<大浪灣の白い波>
西貢、海鮮料理で知られる港町が一般的なイメージだが、われわれが親しみを込めて呼ぶ西貢はそのずっと奥、複雑に入り組んだ海と山からなる半島のことだ。変化に富んだ入り江、点在する大小さまざまな島、たおやかに、ときには雄雄しく連なる山々。香港で最も美しい自然、あるいは香港とはとても信じられないほどの自然の美しさ、それは決して言い過ぎではない。観光客が知るグルメと買い物の街、高層ビルの林立するオフィス街、ごった返す猥雑な下町、その香港とはまったく別な香港がここにある。
MTRの鑽石山駅、駅前の大きなショッピングセンター、ハリウッドプラザの下にバスターミナルがあり、そこから96Rというナンバーのダブルデッカー、2階建てのバスが出る。香港のバス路線は数字で表されていて、時々数字の後にアルファベットがつく場合がある。意味不明のAとかBとかCなどのアルファベットもあるのだが、ちゃんと意味があり、知っておくと便利というアルファベットもあ
る。KはKCRの駅に接続、MはMTRの駅に接続、Rは休日のみの運行、Sは特別運行、Xは快速。ということは、96Rは日曜か、祭日にしか運行されない。
西貢の自然にお目にかかろうと思えば、この96Rが便利だ、というか、これしかない。このバス路線以外は、タクシーを飛ばすか、特別運行のミニバスしかなく、手軽さではこの96Rが一番だ。休日にはこの96Rだが、平日であれば、西貢の港町までいったん行って、94番のバスに乗りかえるしかない。(写真は西貢海。右手前の街が西貢の港町。左奥が西貢半島。中央奥が萬宜水庫)
西貢半島、こういう呼び方があるのかどうか知らないが、大きなやつでの葉っぱのような形をした半島の、少し入ったところに北潭涌がある。バスターミナルがあり、駐車場があり、インフォメーションセンターがある。許可車か、バス、タクシーでない限り、一般車はここで足止めされる。
この北潭涌が、西貢のトレールコースの主な起点の一つだ。マクレホーストレール、100kmのスタート地点もこの近くにある。
だが今回のコースは北潭涌がスタート地点ではない。96Rはさらに進み、北潭凹を過ぎ、終点の黄石に到着する。目の前は海。大灘海峡と呼ばれる大きな入り江が広がっている。
黄石には埠頭と、バーベキューサイトと、水上活動センターがある。
香港の山、自然の中を歩くと、必ず出くわすのが、このバーベキューサイトだ。実に無数とも思えるほどのバーベキューサイトが、香港の自然公園のあちこちに散らばっている。コンクリートでかまどが作られ、周りに椅子が配置されている。香港人はなぜかくもバーベキューが好きなのだと思わず哲学的に思索してしまいそうになるほど、ロケーションの便利なバーベキューサイトは休日のたびに串を持つ人々で占領され、肉の焼けた甘い匂いが充満する。香港式のバーベキューは鉄板や網を使わずに、肉やソーセージなどが刺さった串を炭火の上にかざして焼く。一人が一つの串に自分の食べたい物を刺して自分で焼き、自分で食べる。バーベキューという行為はひどく集団的、共同作業がなければ成り立たないのだが、香港式に限って言えば、火を起こすところまでは集団、焼くところからは個の分野となる。なぜこのような形式になったのか理解に苦しむが、日本やアメリカのバーベキューとは趣を異にしており、しかもなぜか肉類ばかり。牛、豚、鶏、ソーセージなどなど。さらになぜか味、香り、照りをつけるために蜂蜜を塗るのだ。
われわれも年に数回はバーベキューをするが、決定的に違うことは、網、鉄板を用いること。焼肉のたれを使用すること。牛、鶏、魚、ソーセージはもちろん、野菜(焼き、生)、やきそばと食材が豊富なこと。ビール、ワイン、酒と豊富なアルコール類(香港人がバーベキューで酒を飲んでいる姿をあまり見ない)。必ず、バーベキュー奉行が存在すること。火おこし番、焼肉番、酒番と得意分野があり、自然と能力にあった共同作業が展開されること。そして、これは問題点なのだが、つねに材料、飲み物を買いすぎて残してしまうこ
と。等等。
黄石に96Rのバスがつく頃は時間がまだ早すぎて、幸いにもバーベキューの匂いは充満していなかった。バス停のすぐ近くに小さな埠頭がある。ここから島を巡回するフェリーが出ているのだが、どうもその詳細がつかみにくい。毎日出ているのか、日に何便あるのか、どこに泊まるのか、問い合わせしない限り、わからないし、どこに問い合わせすればいいかわからない。もっとも、その定期船だか不定期船だかわからないフェリーにお世話になったことはない。埠頭に何隻も群がっているボート、いわば水上タクシーがわれわれの足だ。
