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かつては至る所に見られた土の地面も今は少ない。コンクリートで固められた大地に土のイメージを抱くことは非常に難しい。やがてはこの言葉自体、死語となってしまうのではないかとすら思う。 ここで人間が死んだ時のことを思い描いていただきたい。人は、死ねば土になるという。 故郷の、故国の土になる。土に還える。 この場合人は、人を母親、つまり人から産まれ出てきた存在として捉えているのではない。人は万物と同様に自然から、その代表たる土、または海などを指して、そこから産まれたと暗に示している。 そのような自然に対する真摯なあり方は今、存在するのだろうか。 自然は人に付き従うものであると考え、強引に理――と人間が思い込んでいるもの――を曲げ続けた人間が土を語ることはもう、ないのかもしれない。 だが、それが間違っているのかといえば間違っているわけではない。 人は人のために生きればいいのだ。自分のために生きればいいのだ。それこそが自然というものだ。自然の摂理とは人間如きが曲げることができるものではない。人が自然を壊せば、それはそれで摂理のうちなのだ。大きな流れのうちの一つの支流にすぎない。 その意味で、絶滅間近の生物を保護する行為などは本来、無意味なことである。絶滅するのはそれこそが摂理。最も、人間が保護して生き延びればそれも摂理であるのだが。 土に還えるということは本来、死んで無になることを指しているのかもしれないが、死んでも無にはならない。形を変えるだけである。この世に存在するあらゆる物質は消滅するということはないのだ。死んで土に還元しようが、燃えて灰になろうが、海で塵あくたと化そうが、同じ事である。何かは残る。 そしてそれを摂理という。 土の固まりである地球がある限り、いや、地球がたとえなくなったとしても、今こうしてすべてがあるようにある――なくてもよい――ことこそが唯一絶対の真理というものではなかろうか。 |