| (平成30年11月21日記載)
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樹幹の化石”珪化木” (大田市仁摩町)
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先日、久しぶりに三瓶へ行く機会がありましたが、三瓶に限らず大田市方面へ出かけるにつけ「大田は、ええのお〜、三瓶山あり、石見銀山あり、市内じゅう鉱山だらけ、さらには日本海側には珪化木や鳴き砂ありで、まこと大田は自然関係の地域資源の宝庫だ!」とつくづく痛感します。 反面、我が郷土江津は、、、、何とも淋しく絶望的になります。
江津には観光的な自然関係の地域資源が乏しいという理由もあって、市民全体に郷土の自然に対する意識や愛着がきわめて薄いです。 江津は、ビジネスコンテストといった起業関係のことや農林畜産物の地産地消関係のことに大変熱心なところで、自治体もこれらを厚く高遇しています。 反面、当館のような世界一粗末な博物館などはクソ食らえ、といった感じです。 しかし、どんな自然でも目的を持って探求していけば、観光的な価値は見い出せなくても学術的・教育学習的価値は見出だせるものだと思います。
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江津にも大田に負けないくらいの自然史資源がある!? 氷河時代の河道跡・・・チャネル充填堆積層 (江津市浅利町 浅利トンネル付近の採石場)
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 国道9号線を江津から大田方面へ行く途中の浅利トンネル手前の山側に採石場がありますが、ここにはまるで活断層の跡ではないかと思えるような崩落斜面が見られます。
筆者は当初、「ここには活断層が通っている、大変だ!」と意気込んで後から双眼鏡で頂上付近を観察してみたら、どうもそうではないようなのでちょっとがっかりしたことがありました。 しかし、頂上付近に、砂礫層が基盤岩(溶結凝灰岩)に高角度の不整合で載っているようなところが見られたので、これはもしかして基盤岩にできた高角度の断層に侵食が進んで溝状(チャネル)の凹地が形成され、ここに河川が通って砂礫が堆積したのだ。 つまり、当時まだ海岸線がずっと沖合にあった氷河期のころの堆積層だと思い、大きな興味を感じてしばらくの間この周辺を踏査したことがありました。
真夏の暑い時期でしたが、急崖を登って頂上付近まで行くのは危険すぎるので、背後の山間を通っている林道から藪を伐採しながら目的地まで行きました。 まこと、どえらい思いをしました。 今から16年前の平成14年の夏でしたが、当時これに関する記事を本HPに載せたことがありました。 16年くらい前に掲載した「浅利チャネル堆積層」に関する記事 へリンク
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礫がちの砂礫層が途中でプッツンと途切れているので、一見して断層によって切られて変位しているように見えます。 ここは急崖になっているので、実際に近寄って正確に観察できませんが、この層より上に堆積している砂がちの砂礫層は整合で堆積していて右側の露頭の方へもずっと続いているので、露頭面に現れている砂礫層全体が切られて変位していることはないです。 また、断層運動による引きずりの痕跡も全くみられません。 もし、上の砂礫層も切られていれば活断層により変位している可能性があって大変なことになると思います。 我が郷土にも活断層が通っていることになり、近い将来大地震が起こる危険があることになります。
ともかく、どれくらい昔かといった絶対的な年代は筆者にはわかりませんが、大昔ここには円礫がまとまって堆積するような環境があったわけで、筆者としてはここを川原の礫を堆積させるような河川が流れていたと考えています。 つまり、当時の海岸線はここよりもはるか沖合にあったことになります。 はたして氷期の海面低下の時代であったのでしょうか。
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| しかし、もしかして活断層が、、、、
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 ← 出雲市多伎町の礫浜
円礫がまとまって堆積するような環境は、河川の川原ばかりではありません。 左の写真は出雲市多伎町の海岸で、ここは円礫ばかりが集積していて、これらの円礫のなかには貝などの化石をたくさん含んでいるものもあり、以前から化石採集の観察会などに利用されているところです。
海岸の地形は砂浜や磯ばかりではなく、このような俗に「礫浜」と呼ばれるものもあります。 筆者がこれまで氷河時代の河道跡と考えているところにある砂礫層の円礫は、もしかして海岸の礫浜に集積していたものだったかもしれないです。 もしそうだとすれば、もともと海岸沿いにあったものがなぜ急崖の頂上付近にあるのか。 海面が低下したのか、それとも陸地が隆起したのか。 もしかして、江津沖の海底に活断層があって、何百万年も前から何千年〜何万年の周期で何度も活動を繰り返し、陸側の地盤を隆起させてきたのかもしれません。
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未固結層にみられる擾乱の跡 (江津市浅利町 江津工業団地敷地内)
