<B級四川料理>
日曜日のたびに集まるわれわれにとって、山歩き以外にもう一つ楽しみがある。歩いた後で、安くてうまい店でビールを飲み、食事をし、語り合うことだ。もっとも、つらい思いをして、汗を流した後だから、冷たいビールは甘露となるのかもしれないが。
沙田パスに下りるコースを歩いた後は、必ずといっていいほど、鑽石山にある四川料理の店に行く。
MTRの鑽石山を下りると、道路を挟んで山側にハリウッドプラザという新しいショッピングセンターと高層アパートメント、反対側
にスラム同然の昔の村がある。昔はこの辺りいったいにこういう村があったらしいのだが、再開発でどんどんなくなっており、最近では香港でこの村のような状態で残されたところは少なくなった。もはやまとまった面積でしかも市街地に残っているのはここだけかもしれない。そのせいか映画の撮影現場にしばしば使われているようだ。(写真は四川料理店の玄関)
そのスラムの一角。スラムというほど悲惨な状態では決してないが、トタンや板を貼り合わせただけの家、迷路になった通路はどこか九龍城を思わせる怪しげな雰囲気がある。実際は、九龍城のような犯罪の巣窟ではなく、いてもせいぜいけちなこそ泥らしい。
下水道がなくトイレがない。村の表には工事現場で使うような簡易トイレが並べられ、また別な場所には公衆トイレが作られている。その村の一角に、われらが目指す四川料理屋はある。数十年の歴史があり、根強いファンがいて、味には定評があり、なおかつ場所のせいか安い。ここの坦坦麺、17ドル。鶏1羽をぶち込み、ワンタンと白菜、中国ハムと一緒に煮込んだ鍋。雲白肉。麻婆豆腐、麻婆茄子。インゲンの炒め物。春雨の炒め物、蟻が樹に登る。蒸し餃子を坦坦麺の辛くて、ピーナッツ味のスープで絡めたもの。酒のつまみの干し魚。ミニたけのこの炒めもの。などなど。大瓶1本16ドルのカールスバーグが次ぎから次ぎへと空き、いつのまにか空き瓶の山。
概して香港人はあまり酒を飲まない。飲まないわけはないのだが、どうもこういう普段飯を食うところでは飲んでいる人は少ない。し
たがってわれわれ20人前後の日本人が山の帰りにおしかけると、ビールの在庫が極端に減り、奥の方にあったビールまで出てくる。これが、半分凍っている。凍ってまでいないとしても、表面が霜に覆われている。どうやら、先入れ先出しという原則はここではないようだ。(写真右は店内)
この店にくる香港人は食べるのが目的だから、比較的滞在時間は短い。その点われわれは嵐のようにやってきて、行き場のない台風のようにとどまって、飲む、食う。それでも驚くほど安い。この安さとうまさを知ると、有名レストランのあの目の玉が飛び出るほどの値段は何だとつい思う。もちろん、きれいな店で、テーブルにはクロスがかけられ、ちゃんと給仕されないと食べられない方には、決してこの店、あるいは他にも紹介するB級グルメ(とわれわれは呼んでいるが)の店をお薦めしない。香港の普通の庶民が食べる店で、おいしいところ、というのがわれわれのモットーだ。といっても衛生状態の極端に悪い屋台は論外だが。
この四川料理の店。いまだに名前を知らない。この店も、再開発のために立ち退くことになっている。本来ならばもっと早く立ち退くはずだったが、取り壊しが遅れ遅れになっていて、いまだに営業している。
最初に取り壊しが決まったとき、ここでの営業があと半年だと新聞や雑誌で取り上げられ、行列のできる店になってしまった。いつものように10数名で山の帰りにのんきにやってきたら、店の前に長蛇の列、整理券まで発行しているではないか。それから何度も取り壊しが延期になったが、あいかわらず長蛇の列は続いている。
といっても残すところあと数ヶ月、この店は日本人が多く住んでいる黄埔花園の近くに新しく店を構えるらしい。店が新しくなり、きれいになれば値段は上がるだろう。味は維持できるだろうか。ひょっとしたら、この店はわれわれの意識の中でこの村、スラムと密接に結びついており、しかも山歩きの後という状況と一体となって存在していたのだ。だから、店が移り、妙にこぎれいになってしまえば、われわれのなかで何かが音を立てて崩れ、ただの四川料理店になってしまうのかもしれない。