OCEANの『無意識』
 
 

  無意識に音楽を口ずさむことがある。

  特にそれに関係することを考えていたわけではないのに、流行の邦楽だったり、童謡だったり、懐かしのアニメソングだったり、野球の応援歌だったり・・・・・・。

  また、ある出来事や物、人に対して、特に嫌だとは考えていないにも関わらず、体が無意識に拒否反応を示してしまうこともある。

  これら無意識の行動はなぜ起こってしまうのだろうか。

  いずれも、無意識のうちに「無意識」に、肉体を支配されてしまっている。そう、このように無意識に使っているこの「無意識」という領域こそが犯人である。

  フロイトによって持ち出された精神分析の概念であり、人間が、自分では絶対に発見することができない心の領域。それが「無意識」である。

  後期フロイトの「エス」「自我」「超自我」の第二局所論に対して第一局所論と呼ばれる「無意識」「前意識」「意識」の三段階で、フロイトは人間の精神を説明する。

  フロイトの登場まで、人間は自ら意識することのできる理性によって制御され、行動を決定していると思われていた。が、「無意識」の登場によってそれらは否定され、人間は自分でも制御できない力、「無意識」によって基本となる行動、判断を左右されているということが明らかになった。

  その無意識を探る上でフロイトが注目したのは、夢である。

  夢は無意識の断片が現れる場であるとし、独自の汎性説を当てはめ、人間の行動原理を悉く性衝動に還元していく。エディプス・コンプレックスもその過程において生まれた説であろう。

  ユングも同様に夢を重要視したが、彼の場合、万人に共通の心の層である「普遍的無意識」などを想定してしまった時点で、もはや到底科学とは呼べず、オカルト一直線の昨今である。

  フロイトにしても構造主義の代表者で精神分析学者のラカンにしても、了解法から脱することはやはりできず、精神分析学、心理学は、科学とは現代でもいい難い。だが、万人に絶対的に通用する理論ではなくとも、多くの人間に通用することは証明済みであるのだから、ある程度は信用できる学問ではあるのだ。

  だからこそ、私も人間の心を理解しようと思う場合、希にフロイト式の精神分析法を拝借する場合もある。もちろん、そればかりに心酔して頼り切ってしまってはまずかろうが、中々に役立つものなのだ。

  一つ残念なのは、自分で自分の無意識を覗くことができないことである。それはフロイトの絶対的前提なのだ。自分で発見可能な意識であれば、それは無意識ではなく「前意識」だからである。

  だが一度でいいから、自分の無意識を覗いてみたいと思う。そして私は、自分の無意識の中を想像する。

  ひょっとしたら、野球がこびりついているのではないだろうか、などという恐ろしい疑いが頭をもたげ、恐怖に慄く私であった。

 

 

 
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