Blind Spots in Risk/Benefit: 7

 
    リスクベネフィット論の死角 7


リスク論の実行
感覚器や機器の死角
毒性の強さ以外の要因
利益指向の損得計算
サッカリンに見るリスク論者の姿勢

               リスク論の実行

ベネフィットを得る以上は、リスクも潔く引き受けるべきであるという理論ならば、
そのすじを、きちんと通すとどうなるでしょうか?
ベネフィットを一番得ているのは、事業の検討をし、決断を下し、運営に携わる
企業ですから、企業が最大のリスクを引き受ける必要があるでしょう。

ならば、公害苦情のある地は、企業が責任を持って買い上げ、そこに幹部が
家族と共に住み込むべきでしょう。そもそも、安全だと強調しているのですし、
リスクを自ら引き受ける責任があるのですから。

そして、産業に伴う公害というリスクに対して、速やかな改善と補償の責任を引き
受けるべきです。新たな化学物質を開発して生計を立てている研究員は、その
ベネフィットと引き替えに、リスクにも責任を負うべく、工場近隣の苦情地域に居を
構え、リスクをも甘受すべきでしょう。

更には、リスクベネフィット論を世間に広めて利を得ている学者、研究者は、
そのベネフィットに伴うリスクに責任を負うべく、汚染地帯に住んで、現地でリスク
を負うということがどういうことなのか、自ら模範を示し、ダイオキシン等を冷静に
受けとめて、言葉と理論に偽りがない姿を見せるべきでしょう。


しかし、世のリスク論者が、そういうことをするでしょうか?
ベネフィットだけは人一倍得て、リスクは誰よりも避けて、公害への責任を回避
することに躍起になり、延々と裁判で無罪を主張し続けるのではないでしょうか?

リスク論は今や、産官学民の中で影響力の大きな理論となっていますが、私達は、
その理論の死角と限界をきちんと知っておく必要があるのではないでしょうか?
車の死角と限界を知っておくことが、車の活用に欠かせないと同様に。


公害時のよくあるパターンは、こうです。

1: それは気のせいだ。公害など起きてはいない。何の問題もない。特別体質の
人間の例外的な出来事であり、その人自身の問題だ。その家の中に問題がある
のであり、工場は無関係だ。

2: 工場が原因だとは言えない。原因が特定できない以上、何もできないのは
当然のことだ。

3: 全て規定値内であり、何の問題もない。規定値内である以上、住民が我慢す
べきことであり、工場側の問題ではない。

4: 異常値が出た以上、改善はするが、すぐにはできない。どこに何の問題があり、
いつどのように改善するかは教えられない。

こういう風にして、苦痛の年月が延々と過ぎて行き、解決は伸ばされ、時間稼ぎが
着々と進行します。証拠隠しの時間は、たっぷりとあります。

沢山ある煙突のそれぞれに、どういう脱臭設備が付属しているのか、殆ど知らされ
ることはありません。
せいぜい、1つ位、簡単に知らされる程度です。
我々が日夜吸わされる汚染物質の発生状況について、殆ど知らされないも同然の
状況です。


汚染を拒む自由さえ与えられないも同然の状況で、リスクを引き受けろと言う論調
が、如何に無謀であり、現実の不公平さと強引さをかばい続ける結果になっている
は、どんなに強調しても強調しすぎることはないほどです。

個人のリスク責任を強調するだけで、国家や地元自治体、企業などの大きなリスク
責任を強調しない場合には、そのリスク論は、すじが通らない
ということになるで
しょう。

環境問題には命が係っています。環境方針に深く関わる理論もそうです
リスク論を主張する人達が率先して、堂々とリスクを引き受ける姿勢こそが
百の弁舌より物を言うでしょう。安全性を強調する工場等の人達もそうです。
遠方に居住していて安心だと強調する姿勢は、不気味さを通り越しています。
リスクの軋轢に苦しむ患者達の声を反映しないリスク論なら、一方的に大きな犠牲
を強いる残酷な切り捨て論に堕す危険
を伴います。

「北海道交通事故被害者の会」が 「交通安全白書」について内閣官房長官に
送った抗議文は、リスク論の論調が人権無視であることに触れています。
「被害に対する倒錯した認識を根底から改め、命の尊厳と人権の擁護を基本に」
と述べ、被害者の視点に立って見ることの必要性を指摘
しています。
さすが、決して放って置けない危険な落とし穴を見抜いています。

