山王神社の大楠(長崎県長崎市)

2003.1.12

 

 友人夫妻に逢いに長崎へ旅した際出逢った二本の楠木。丈はそれほどでもないがどっしりとした胴回りの二本が,浦上の丘の上でもひときわ緑の濃い地域にある山王神社の参道脇に鎮座していた。

 この楠木は,終戦直前の1945年8月9日,米軍が長崎市内に落とした原子爆弾を受け焼けただれ,一時は枯死すると思われたものの数年後再び芽吹き,幹に大傷を残したとはいえ,現在その堂々とした樹勢を我々に誇示している。

人類を滅ぼしかけない兵器の恐ろしさを今に伝え,その犠牲者の復興を支えてきたこの楠木は,永い歳月,参拝者に無数の祈りと願いを託されてきたのであろう,幹には千羽鶴の帯を身にまとっていた。

   

現地の案内板から

山王神社の大クス

 神社は周辺を様々な樹木で囲まれており,その中でこの2本の大楠は,神社の境内入口にどっしりと根をおろしている。また,四方に伸びた2本の木の枝葉には,上部にいくにつれ複雑に絡み合いながら一つの深い緑陰をつくっている。

 1945年(昭和20年)8月9日,午前112分,原始爆弾の炸裂による強烈な熱戦とすさまじい爆風のため,爆心地から南東役800mのこの神社の社殿は倒壊,隣接する社務所は全焼,そして,二の鳥居は片方の柱を失ってしまった。

 社殿を囲んでいた樹木は折損し、この2本の大楠も爆風により幹には大きな亀裂を生じ,枝葉が吹き飛ばされ丸裸となった。また,熱戦により木肌を焼かれ,一時は枯死寸前を思わせたが,その後樹勢を盛りかえし,現在は長崎市の天然記念物に指定されている。

 長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし,二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。

平成7年8月長崎市

 

 山王神社御案内

 当神社は,島原の乱後,時の徳川幕府老中松平伊豆守信綱が此の地を通過せし際,近江の国琵琶湖岸の坂本に風景・地名共に酷似しているとて,かの地の山王日枝の山王権現を招祭してはとの進言により,長崎奉行・代官は寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼し神社建立に着手した。当時は,神仏混合の習慣により延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」と称して運営された。

 以後,幾度かの盛衰がありたるも地域の氏子の方々に守られて明治維新を迎え神仏分離令により,元来の神社に戻り「山王日吉神社」と改称し浦上地方の郷社となる。

 又明治元年,山里地区に皇太神宮が祭られたるも台風等の被害にて損壊し,再建や以後の運営も困難となり廃社を検討されるを知り氏子は山王社との合祭を願出て許可となり,明治十七年一月遷宮し以後「県社 浦上皇太神宮」と称したるも地域では「山王さん」として親しまれ,又「浦上くんち」として大いに賑わってきた。

 不幸にも昭和二十年の原爆の惨禍に直面し壊滅状態となりたるも数年を得ずして苦境の中から復興の声が上がり,昭和二十四年より祭典を復活し,以後社殿境内等も次第に復活された。

 昭和六十三年神社創建より,三百五十年の記念すべき年に弊殿も再建して,ほぼ旧来の姿に近く再建し得た。原爆時の遺物としては,現在は世界的にも有名となった,参道の「石製片足鳥居」と境内入口にそびえる「楠の巨木」等が残り原爆の悲惨さ,平和の有り難さ等を無言の内に語りかけてくれる。又,楠木は戦後の数年で発芽,次第に繁茂し現在の雄志となり地域の人々に戦後の復興の意欲と活力を与えてくれた。