<太古から>

 香港島の北部の市街地を東西に貫くMTR港島線の東のほうに、太古という駅があり、駅の北側、海よりには太古城、南側、山よりにはコーンヒルというよく知られた住宅地がある。数十の高層アパートメントが林立するこの街こそ、多くの日本人が居住するいわば香港のリトルトーキョーだ。駅の両側のショッピングセンターには、それぞれユニーとジャスコという日系のスーパーマーケットが入り、日本の物なら揃わない物はない。値段こそ日本に比べ多少高くはなるが、日本の食材、果物、野菜はもちろん、日用品、本と何でもあり、テレビドラマでさえレンタルビデオでほぼ1週間遅れで見られる。ただこの街の外観はただの高層ビル街で、リトルトーキョーという響きのエキゾチックなイメージはこれっぽっちもないが。

 ただわれわれにとっては、太古駅は山歩きの貴重なスタート地点だ。太古駅からスタートするこのコースは、太古の住人にとっても手軽なトレーニングコース、この裏山を歩くことで、香港の山歩きを始めた人も多い。現にわれわれの仲間の何人かは、この街の住人だ。

 太古駅を出て、西に100mほど歩けば、山側に基利路という道がある。このゆるやかな坂道の自動車道路を上り詰めたところに、目指すトレールの入り口。この徑、コーンヒルの高層アパートメント群の裏山、柏架山の谷に葉脈のように広がっていて、分かれ道も多いが、標識にしたがって大風アウ(土へんに幻)を目指して歩けば、まず迷うことはない。(写真は南側から見た柏架山)

 徑なりに急な階段を上がれば、開けたところがあり、いくつかのかまど跡が規則正しく並んでいる。太平洋戦争のときに立てこもったイギリス軍が使ったかまどの跡とのこと。もともと太古城は造船所のドックだった。日本軍の太古への上陸に備えて、この山に立てこもっていたらしい。この森には他にもう1箇所、このかまど跡と同じものがある。

 このかまど跡から徑は二つに分かれる。太古の駅からこのかまど跡、さらに右の徑は香港を南北に貫くウィルソントレール(後ほど説明)のセクション2の一部だ。われわれが目指す大風アウは左の徑のほうが近道。つづら折りの徑をあえぎあえぎ登ると、大潭郊野公園の管理事務所の横に出る。ここからは舗装道路だ。急な登りを登りきれば、クオリベイから伸びている柏架山道にぶつかる。柏架山道は自動車が通れる道だが、普通は管理事務所の車以外通らない。

 三叉路を左に折れ、柏架山道のなだらかな坂を登る。眼下に太古の街並みが見え、ビクトリアハーバーが広がり、九龍の市街、旧啓徳空港、九龍丘陵が見える。この坂の上の峠が大風アウ。柏架山と畢拿山の間のくぼんだところ、風の通り道。コースの入り口からここまでおよそ1時間。太古の駅からなら、約1時間15分。

 大風アウからの眺めは素晴らしい。北側には、登りながら見た風景が広がり、南側には大潭水塘、大潭灣、紅山半島、石澳丘陵が眼下に眺められる。大風アウは小さな公園になっていて、歩き疲れて一息ついている人、遊んでいる家族連れ、寝そべっている若者、のんびりと世間話をしているお年寄り。クオリベイから柏架山道を上がれば、距離は長くなるが、まだ歩きやすい。ただずっと舗装道路なので、あまり楽しくはないが。(写真上は大風アウの南側の眺め)

 大風アウ、ここは大潭郊野公園のトレールコースの分岐点だ。柏架山道をさらに東に上がれば柏架山、標高528m。香港島ではピークに次ぐ。西に上がれば畢拿山、標高436m。南に下れば、大潭水塘。

 今回は、畢拿山から小馬山、渣甸山を経て、大潭水塘に下り、また大風アウに戻るコースを紹介しよう。大風アウの亭(中国の郊外の丘の上などよく見られる、屋根と柱だけで壁のない休憩所、香港でも多くある)の裏の徑が登り口だ。ここから急な階段、600段の階段を登れば、畢拿山。階段の途中で振りかえれば、めまいがするほどだ。(写真は畢拿山の階段。頂上に近い)

 畢拿山の狭い頂上に立てばすがすがしい。ピークまで連なる山並みが急な階段を上りきった満足感を与えてくれる。少し下ってまた登れば、小馬山。標高424mだが、頂上は通らない。そして一気に下り、長い登り。階段の徑を上がれば渣甸山。標高433m。渣甸山は英語名ではジャーディンズ・ルックアウト、昔香港の経済を支配していたジャーディン・マセソン商会の船がビクトリアハーバーに入港するのをここから見ていち早く知らせたという。それほど、360度の眺望が素晴らしい。ほぼ香港島の中心に位置し、眺望をさえぎる物は何もない。中環、灣仔の街並みも一望できる。(写真下はジャーディンズ・ルックアウトからの眺め)

 渣甸山から南に下って、陽明山荘へ。陽明山荘はホテルや高級アパートメントからなっていて、欧米人の住人が多い。大風アウから陽明山荘までのコースは、実は港島徑第5段(香港トレール、セクション5)を逆行したことになる。また一部はウィルソントレールと重なっている。香港島を歩いていれば、必ず香港トレールやウィルソントレールに知らず知らずのうちに出くわし、歩くことになるのだ。

 大風アウから陽明山荘までは、1時間30分くらいだろうか。休憩のしかたにもよるが2時間はかからないだろう。香港トレールの標識を見ていれば迷わない。

 陽明山荘から大潭水塘までは長い下り。だらだらとした下り道を歩けば大潭水塘のダムサイトに出る。香港島の水がめの一つ、香港島だけでも水塘は7つあるが、とても需要はまかないきれない。中国から輸入した水と混ぜて供給しているそうだ。水塘にはもう一つの役割がある。香港の山は岩山が多く地表が薄い。雨が降れば、地中にとどまらずに一気に流れ落ちる。いわゆる鉄砲水が起こりやすい。山の中腹を巡っている引水道と合わせて、鉄砲水による被害を防ぐ役割があるのだ。

 大潭水塘から長い上りを登れば、再び大風アウ。陽明山荘から大風アウまではほとんど舗装された道だ。途中に山の水が出ているところがあるので、暑い日などそこで火照った頭や顔を冷やせばすきっとすること間違いなし。ただし、くれぐれも生水は飲まないように。

 大風アウからは、登ってきた徑を下って太古へ。いつのまにか太古駅をスタートしてから5時間足らずの時間が過ぎていた。(写真は大潭水塘)

  • *コース*
  •  太古 − 大風アウ − 畢拿山 − 小馬山 − 渣甸山 − 陽明山荘 − 大潭水塘 − 大風アウ − 太古