「交通安全白書」(平成12年版)についての要望意見書
2001年3月10日  北海道交通事故被害者の会
http://www.ne.jp/asahi/remember/chihiro/hakusyoiken.htm

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            感覚器や機器の死角

今では空気清浄機にも簡単なのが付いていますが、臭いセンサーを使用した人達
が共通して言うことがあります。
それは、人の鼻が強く感知しても機器の方は全く感知せず、逆に、機器が強く
感知しても人の鼻の方は全く感知しない臭いがある、という事実です。更に、機器
でもメーカーによって鈍感、敏感があり、鼻でも人によって鈍感、敏感があります。

動物によっては、人間の耳に聞こえない周波数の音で互いにメッセージのやりとり
をしている動物もいます。
人の耳に聞こえる音と聞こえない音があり、人の目に見える光線と見えない光線
があり、人の鼻に嗅げる臭いと嗅げない臭いがあり、機械に測定できる臭いと測定
できない臭いがあります。人間や機械に感知できないから存在しないとか無害だ
ということではありません。


悪臭問題を解決する立場の公務員が臭気を論ずる時、感知できない臭いは一切
考慮されていません。
一酸化炭素のように、鼻で感知できなくても死に至るガス
はあります。純粋な液体サリンも、無臭だそうです。

膨大な種類と量の化学物質を扱う工場で、新製品、新化合物が続々と作られて
いるにも関わらず、検査測定される化学物質は従来通りのごく一部に限定され、
それで全てが判断されるのは、実状に合いません。
測定値や鼻の感覚は目安で
あり、実際に苦しんでいる人達がいるという事実が大切です。

測定項目に入っていなくても有害な物質はあります。それに、もちろん発ガン物質
だけが有害なのではありません。神経毒があり、刺激性毒物があり、気付かない
間に損傷を引き起こす遺伝子毒があり、難病や他の疾患の誘因となり得る毒物も
あるでしょう。

しかし、全てが、環境担当者達の鼻と、測定された数値で決定されています。
工場側に何度苦情を言っても、測定したら規定値内で問題がなかったとして無視
され続けたり。

そこに住んでいて、慢性刺激臭で感覚器や呼吸器などが痛めつけられ、鋭敏に
なっている鼻と、そうでない環境担当者の鼻とでは、感じ方が違うのは当然です。
しかし、自分達は環境担当者だという自負から、自分達の鼻の感覚に絶対の自信
を抱いています。嗅覚にも死角があるという発想は全くありません。
死角で悲鳴を挙げる者達は、彼らにとっては異常者でしかありません。


ですから、窓を開けると家庭用の臭気センサーが激しく反応し、住民にも感知でき
ても、自分の鼻で感知できない役人は、機械を馬鹿にしてかかり、こんなもので
何がわかるかと、全く参考にさえもしません。

目にも、鼻にも、耳にも、機械にも、それぞれ感知できない死角があり、その死角
は生死に関わるという厳然たる事実、基本が完全に無視されています。
工場側の
担当者達からも。

測定値が正常値内だったら、もう何もできないし、我慢してもらう以外にない、と
まで言います。車が法定速度内で事故を起こしたら、それは被害者の責任であり、
被害者は我慢する以外にない、と言い渡すのと同然です。これが保健所や自治体
の環境担当官達の恐怖の実態
です。

それほどまでに数値を絶対視する役人達が、いざ、異常値が検出された時にどう
したかというと、工場側にお願いする以外にない、と言うのです。要するに、正常値
であろうとなかろうと、住民は極めて無力であり、一方的に苦しみ損の立場にある

ということです。

こういう、置かれた立場の相違、ギャップを一切考慮せず、その改善に努力を払う
こともなく、「リスクを引き受けるべき責任」について強調し続ける人達は、一体
どういう立場の人達なのでしょうか?リスクであろうとハザードであろうと、背景に
非民主主義的な要素が厳然としてあることに変わりはありません。


リスクやハザードやベネフィットが生じる背景の環境は一切考慮されていないのが、
現在の環境リスク論です。あたかも単一色の背景の中で全てが起きているかの
如き単純化では、物事が解決するどころか、ますます問題を深刻化することでしょう。

少なくても、民主主義的な背景がない状況で、「許容リスク」を強調するのは、
事実の誤認と差別を強化する方向に向かっています。


人間を守るはずの便宜上の数値、規定値が、人間の悲鳴をも無視し、切り捨てる
ことに悪用されています。


死角が見えない人達、見ようともしない人達には、何故叫び声があがっているか
さえわからず、無視と蔑視を続け、救済よりも批判に時間を費やすのでしょうか?