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浅利トンネル付近のチャネル充填堆積層の産地からトンネルを通って少し行くと江津工業団地の広い敷地があります。 今でこそいろんなメーカーの工場が立ち並んでいますが、16年くらい前は、広い敷地内はガラガラで、砂礫層や砂層など陸成層の良好な露頭が広く見られました。 敷地内は造成地なので、埋積され踏み固められた層が上部を覆っていましたが、その下にはスランプしたとしか思えない複雑にうねった縞のラミナ(葉理)の砂層がありました。 現在は道路ができていて露頭を見ることはできません。
今年の三月に東京の大学を卒業された同町出身のKさんからいただいた卒業論文のテーマが泥岩層の生物擾乱に関するものでしたが、この浅利の砂礫層や砂層は主に河川の氾濫時の洪水で堆積したものなので、各所に黒褐色化した樹木が散乱して含まれているのは見られますが、サンドパイプのように生物が長く生活していた痕跡は全く見られません。 この浅利の未固結層には生物活動による擾乱の跡はみられませんが、代わりに地盤の急激な隆起あるいは沈降によっておきた擾乱と思われる跡がみられます。
当時撮影したデジカメの写真を不覚にも無くしてしまい(写真をストアしていたハードディスクを知らずに再フォーマットしてしまったため)、加工画像しか残っていないので大きな画像で表示できないのが残念です。(加工画像中の「写真①〜⑦」の記載は本文とは無関係です)
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砂層には生痕や生物擾乱の跡などは全くないですが、上の写真のように1m以上もある大きな黒褐色化した樹木や褐鉄鉱で固くなった長径が4.5mもある大きな砂のノジュールなどを含んでいて、その間を埋めるようにして複雑にうねったラミナの砂層があります。 この砂層にはところどころに小断層と思われる軽微な断裂がみられ、それに沿って弓なり状のラミナがみられます。
砂層にみられるラミナが初生構造なら、含まれている樹木やノジュールは砂層堆積後に混入したもので混入時に周辺のラミナが複雑に乱されたのだと思うのですが、もしラミナと思っている構造が流紋岩の流理構造のような流動の跡だとすれば、砂層堆積後に地震のような地盤の急激な変動によって砂が流動し、層内の内部摩擦の違いによってラミナのような縞状の構造ができたのではないかと思います。 地震の急激な地盤の変動によって層内にできた擾乱の痕跡かもしれないです。 やはり、江津沖の海底には活断層がある、と思いたくなる心境です。
ラミナと思っていた波打った縞状の構造は、実は擾乱によってできた構造かもしれないです。
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| 深成岩の貫入と火成活動
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← 高角度に傾斜した溶結凝灰岩の地層
左の写真は、チャネル堆積層がある山の背後を通っている林道沿いにみられる露頭で、当初は珪長岩の流理構造かと思っていましたが、実はこの構造は初生の溶結凝灰岩にできていたラミナの構造であることが後になって発見的に理解できました。 露頭の岩石は、溶結凝灰岩の組織に脱ガラス化と再結晶作用が進んでできた珪長岩に似た後生的なものだと思います。 この露頭にみられるラミナは高角度で傾斜していて少し下に凸に湾曲しています。 おそらく付近で起きた断層運動による引きずりの跡だと思います。 付近には谷川が通っていて、山斜面からは湧水もみられます。
この推定される断層を海岸側の方へ延長してみるとチャネル堆積層の露頭がある採石場を通ります。 おそらくチャネル堆積層の下位にある基盤岩(凝灰岩)にみられる断裂と同じ系のものだと思います。 もしかして、この推定される断層に侵食が進んで溝状の低地ができ、ここに河川が通って礫が堆積してチャネル堆積層ができたのかもしれません。
右の写真は、チャネル堆積層の露頭がある採石場から直線距離で約1.7km西方へ行った渡津町塩田海岸にある俗に”ゴジラ岩”と呼ばれている露頭です。 まるで怪獣のゴジラのような様相の露頭自体は花崗岩質岩石でできていますが、この背後にある露頭(細い岩脈が通っている)は溶結凝灰岩で、全く種類の異なる別種の岩石同士が接しています。 どちらも薄片を作っていないので組織の様子がわかりませんが、おそらく花崗岩質岩石は花崗閃緑岩かあるいは石英閃緑岩だと思います。 溶結凝灰岩は、おそらくマトリックスに脱ガラス化と再結晶作用が進んで珪長岩のような完晶質の組織に変化しているのではないかと思います。
浅利町〜渡津町の海岸沿いには、片岩や溶結凝灰岩に対して花崗閃緑岩や石英閃緑岩などの深成岩類の岩石が接しており、特に溶結凝灰岩の層へ強い熱水変質作用を与えています。 これによって、セリサイトのような白色粘土質の脈やプロピライト化したと思われる岩相、黄鉄鉱が濃集している細脈、茶褐色のヤケの強い露頭などが各所でみられます。 しかし、溶結凝灰岩の層の上位にくる層(いわゆる「室神山層」「島の星層」と命名されている未固結層)には、このような変質作用の痕跡はみられません。


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