<米埔・バードサンクチュアリ>
香港、この箱庭のような土地。日本でいえば、東京都の半分の面積に魔法のように色々な物が詰まっている。高層ビルが立ち並ぶ都会、豊かな自然、ヨットが浮かぶ海。そして、野鳥たちの楽園。実に440種以上の野鳥が香港で観察されているのだ。
KCRの終点の一つ手前の駅、上水。そこから西へ7、8km、車を走らせたところに、米埔というところがある。上水と元烽フちょうど中間くらいのところ、高速道路から外れて北へ行けば、道はやがて基圍と呼ばれる養魚池の間を抜け、小さな駐車場と小さなWWF
(ワールド・ワイド・ファンド)の建物にたどり着く。ここが米埔自然護理區のいわばスタート地点だ。(写真はWWFの事務所。クリックすれば拡大)
米埔自然護理區は中国との国境、深セン川の河口の后海灣(ディープベイ)に面している。いや、面しているというのは正確ではない。おそらくは、昔はこのあたり一帯、マングローブの原生林だったのだろう。今は、原生林を開拓して作られた基圍(養魚池)とその奥に広がるマングローブの原生林、后海灣の干潟が渡り鳥たちの絶好の飛来地となっている。また、渡り鳥だけではなく、基圍の魚や海老、あるいは昆虫などを目当てにした留鳥も数多くいる。
米埔自然護理區は1995年にラムサール条約(水鳥の生息地として国際的に重要な湿地の保護に関する条約)の指定区域となった。そのため、入るには農漁処発行の許可証が要る。昨年までは、年間許可証を持っている人が申請すれば一般の人でも入れたのだが、2000年からは、年間許可証を持たない限り、入れないことになった。一般の人はWWFが主催するツアーに参加するしか方法はない。年間許可証を取得するには、香港あるいは各国の野鳥の会に入会し、そのうえで許可証を申請する必要がある。
米埔自然護理區は中国との国境地帯に位置しているため、また、マングローブの原生林、干潟は禁區の高いフェンスの向こう側にあるため、返還前であればイギリス軍、返還以降は人民解放軍の国境警備隊が駐屯し、巡回している。なおさらに許可証なしに入るわけには
いかないのだ。
WWFの小さな建物、パンフレットや記念品を販売しているところから、基圍のあぜ道を100mほど歩いたところに、許可証をチェックする農漁処の建物があり、そばに鍵のかかっていない、あっけないほど小さな入り口がある。(写真は入り口。クリックすれば拡大)
自然護理區の外にも基圍がたくさんあり、今でも実際に養魚が行われている。護理區内の基圍は無論、養魚は行われていない。野鳥にとっては、人間が作った自然護理區の境界線など関係ないから、語理區外の基圍でも野鳥が多く観察できる。(写真下は護理區内の基圍。クリックすれば拡大)
野鳥の観察には、8倍か10倍の双眼鏡が最低限必要だ。しかも口径の大きい明るいものがいい。さらにできれば三脚をつけた50倍くらいのフィールドスコープ。双眼鏡でまず野鳥を捉え、フィールドスコープでくわしく観察する。
入り口近くの基圍で、運がよければカワセミに遭遇する。カワセミは英語でコモンキングフィッシャーと呼ばれている。キングフィッシャー、つまり猟師の王様だ。川などの土手に巣を作っている。魚を捕るときは水面近くの木の枝にとまり、水面をじっと観察する。魚
が水面近くに上がってくれば、素晴らしいスピードで滑空し、魚を捕らえる。魚を捕った後、すぐには呑みこまない。しばらく嘴でくわえたままだ。嘴で魚の骨を砕き、呑み込みやすくするためだ。
カワセミはもちろん留鳥であり、米埔には6種類の仲間が生息しているといわれている。カワセミ、ヤマショウビン、アオショウビン、アカショウビン、ヤマセミ、ヤツガシラ。残念ながら、3種類しか見たことはないが。
米埔ではカワセミとアオショウビン、ヤマショウビンに会う機会が多い。ただ物音に敏感であり、飛ぶスピードが速いから、獲物を狙っているときか、休息しているとき、あるいは獲物を捕った後、嘴に魚をくわえているときがチャンスだ。ブルーの翼と頭に斑点のあるのがカワセミ、白い胸と茶色の頭、ブルーの翼がアオショウビン、鮮やかな藍に近いブルーの翼を持ち、頭が黒いのがヤマショウビン。あまり大きくない。鳩よりはずいぶん小さくて、スズメよりは大きい。体の割には大きな頭で、太い頑丈な嘴を持っている。何よりも美しい鳥だから、遭遇したときの感動はひときわだ。(写真はアオショウビン。クリックすれば拡大。)
米埔の留鳥は、ヒヨドリの仲間のチャイニーズブルブルやクレステッドブルブル、セッカの仲間、など多く観察できる。が、やはりメ
インは渡り鳥だ。
自然護理區の小さな入り口のドアを押して、護理區内のあぜ道に入る。少し歩くとあぜ道が分かれ、その先に緑色のペンキを塗った、2階建ての観察小屋がある。