現在の環境リスク論は、人間環境の研究不足で、患者達の声が欠落しており、
社会環境の研究不足で、民主主義の現状把握が一方的な観点止まりです。

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               毒性の強さ以外の要因

私達が化学物質のリスクを排除していくにつれて、別のリスクが増え、コストが
かさみ、どんどん経済は衰退し、企業は成り立たなくなって行くかの如き論調が
存在します。人々のリスク軽減への願いを嘲笑しブレーキを掛けたいのでしょうか?

では、たとえば、私達の日常の食品に含まれている添加物で、現行法では容認
されている添加物を45品目も制限
するとどうなるかの実例を挙げてみましょう。

「生協は、どんな添加物であれ、例え危険性がゼロに近いものであっても、使用
しないで済むものは使用しない、減らせるものは極力その使用量を抑えていこう

という考え方です。」

食の総合安全政策 コープやまぐち 
http://yamaguti-coop.or.jp/good/safety/safety3.htm

法的には認められていても、そこでは14品目+31品目=45品目の添加物を
規制しています。
それで、店頭から食品が消え、食べる物が無くなっているのでしょうか?
化学リスク軽減に伴い、コストが大きすぎて、製造や販売が経済的に成り立たな
くなっているのでしょうか?なぜ、生協の会員は増えてきたのでしょう?

現在一般に考えられているよりも、はるかに多くの化学物質を規制して行けるし、
その必要性と要望があるという事実ではないでしょうか?

どんなに偉そうなことを言っても、リスクの軋轢に苦しむ患者達の悲鳴を無視し
その願いを非難してまで擁立するリスク論とは、どういう性質のものでしょう?
リスクは患者からは学べないのでしょうか?

患者はリスクのうちに入らないということでしょうか?
リスクであろうとハザードであろうと、いずれにせよ、生命に関わる現実が無視
されていることに変わりはありません。


英国生協チェーン、食料生産に20種以上の一般農薬の使用を禁止。
神経ガスと同類の有機リン系や環境ホルモンも含め。
2 July, 2001 イギリス BBCニュース

"The Co-op supermarket chain is banning the use of more than 20 common pesticides used in food production."
http://news.bbc.co.uk/hi/english/health/newsid_1417000/1417663.stm

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             利益指向の損得計算

多くの人々は、いざと言う時、自らの健康も命も犠牲にする用意があるでしょう。
家族のため、探求のため、国のため、正義のため、愛と信念にもとづいて・・・
人によって、その内容は異なっていても、決して命をも惜しまない姿勢は、各自が
秘めていることでしょう。
ですから、健康至上主義、人命至上主義という批判を私達に浴びせるのは
適切ではありません。
他の生態系を軽視しているという批判も的外れです。
人命を軽視し犠牲を強いる人達が、他の生物を尊重するかどうか疑問です。

皆の利益のためと称して、恩着せがましくベネフィット、メリットを強調し、
リスクを引き受けるべきだと押しつけるワンパターンには、疑問を抱かざるを
えません。
それが長期的にも皆のベネフィットだとは思えません。

特定の組織と学者にとっては大きなベネフィットであっても、庶民にとってはリスク
の方が断然大きいことは幾らでもあります。
ベネフィットをチラつかされて健康と命をむざむざと危険に曝すのは、考え物です。
安全だ、有益だと言っていた筈なのに、化学汚染で受けてしまう苦痛と損失。
それは並大抵ではなく、取り返しがつきません。


「皆のベネフィット」のためという口実が、どんなに欺瞞に満ちているかも
再考せず、リスクの許容を義務として押しつける人達が急増しています。

利益がらみの学者の頭の中で比較の結果導き出された論点と、
命がらみの現場で血肉をもって実感する紛れもない現実とを
天秤にかけて、あたかも前者が合理的であるかの如き錯覚に囚われ、
化学毒を軽く見なすのは、油断と傲慢に通じます。


損得を越えたことに命を捧げるならまだしも、誰かの損得計算のために
命を危険に曝すのは御免です。
別の人の損得計算によれば、全然違う結果が出てしまうことであり、
目先の計算と長期的な計算とで、違う結果になるのは多々あります。