われわれが水上タクシーと呼んでいる代物、確かに実態はそうなのだが、いってみれば小さな釣舟、手こぎのボートを倍くらいの大きさにして船外機をとりつけたボート。運転しているのはどこかの漁村のオッちゃん、オバちゃん。多分休みのたびにハイカー目当てに出動してくるのだろう。(写真は水上タクシー)
水上タクシーはたいていの場合、赤徑に向かう足となっている。大灘海峡は北に開けていて、南に二股に分かれた入り江を持っている。一つが黄石のある高塘口、もう一つが赤徑口だ。水上タクシーは黄石から小さな岬を迂回して赤徑に行く。およそ10分の船旅。一人20ドル。この20ドルは不思議な20ドルでいつのまにかそういう相場になってしまったものだ。何人乗っても一人20ドル。決して一人では乗せない。少なくとも6人、客がたくさんいるときは10人でも乗せようとする。もう少し大型の天蓋のついたボートは10人近く乗っても恐怖感はないのだが、小さなやつは10人はとんでもない。7、8人でさえ、スピードを出して波を越えていくとき、大きく揺れ、思わず転覆するのではないかと思ってしまう。オッちゃん、オバちゃんにとっては何人乗せても一人20ドルだから、目いっぱい乗せようとする。そういうとき、香港人は値切ってひとり15ドルくらいにはさせるのだが、日本人はたいてい値切らない。
けたたましくわめき、喋るオッちゃんたちにも天敵がいる。ときどき湾に停泊している水上警察の船だ。沖合いに停泊して、不審な船を泊めては、密入国者かどうか調べる。IDカードを提示すればそれで終わりなのだが、オッちゃんたちにとっては、ボートに多人数の
客を乗せていること自体が取り締まりの対象なのだろう。はたして、この水上タクシーは正規のものなのか、それさえ定かではない。ただ時々見かける天蓋つきのボートは水上警察をものともせず、海に繰り出す。ということは、定員が問題なのか、うーん、まったくもってわからない。
とにかくわれわれは水上タクシーに乗りこみ、あるいはぎゅうぎゅう詰めに乗せられ、赤徑を目指す。
赤徑で下りて、少し登ればマクレホーストレールに出る。本来、マクレホーストレールのセクション2は浪茄灣から赤徑を経て北潭涌までのコースなのだが、水上タクシーを使ってショートカットし、逆行しようという訳だ。
赤徑からゆるやかな登り、時々は階段があり、30分もかからないうちに大浪凹に着く。大浪凹、この峠から左にコースを取ると、ひときわ険しくそそり立つシャープピーク、ここまで来る間に、その勇姿は垣間見ることができる。前方には、大浪灣が見える。広がる青い海と、白い砂浜。
大浪灣、西貢半島の東の大きな入り江の総称だ。そのなかに小さな入り江がいくつもあるが、主な入り江は、北から東灣、大灣、咸田灣、西灣。われわれは咸田灣に向かう。(写真は上下とも咸田灣)
時々木々の切れ目から青い海を眺めながら、だらだらと下れば、30分ほどで咸田の村に着き、民家の間を抜ければ、そこが咸田灣だ。レストランが2軒あり、小休止。
白い砂浜は川で2分され、川の向こうの砂浜に行くには、手作りの一人がやっと渡れる、今にも壊れそうな橋をロープ伝いに渡る。沖には小さな無人島が見える。この北の小さな岬を超えれば大灣、長く続く白い砂浜、大きな波が押し寄せるので、サーファーたちのメッ
カ。
われわれは、咸田灣から南へ。咸田灣と西灣を隔てる岬に上る。しばらくは急な階段。階段の途中から降り返ってみる景色は素晴らしい。北の岬と、青い海、小さな島、咸田灣の白い砂浜、押し寄せる白い波、天気がよければ、岬の向こうにシャープピークが見える。
岬を超えて西灣へ。ここまで40分ほどだろうか。西灣から、また登り徑が始まる。
湿地帯沿いのよく整備された徑を上がれば、吹筒アウという峠。この峠は四つの道が交差していて、左はマクレホーストレール、浪茄灣に通じ、前方と右は吹風アウというところに向かう。
前方の徑をとれば、萬宜水庫、英語でハイランドリザボアという大きなダム沿いのうねった道になり、時間がかかる。右の徑は尾根越えで、少し急な登りになるが、時間を短縮でき、萬宜水庫の雄大な景色を眺めることができる。
ゴールは吹風アウだ。ここから西灣村の西貢の街行きのミニバスに乗れば帰路に着ける。休日はハイカー用に結構頻繁にバスが出ている。
*コース*
赤徑 ― 大浪凹 ― 咸田灣 ― 西灣 ― 吹筒アウ ― 吹風アウ