観察小屋は全部で11ヵ所。平屋、2階建て、3階建てとあるが、いずれも野鳥を脅かさないように緑色のペンキが塗られ。入り口付近も人の姿が野鳥の目に入らないよう、緑色に塗られた板で覆ってある。観察小屋の中は、普通は観察用の窓が閉められている。観察小屋でのマナーは静かに観察すること、帰るとき必ず窓やドアを閉めること、飲食はしないこと。当然自然護理區内は禁煙だ。
どの観察小屋がいいかは難しい問題だ。かなりの部分、運に左右される。ただいずれの観察小屋もそれぞれ基圍を見晴らせるよう立地されている。干潟のある基圍に野鳥が多い。
あぜ道を歩いていて、まず驚かされるのは白と黒に彩られたクリスマスツリーだ。真っ白な木にぎっしりと黒い鳥が留っている。黒い鳥はカワウとウミウだ。香港ではカラスをあまり見ないが、米埔ではカラスのかわりにウが驚くほど多い。木が白くなっているのは、ウ
の糞による。木を枯らし、色を変えてしまっている。(写真はウのクりスマスツリー。クリックすれば拡大。)
しばらく歩くと、鴨池があり、WWFの教育センターがある。鴨池ではマガモ、ツクシガモ、カルガモ、ハシビロガモ、オナガガモ、ヒドリガモなどが観察される。
教育センターからマングローブの原生林に向かって基圍の間のあぜ道を歩くと、よく目にするのはアオサギだ。大型のサギで青灰色の翼を広げると2m近くなる。日本にも多い。サギ類では、他にダイサギ(黄色の長い脚をもつ大型のシラサギ。嘴は夏は黒く、冬は黄色い。)、チュウサギ(黒い脚をもつシラサギ。ダイサギ同様、嘴は夏に黒く、冬に黄色くなる。)、コサギ(脚、嘴とも黒い小型のシラサギ。)。サギ類の飛行体型で特徴的なのは首が曲がっていることだ。ツルの仲間は、飛ぶときも首がまっすぐ伸びている。
観察小屋からよく観察できるのは、サギの仲間、シギの仲間が多い。シギの仲間としては、ダイシャクシギ(長い湾曲した嘴をもつ)、チュウシャクシギ、セイタカシギ、アオアシシギなどがいる。
基圍のあぜ道を抜けると、背の高いフェンスにぶつかる。中国との国境線ではないが、国境との間に設けられた禁區のフェンスだ。フェンスの向こうにはマングローブの原生林が広がっている。通常ではこのフェンスを越えて、向こう側のマングローブの原生林に足を踏
み入れることは許されないだろうが、この米埔では1ヵ所だけ通り抜けることのできる扉がある。
扉の向こうは一面、マングローブの原生林だ。扉から先は道がない。あるのはフロートの上に作られた、人一人が渡るのがやっとという幅の板橋。延々とマングローブ原生林の端まで続いている。なぜフロートの上の板橋か。ここは海の上、潮の満ち干きによって海面の高低差がかなりある。固定されないフロートの上の道だと、つねに海面より高く保つことができる。しかし、フェンスの扉を開けて中に入るときも一種のスリルを感じるが、満ち潮で海面が高いときなど、不安定で思わず手すりを持ってしまう。特にすれ違うときだ。一応、退避できるようところどころ、幅が広くなっているが、それでも充分な幅ではなく、不安定な姿勢を強いられることになる。
マングローブの原生林を抜けると、そこがちょうど干潟の端になり、観察小屋がある。観察小屋の小窓からは、広い干潟と后海灣が見える。香港の場合、渡り鳥は北からやってくることが多いから、冬には干潟と海の接するところに多いときは数万羽の鳥がいる。引き潮のときは、干潟が遠くまで広がっているので、フィールドスコープで覗いてもかなり小さい。観察するには、冬の満ち潮のときを選ぶべきだろう。 干潟には日本よりやや大きめのムツゴロウがいる。ここではムツゴロウ漁はもちろん禁じられているが、自然護理區の管理
者が使う板スキーが日本の物とほぼ同じなのでおもしろい。ときどき中国から密猟者がやってくるという話だが、多分漁の仕方もよく似たものなのだろう。(写真は干潟にある観察小屋の内部。クリックすれば拡大)
この干潟には、シギの仲間が多い。数は少ないが、シロペリカンもいる。10倍の双眼鏡で眺めていると、数万羽の鳥の群れ、そのなかでひときわ大きな白い鳥が見える。それがペリカンだ。
多くの鳥は水際、海との境に近い干潟にいる。嘴で泥の中を突っついてエサを探す。それに対してペリカンは悠々と泳ぎながら、水中のエサを探す。この差が数万羽の乱舞のときに、行動の違いとなるのだ。
潮の満ち干きによって波打ち際が当然のことながら移動する。たとえば満ち潮のとき、海の水は徐々に陸に向かって押し寄せる。波打ち際でエサ探しに夢中になっていた鳥たちも気がつけばいつのまにか海の中。さあ少し干潟のほうに移動しなきゃ。というわけで、数万羽の鳥が一斉に飛びたち、2,3度空中を旋回し