損得に従って計算高い一生を送って、計算通りに行くほど人生は甘いでしょうか?
日本政府の経済は、全て計算通り健全に発展してきたでしょうか?
健全どころか破綻寸前と言われているのは、どうしたことでしょう?
化学物質のリスクは、全て人間の計算通りだったでしょうか?ならば公害の惨状
は一切発生していないはずです。
農薬被害も、シックハウス、シックスクールの
問題も決して生じなかったでしょう。

損得計算に従って生きる、生きられる、生きるべきだと思う限り、危機管理の
甘さと高慢な姿勢は付いて回るでしょう。
それは、そのまま、人知への過信と油断です。

損得計算が悪いと言うのではなく、不要だと言うのでもありません。
それが全てではなく、本質でもなく、大変な死角が存在することを提示しています。
その死角で苦しみ抜いている人達がいる現実を無視することが何を意味するか
を伝えています。

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           サッカリンに見るリスク論者の姿勢

当時サッカリンが問題になった背景には、アメリカでの研究でオスのネズミに
膀胱癌が発生したという事実があり、それは不純物混入による実験ミスだと
疑われましたが、カナダでの研究でも、やはりネズミに膀胱癌が生じ、カナダは
サッカリンを禁止しました。

アメリカは1981年にサッカリンを発ガン物質に指定し、発売禁止にしかけました
が、禁止を7度延期し続け、更なる調査研究の機会を与え、次回は2002年まで
禁止措置が延期されていました。
しかし、それ以前に発ガン物質の指定から解除されました。これで完全に無害の
決着がついたのではなく、特に妊婦は使用を避けるようにと助言する専門家も
います。

当時の実験医学では、ネズミで起きたことは人間にも起きうるというのが通説
でしたから、発ガン物質に指定するのは止むを得ない判断だったでしょう。

膀胱癌になって、血尿、手術、そして男女とも排尿のみならず、生殖器にまで深刻
な影響を受けてしまうようなリスクを、皆が簡単に容認するでしょうか?

膀胱癌は喫煙者、そして、ある種の化学薬品や染料を扱う職業の人に発生率が
高いことが医学的に知られています。

膀胱全摘の際、骨盤内のリンパ節も摘出し、男性では前立腺、精嚢も、女性では
子宮も摘出することが多く、男性では射精が不能になりインポテンツになる可能性
が高まります。膀胱摘出によって尿を貯めておくことが不可能になり、尿路を変更
する手術が必要となり、腹部に尿袋を付ける手術は当時も行われていました。

世界初の人工甘味料は、ローマ帝国時代の酢酸鉛であり、それは甘さと共に、
不妊、便秘、疲労という副作用をもたらしました。死産や流産ももたらしたことでしょう。
現在、酢酸鉛は米国政府によって人体への発ガン物質に指定されています。


戦時中には、ニトログリセリンが人工甘味料として代用され、中毒患者が続出し
ています。その後、人工甘味料で全盛を極めていたチクロが、米食品・医薬品局
の動物実験で染色体のかなりを破壊するため、奇形児産む恐れがあるとして
1969年に全面禁止になりました。

サッカリンによるネズミの実験が膀胱癌を引き起こし、実験ミスだとも言われました
が、アメリカのみならずカナダの実験でもネズミに膀胱癌が確認された時代背景を
知る必要があります。
当時、ガンは今以上に恐い存在だったに違いありません。


サッカリンが猿には膀胱癌を引き起こさないことから、今回、発ガン物質の指定
を20年ぶりで解除されました。それを根拠に予防原則の欠点を指摘し、予防原則
が誤りと大損害をもたらしたと批判する口実としているリスク論者達がいます。
砂糖に比べて極めて安価な人工甘味料を20年間も発ガン物質に指定したことの
損失は実に大きいと。

しかし、人間への発癌性がない事を米国政府に納得させるのに20年間も要した
のは事実であり、もしこれが逆だったらどうでしょうか?安全だ、と太鼓判を押し、
20年も経ってから発ガン物質だったと解ったならば。

その被害は深刻ではないのでしょうか?

