手ではなく、組織相手に闘ってみてはどうでしょうか?

悲鳴を無視して走り続けるドライバーは、殺人鬼であり重罪です。それを黙って
傍観する人は冷血漢です。しかし、化学社会に於いては、それがごく当然の事と
して通用しています。

「悲鳴だって?他の通行人達は何ともないじゃないか?ということは悲鳴を挙げて
いる人達自身の問題だ。ここで悲鳴を挙げるのはおかしい。ここは青信号の横断
歩道上だぞ。他の人達は無事じゃないか。相手のそのスピードでは、問題ない。
そのスピードで事故に遭うなら、お前達の方がおかしい。」こういう論理が堂々と
まかり通っています。カンガルーバンパーでさえ、死なない筈のスピードで死に
至らせるというのに。

車社会での死傷が法定速度以下でも死傷を引き起こすと同様に、
化学社会では有害物質が規定濃度以下でも死傷を引き起こします。

まして、基準値をオーバーしていたら、そのダメージは大きくなります。
しかも、化学社会での濃度測定は、まだまだ抜け道だらけで不充分です。
車社会では、法定速度を守っていても死傷事故を起こせばその責任を問われ
ますが、化学社会では一切の責任を問われず、基準値をオーバーしていてさえ
お願いしかできないのが殆どの現実です。

慢性的に流れてくる化学毒は、目に見えない損傷を与えます。
しかしそれが目に見える損傷同然に、時にはそれ以上にひどいということは、
他の人達には大抵、解りません。生理的な検査の導入は、極めて遅々としており、
有害化学物質の生理的検査を行う医療機関の整備が日本では異常に遅れて
います。


タイヤの悲鳴を無視して走り続けるドライバーは、やがてタイヤがバーストし、
同乗者のみならず、周辺の人々まで巻き込む危害を与えます。

誰が悲鳴を無視して走り続けようとするドライバーかは、悲鳴を挙げている人が
一番よく知っています。

化学社会では、これは目に見えぬ被害であり、その凄惨さ、苦痛、深刻さは
常軌を逸しています。想像をはるかに超えています。なってみないことには、
多くの人々が気付かず、察することさえ難しいのです。

化学戦争を生き抜くにも優秀なレーダーが不可欠です。自分達の学識と経験に
頼る以上に、俊敏なレーダーは役立ちます。
それを軽んじる時、そして悲鳴に
咄嗟に対処しない時、どんな被害が発生しても不思議はありません。
今や微量の有害物質が全国規模で蔓延していて、時限爆弾のように、
いつ、その人の体内で威力を発揮するかわからないからです。
そして、それは癌であったり、心臓発作、脳卒中、難病、化学物質過敏症、
公害病、先天性疾患、不妊症、ホルモン異常、精神の破綻・・・どういう形で現れ
るか誰も解りません。生体の撹乱、損傷作用が突然どういう形で身に降りかかるか。

交通地獄、交通戦争が生々しい現実であり脅しではないと同様、これは脅し
ではありません。リアル過ぎるほどリアルな現実となっています。
しかし、悲鳴の通じない世界は地獄です。黄泉の国です。
悲鳴に対して、ああでもない、こうでもないと講釈を始める学者達がいて、悲鳴
に対して批判を浴びせる役人達がいる、そういう社会は地獄の体質を備えている
と言わざるを得ません。

化学物質との共存のあり方が問われる環境問題を通して、人々はそこに理想を
掲げ、真実を追究し、愛を実現しようとしています。
そこには人間のみならず
生態系からの悲願が込められています。
今世紀、誤った方向に進まないための方向定めがまず大切であり、その一助と
なれば、私達の苦しみも死も活かされることでしょう。

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          全体主義と民主主義の分岐点

望んでもいないのに、自宅に誰かが勝手に入り込んで来たなら、それは侵入罪に
当たります。
相手が幾ら、自分は殺人者じゃない、強盗じゃない、泥棒でさえないと言っても、
それは弁解であり、勝手に入ったことを正当化する口実とはなり得ません。

了解も得ずに強引に入って安全を脅かしたという事実は、権利の侵害です。
断っても断っても侵入し、安全を妨げるのは、とても深刻な事態です。
ピストルを持っていようといまいと、刃物を持っていようといまいと、そういう
ことは関係無しに。

もし両者の間で、きちんとインフォームド・コンセントがあれば別です。
合意が無い場合には、最低でも家宅侵入罪であり、何かを強引に奪ったなら
強盗罪であり、傷つけたなら傷害罪であり、それが元で死んだら殺人罪です。

