OCEANの『家族の肖像』
 
 

  岩から生まれた孫悟空には家族がいない。家族の肖像が脳裏に浮かぶことというのは当然ないのであろう。

  非常識である。

  人間に限らず、自ら細胞分裂で増殖する微生物でない限り、この世の生物には絶対的に「親」が存在する。れっきとした人型の生物でありつつも家族が一切存在しない孫悟空は、実に非常識な存在なのである。それほど家族の存在は重要なのだ。

  では、人の中で家族はどのような肖像として捉えられているのか。

  古き時代、子は父親から権威や社会を見とめ、母親から優しさや礼儀を学んだという。そのような価値観はだが、現代では通用しない。

  父親に権威のある家庭は、旧弊にいまだとらわれていると社会から弾劾される。父親が仕事に出ている間の教育係としての母親を当然とすれば、両性平等の理念に反するとの叱責を受ける。

  となると、現代っ子の家族の肖像とは、我々のそれとは大きく異なるものなのかもしれない。

  頼りになり、生活の糧を稼いできてくれる母親、それを家庭内で支える父親。この場合の子の価値観とは、一体どのようなものになるのだろうか。

  性差別をよしとするのではない。だが、やはり両性の特性というものが存在するのは確かなはずだ。

  肉体労働であればどちらを用いた方が効率が良いかは火を見るよりも明らかであるし、逆にサービス業などの柔らかい人当たりを要求される職種には女性の需要が多かろう。これは差別ではなく、効率の問題であり、向き不向きの問題、いわば特性である。特性を生かすことが社会において認められるのであれば、家庭においてもそれは認められて然るべきなのではないか。

  ならば、やはり威厳を持って厳しく子に当たるのは父親の特性と思われ、それを優しくカヴァーするのが母親の特性だと考えられる。それを男性原理主義であると大騒ぎをする人があれば、それは逆に世の中を知らぬ愚かなフェミニストなのではないか。

  三つ子の魂百までというように、子の家族の肖像は生まれてすぐに形成され始める。経験は蓄積され、やがてぼんやりとしたものになる。だが、若年ではっきりとした形を完成させることが出来る子はまずいない。

  自分自身、子を持つほどの年齢、もしくはもっと先、孫を持つまで生きた時、初めて家族の肖像は自分の中に明確な形を持って訴えかけてくるのではないだろうか。そして、その肖像を理解することこそ、最大の親孝行と言えるのである。

  一生独身で親の苦労を味わうこと無く人生を終える人間は、個を全うすることに腐心するあまり、人間としての生き方を見失った人間である。

  勿論、何に重きをおくか、という問題であるので、他人がそれを否定することはまた、出来はしない。

  ただ私は、人間であらんとするならば、家族の肖像の完成を目的とする人生こそが、最も人間らしいと思うのである。

  まずは今、ここに何故自分が存在するのかを考え、そしてその感謝の念はどこの誰に向けられるべきなのかを、ひたすらに考えることこそ肝要なのではなかろうか。

 

 
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