訴訟大国アメリカでは、危険が予測できた場合にそれを消費者に知らせなければ
メーカーも国も莫大な賠償責任を負わされますので、当時、警告ラベルを貼ること
は欠かせなかったでしょう。

人命の掛け替え無さと予防原則を尊重しリスクを軽減しようとするその姿勢に対して、
リスク論者がいつもどのような軽々しい批判を浴びせるか、私達は、しっかりと
見届ける必要があるでしょう。
リスクとベネフィットを総合的に考慮しバランスの取れた見方をするのだ、と主張する
人達の実際の姿を、見抜きましょう。

人工甘味料の歴史は、ローマ帝国以来、示唆に満ちています。


資料 1
1998年のマイクロソフト社による百科事典:サッカリン

「ふつうは、ナトリウム塩の形でつかわれる。サッカリンは体内で消化されず、
食物としての価値はない。糖尿病の人や減量のため食事制限中の人が甘味を
心理的に満足するように、砂糖のかわりに使用する。しかし、サッカリン自体
は食欲
や体内のインスリン生成を刺激するということもしめされている。」

カナダでは1977年に使用が禁止されたが、アメリカでは大衆の支持により市販
されつづけている
。しかしサッカリンをふくむ食品には警告ラベルが必要であった。
合成甘味料のひとつで、日本では食品添加物としてあつかわれている。」

"サッカリン" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia.
(c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

ナトリウム塩では、取りすぎの害もあるでしょう。せっかくサッカリンを使用しても、
食欲を刺激する作用があるのでは、糖尿病や肥満対策に必ずしも貢献する面
ばかりではありません。


資料 2
サッカリンがアメリカで発ガン物質に指定される3年前の1968年に
日本で発表された朝日新聞の記事


「奇形児産む恐れ!!米食品・医薬品局で発見 人工甘味料『チクロ』
日本でも多量に使用」

「サイクラミン酸ナトリウム(チクロ)はズルチン、サッカリンに次ぐ〃第3の甘味料〃
といわれ、日本では大手製薬メーカーなど数社が製造。ズルチンが毒性が強い
ため全面禁止になり、サッカリンが熱に弱く、味にくせがあるため斜陽である
のに比べ、サイクラミン酸ナトリウムは・低毒性である・甘さが砂糖の30倍以上
で味も砂糖によく似ている・熱にも強い、などの理由から、生産量は年々ふえて
最近は年8千トンに達し、人工甘味料全体の8―9割を占めている。」
(朝日 S.43・11・27) 1968年   田辺食品株式会社「健康と青汁」第150号


資料 3
日本のサッカリン事情

人工甘味料とタール系人工着色料の使用は禁止された。人工甘味料といっても
当時はサッカリンだけだが、禁止の理由は人体に有害であるというものであった。
しかし、
本当の理由は当時勃興期にあった製糖工業の支援であったと言われる。
この規則は戦後の昭和22年、占領下での食品衛生法が制定されるまで続いた。
この規則は当時の業界にとってはかなり厳しく、処罰を受けた業者は数知れず、
業界による規則の改正要求が何度も出されている。当時の清涼飲料の製造業者
のほとんどが中小、あるいは零細業者であったから、厳し過ぎると感じたのも
無理からぬことであった。」
http://sugar.lin.go.jp/japan/kiko/jk_9905b.htm

(別資料によると、サッカリン等、人工甘味料の使用が許可されたのは昭和21年)

日本が台湾を統治していた頃、日本の砂糖は95%以上が台湾で生産されていた
ので、安い人工甘味料を避けることによって台湾の産業保護と関係の安定を図る
意味もあったのでは。


資料 4
サッカリンの原料
  
原料は、トルオール、クロールスルフォン酸、アンモニア、過マンガン酸カリ、
水酸化ナトリウムなどを原料として製造する。
化学名は安息香酸スルファミド。
特に濃度が薄いときも甘味があるので、いつまでも口中に甘味が残り、
いわゆる後味の悪さがする。
http://www.bishoku.org/dictionary/jiten_a.htm#sacc


資料 5

サッカリンによる実験について
CSPI REPORTS on Saccharin

実験でガンが生じたのは齧歯類のオスだけではなく、メスの膀胱にも生じたこと、
膀胱だけではなく、肺、扁平上皮(皮膚、噴門洞)、血管、子宮等にも腫瘍が
生じたこと、少量のサッカリンでも腫瘍が生じたことなど、示唆に満ちています。
実験動物の環境と人間の環境との相違に関する説明も大切。



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