しかし、これが一旦、化学臭となり、公害問題ならば、様相は全く異なります。
これが民主主義国家かと思うほど、全体主義的になり、これが法治国家かと思う
ほど、無法地帯になります。普段からきちんとした調査はされていないも同然で
あり、苦情が出てもその傾向は変わらないので、証拠集めどころではなく証拠
隠滅に協力するも同然と思えるほどの遅々たる対応なので、どの公害裁判も延々
と何十年も要するのが、ごく当然になっています。
何十年もかけて、あげくは被告無罪か、わずかの金で和解。

日本の法制史上、公害問題は長年に渡って住民を侮辱し、苦しめ続けてきたので
あり、まさに血と涙の歴史です。

侵入者の武器が何か、それが殺傷力のある本格的な武器か、その辺にある石や
棒切れか、おもちゃか、そういうことが焦点なのではありません。
ダメージを与えているかどうかであり、本人が苦痛を訴えるなら、血液や尿から
毒素を検出して調べる、それが化学国家として行うべき当然のことでしょう。

しかし、被害者に対しては、その程度の検証すら行われず、加害者に対しても、
なかなか原因解明の検証は実施されません。

公害では、苦痛を訴えていない住民でさえ、検査したら異常が見つかったとか、
あとから症状がでてきたとか、生まれてきた子供に異常があったとか、よくある
ことですが、必要な検査が、いつでもどこでも受けられる体制にはありません。


公害は、あなたの隣で起きないとも限りませんし、家族の一人が移り住んだ先で
起きないとも限りません。

発癌物質ではないから侵入し続けても良い、などという話ではありません。
発癌性があろうとなかろうと、不快で苦痛を与える汚染物質を強制し続ける権利は
大企業といえどもありません。結果に責任を持たない企業なら、なおさらです。

企業と官公庁が一体となって同じ事を言い続け、証拠隠し同然に事実の解明を
遅らせ、住民をイジメ続ける構図は、水俣病関西裁判で裁判官が指摘したこと
ですが、日本のあちこちで今も変わらず起きているというのは、一体どういう
ことでしょうか?
そういう不気味さは、まるで戦時中か、どこかの全体主義国家に居る錯覚に陥る
ほど、民主主義とはほど遠い人権の蹂躙そのものです。

インフォームドコンセントが無いままに、「リスクを受け入れろ」、こんなバカ
な話はありますか?
工場で作っている製品、使用している材料、排出している
有害物に、どんな有害作用があるかも一切知らされずに。

肝心の悪臭源をつぶさに確認もさせず、立ち入らせず、敷地境界での検査さえも
自治体が断固として立ち会わせず、工場側だけは何人も自由に立ち会い、それで
家の中の隅々まで日夜、化学臭に立ち入られ続ける。

化学臭には、いつでも家屋に入り込む自由があり、そうされている人間には、
いつでも工場に自由に入る自由はない。自治体や保健所さえ、原因の確認を
遅々として怠る。もちろん、本人達は責務を果たしているつもりになっています。
水俣病の時でさえ、地方自治体も国も、責務を果たしていたつもりでしたから。


化学臭には家宅侵入の自由が保障され、住民には、なすすべもない、知るすべもない。
煙で始まり、煙に巻かれ、命が煙と消えていく。

巨大組織の前に個々人の命は軽んじられ続ける。こういう一方的で不条理な
差別では無法地帯も同然であり、そのどこが民主主義ですか?

避けられないリスクを許容せよと言う人達は、こういう避けられる差別、人権侵害
について、きちんと把握し、それを無くすような努力を払ってから主張すべきです。
許容せよと言うからには、許容できるだけの下地をきちんと用意することこそ基本
であり先決です。


法治国家が法治国家として機能し、民主主義が民主主義として機能し、社会保障が
社会保障として機能しているもとで、受容せよという話とは全然違う現実があります。

許容できるだけの下地が無いのに、許容せよと強調し続けるならば、差別と人権侵害
を助長するも同然
だと見なされても不思議はありません。
許容できるだけの下地を用意することに尽力することなくして、許容せよと言うなら、
それは欺瞞であり、住民が背負うリスクのリの字も知らないことになります。

許容せよと言う前に、まず下地を整え、許容できるだけの条件作り、民主主義に
則った共存のあり方を確立することの方が、よほど大切です。許容のための必要
条件がないのに許容せよと強調するなら、それでは一方に利し、他方に犠牲を
強いるリスク・バイアス論
になります。

同じ環境問題を論じても、それを通して、どういう世界に向かうのでしょう?
経済優先の、誰かの損得勘定に根ざした全体主義に向かうのか、
基本権優先の、各自の人道主義に根ざした民主主義に向かうのか、

私達は、しかと見届ける必要があります。
人道主義さえも尊重しない姿勢なら、他の生態系を尊重できる筈もありません。
日本経済の損得勘定を優先し、周辺諸国の犠牲を許容リスク範囲内と見なした
ような道では、生きたベネフィットになりません。

化学疾患に苦しむ国内外の多くの人達が、化学社会のベネフィットに伴う
「許容リスク範囲内」として見捨てられています。
車社会の交通事故犠牲者にも、同様の価値観を当てはめるのでしょうか?

