OCEANの『憂さ晴らし』
 
 

  憂さ晴らし、それは一時的な逃避である。

  会社で嫌なことがあった、逃避、憂さ晴らし。子供が言うことを聞かない、気が滅入る、逃避、憂さ晴らし。恋人が浮気をした、くやしい、逃避、憂さ晴らし。友人とうまくいかない、逃避、憂さ晴らし。

  人間の精神の許容量というのは、あらかじめ決まっている。それを越えると人間は発狂する。憂さ晴らしはそれをさせず、精神を保とうとする自己防衛本能なのである。

  とはいえ憂さ晴らしでは結局何も解決しない。だが、精神を守るためには不可欠な行為であり、無駄ではないのだ。

  憂さ晴らしのポイントは、「現実世界」での鬱憤を晴らす、「現実世界」からの一時的逃避、という点である。精神世界では自己の精神の安定を揺るがす刺激というものは登場しない。

  では、「現実世界」とは何か、という疑問が当然出てくる。

  自分の外には確固たる実在がある。だが、最終的にそれを受け入れるかどうかは内側の自分次第である。内側に住む自分が外の実在を拒否すれば、それはその人間にとって真実となり得る。つまりは、「主体となる人間の受け入れた事実」こそが現実であるということができそうである。

  とすると矛盾が生じる。「主体となる人間の受け入れた事実」とは、精神世界の領域なのではないか。ならば、憂さ晴らしなどと言うものはそもそも存在しないのではないか。精神の苦痛となる「現実世界」は拒否すれば良いのだ。

  だが人間は、現実に憂さ晴らしを行う。精神の苦痛となる「現実世界」を人間は受け入れる。ある程度までは受け入れざるを得ない、のである。本当に精神を破壊しかねない「現実」でない限り、非情の「現実」というものは有り得、そこではじめて人間は憂さ晴らしを欲する。

  つまり「現実世界」とは、「主体となる人間の受け入れた事実」ではなく、「主体となる人間に無条件に降りかかってくる事実」なのである。

  現実を見ないということは、逃避以外の何物でもない。それは人間らしく生きるためにはすべきではない。憂さ晴らしも同様なのであるが、現実を見ないということではなく、現実から一時的に逃れる、という性質を持つため、こちらは否定されるものではないのである。

  自分を守るため適度な憂さ晴らしを行い、日々を過ごしていくことが、人間には必要なのである。

 

 
戻る