て、また一斉に降りる。潮の満ち干きの速度に合わせて、この引越しを繰り返す。この、数万羽の鳥が一斉に飛び立ち、一斉に舞い降りる姿は素晴らしい。一度脳裏に刻みこまれたら、容易に消えない。日常では決して目にすることができない一瞬だ。(写真は干潟。水際に渡り鳥の群れ。クリックすれば拡大)
これに対しペリカンは飛び立たない。水中のえさを捕るペリカンにとっては多少の潮の動きなどたいした問題ではない。悠々と泳いで移動すればいいのだ。
ワシ、タカといえば陸上の小動物を狙う猛禽類だが、ちょっと変り種がこの干潟にいる。ミサゴだ。ミサゴは魚をとり、魚を食べる。水面の上空を飛翔していて、獲物をみつけるや急降下、足の鋭い爪で獲物をつかむ。そのためよく発達し、羽毛で防水された脚部を持つ。
他に米埔にいるワシ、タカの仲間は、トビ、チュウヒ、カタシロワシ、カラフトワシなどだが、街中でも見かけるトビは別として、個体数は少なく、あまり観察されない。
観察小屋から后海灣を眺めると、沖に貨物船が停泊していて、向こう側には深センの街並みが見える。もともと后海灣は深く内陸に入
り込んでいるため波は穏やかで、しかも干潟とマングローブの原生林が発達していて、渡り鳥にとっては天国だった。ところがその干潟も中国側が完全に埋め立てられ、市街地と化し、マングローブのかけらすら残っていない。今は香港側に残っているのみ。なおかつ、近年は都市の開発、産業の発展による后海灣の汚染が深刻だ。渡り鳥の飛来数も数年前に比べて半減しているそうだ。に、行動の違いとなるのだ。(写真はフィールドスコープで見た干潟の鳥たち。クリックすれば拡大)
干潟からマングローブの原生林を抜けて、フェンスの内側に戻る。ここからフェンス沿いに基圍の鳥を観察しながら歩く。このあたりの基圍には、アオサギ、シギ類、オオバン、バン、カイツブリなど。ときには、カワセミに出会う。むしろ、この近くの基圍でカワセミに会う確率は大きいかも知れない。
米埔自然護理區でもっとも貴重な鳥、絶滅の危機に直面している鳥はこの近くで見ることができる。クロツラヘラサギだ。その名の通り、白い身体に黒い顔、スプーン状になった嘴を持つ。ただし、サギの仲間ではなく、トキの仲間。現在確認されているのは440羽といわれている。そのうち150羽くらいが米埔に飛来する。
クロツラヘラサギが絶滅に瀕しているのは、その生命力の弱さによるだろう。クロツラヘラサギはスプーン状になった嘴で泥をかき
混ぜてエサを探す。そのため、長い嘴でえさを捕るほかの鳥に比べ、汚染された泥の影響を受けやすい。
クロツラヘラサギを保護し、絶滅の危機から守るために、生態の調査が続けられている。脚に鑑識番号をつけ、さらには一部の鳥には探知機のアンテナがつけられている。最近わかったことだが、香港で越冬するクロツラヘラサギは夏のあいだ、朝鮮半島の38度線近辺にいて、そこで繁殖しているとのことだ。確かに現在の38度線は無人地帯で、繁殖期を人間に脅かされることはない。(写真はフェンス。クリックすれば拡大)
基圍にいた数十羽のクロツラヘラサギは並んで水に浮かびながら睡眠をとっていた。ただし、1羽だけが眠らないで、周囲を泳ぎ、警戒に怠りがない。
野生の鳥たちを見ていると、そこだけが切り離された空間、切り離された時間のように思える。鳥には憧れに似た思いがある。自由に空を飛びまわる。人間には決して真似することのできない世界。束縛から解放された自由がある。
そろそろ、5時間あまりの米埔自然護理區の旅は終わりに近づいてきた。
渡り鳥は毎年、同じ場所に飛来し、同じ場所に帰っていく。しかも、長い時間をかけて長い距離を渡っていく。渡り鳥の中には、北極
から南極まで移動するものもいる。この渡り鳥の習性に自然の偉大さを感じ、感動を覚えるが、ただ、20世紀にあっては人間は渡り鳥の敵でありつづけた。開発の名のもと、自然の海岸、河岸が奪われつづけた。渡り鳥は一挙に何千kmも飛ぶわけではない。夏から冬、冬から夏へと決まったところで羽を休めながら渡っていく。前の年に休息した干潟が今年あるとは限らない。すでに埋められ、コンクリートの護岸となっているかもしれない。潮の流れがせき止められて海が死んでいるかもしれない。行き場を失った、休息できなかった渡り鳥はどうなるのだろう。(写真上はクロツラヘラサギの群れ。下はフィールドスコープで見たクロツラヘラサギ。クリックすれば拡大)
日本や中国の長い海岸線は、渡り鳥の休息地だった。それが今、日本ではすでにかなり失われ、中国ではこれから失われようとしている。人間はこれからも自然を破壊しつづけるのだろうか。そして、破壊によっていったい何を得ようとしているのだろうか。