一人一人の人間を大切にしない人間社会って、どういう社会でしょう?
そして国内に具体的な情勢不安と不信が増大するなら、国民の不満を逸らすため
に異国との戦いを仕掛けるのは、歴史上よく見られる愚行ではないでしょうか?

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            危機管理の基本姿勢

リスク対策は、最悪を想定し、最悪に備えるのが基本です。
最もダメージが大きく、最もベネフィットに反する最悪に対応する態勢で
あってこそ、リスク対策になります。

そもそも、リスクとベネフィットのバランスのもとに方針を決定するという
姿勢自体、そういうことは、大方の人が、意識するとしないとに拘わらず、
天秤にかけて決めていることであり、ことさら珍しい対応ではありません。

しかし、諸外国を敵に回して戦った第二次大戦にしても、交通戦争、化学戦争
にしても、それまで経験のない出来事であり、最悪を想定し、最悪に備えて
事に臨むことが決定的に重要であり、既製の知識・経験や希望的観測が通用しない
現実に曝される度合いが極度に大きい
時代に私達は生きています。

環境を論ずる人達の中で、リスク論者こそ、リスクを最も熟知している人であるべき
ですが、実際はリスク論者が最も患者の実態さえも知らず、無視しており、医学的な
実状に疎く、患者の視点を理解するどころか、患者の視点を蔑視し、神経を逆なで
している人が多く目立ちます。

バイクや自動車の運転で、カーブを回り切れず、自らの命のみならず、同乗者や対向車
の人達の命までも奪う事故が、毎日毎日、日本中で起きています。
初心者のみならず、何十年も運転してきた人達も、毎日慣れている道でさえ、カーブを
回れずに死亡事故を起こしています。


これは、自動車学校で、カーブ通りにハンドルを切って回ることを教えているから
です。カーブに合わせて回る、それで丁度良い、大丈夫だと確信し、安心している
ので、いざという時、予期せぬ遠心力のレベルに対応できないのです。

しかし、元レーサープは、さすが違います。
一般道路を走るにも、「カーブの実際の曲率よりも、きついカーブを回っていると
想定して回ると丁度良い」、
と教えます。そうすると、自然に、早め早めのハンドル
さばきになり、同じ回るにも、充分の余裕を持って回れます。
もし予測に反して大きな遠心力が作用しても、対応できます。

これが、カーブ通りに丁度のハンドルさばきなら、予想外に遠心力が大きかった
時、あっと言う間に対向車線や路外に飛び出します。

スピードが相当出ていたり、路面が凍っている時などには、あまりハンドルを切ると
尻を振る可能性があり、加減が大切ですが。

命懸けのプロだから、普段から最悪にも対応できる運転で、万全を期しているので
しょう。
交通事故被害者が、被害に遭っていない人達より少数であっても、事故の深刻さを
正しく認識しているのと同様、化学汚染の被害者は、化学リスクが命に関わることを
あるがままに認識しています。そういうリスクの実態を理解し、対処できる
危機管理であることを切望しています。しかし社会の危機管理はどうでしょう?

問題は危機に関わることなのに、バランスの取れた政策などと言っているから、
何十年経っても、危機管理が異常に甘く、実際の公害問題を解決する姿勢に、
基本的な改善が見られません。

公害は、危機的な状況ですから、普段から最悪を想定した態勢でなければ、対応し
きれず、完全な手遅れになります。


世間に希望的な観測はあれこれあっても、実際は最悪の事態に苦しんでいるのが
化学疾患の悲惨な現実です。


保健所も自治体も、まだまだ到底、対応できていません。むしろ解決を遅らせる
ことさえ珍しくありません。原因がわからないうちは何もできない、と言いつつ、
原因解明に必要なことさえ、すぐにきちんと行われていません。

リスクとベネフィットのバランスの元に全ての方針が決まる限り、そのリスク対策は、
厳しい現実に適合せず、多くの犠牲者を排出し続けることでしょう。

リスク対策は、厳しくあってこそ危機管理なのです。
今の現実だけを見ているのではなく、先の難局をしっかりと見据えていて、そこに基準を
合わせているからです。

そこのところを勘違いしているリスク論者が大勢います。

車でさえ、現実のカーブを曲がるのに失敗して、多くの命が失われてきました。
国家が紆余曲折の現実で失敗して、どれほど多くの犠牲を輩出してきたことでしょう。

小手先の改善で済むことではありません。
足尾銅山以来、連綿と繰り返されてきた不適切な予防措置などの実状です。


続 く

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