吹田操車場の生いたち

 

甲子園19個分 東洋一の広さ

 私たちの街・吹田は、かつて「ビールと操車場の街」と形容された。アサヒビールがスーパードライの大ヒットで業界1位に踊り出たのとは対照的に、操車場は昭和59(1984)年、その60年以上にわたる歴史をひっそりと閉じたのだった。
 総面積76万u、甲子園球場19個分の広さを誇った。取扱い貨車は3000両を超え、従業員1058名(昭和55年当時)の吹田操車場は、東洋一といわれていただけあって、それ自体が巨大産業だった。

広大な操車場建設は軍事輸送がきっかけ

 では、なぜ吹田に、かくも巨大な操車場が開設されたのであろうか?
 謎を解くカギは「戦争」である。すでに東海道線大阪〜向日町間は明治初期に開通していた。日清日露戦争の勃発は、鉄道による軍事輸送の重要性を知らしめた。それまでの船による旅客・物資の輸送が、次々と鉄道に切り替わっていった。
 その後、ぼっ発した第1次世界大戦により、近代産業が著しく発展。農村から都市部へと人口が集中した。このような状況のもと、鉄道輸送をより円滑なものとするため、操車場の新設工事が始まった。大正8(1919)年、政府が白羽の矢を立てたのは、東海道線上で大阪駅から京都方面へ10分程度の所、すなわち吹田町、岸部村、味舌村、千里村、三宅村の1町4村にまたがる23万坪の広大な土地。総工費500万円という巨大公共事業だった。
 「なぜ吹田が選ばれたのでしょうかねぇ。残念ながら詳しい資料がないのです。ええ、土地の売買書なども出てきませんね。『お国のため』に土地を差し出したような形だったのでしょう。土地の供出によって没落した農家もあったのではないですか。
 ただ確実に言えることは、あれだけの土地は当時でも大阪市内にはなかった、ということですね。吹田・岸部一帯は田んぼばかり。大阪駅から近く、便利だったので選ばれたのでしょうね」(吹田市立博物館・田口泰久氏談)。

貨物駅は便利な梅田にあるべき

 多数の農民犠牲のもと、吹田操車場がその業務を開始したのは大正12(1923)年のことであった。
 そして、その6年後、昭和3年に梅田貨物駅が分離独立。吹田操車場と梅田貨物駅はトラックにその主役を奪われるまで、関西の物流の中心を担うこととなる。
 私たちは梅田貨物駅の吹田への移転には反対しているが、鉄道輸送そのものに反対しているわけではない。むしろ排気ガスを出さない鉄道による輸送こそ、見直されるべきで、守られねばならないと考えている。
 環境にやさしい鉄道輸送を守るためにも、貨物駅は流通に便利な梅田にあるべきではないか…。
 昭和3年、わざわざ吹田操車場から貨物駅を梅田に分離させたのは、「梅田の方が便利だから」に違いない。このことは後に詳述する。

市民のためにこそ活用すべきでは?

 ここでは、「歴史的に見ても、操車場は吹田市民の土地であったのだから、吹田市民へ返還し、憩いの場として活用できるものにすべし」ということを強調しておきたい。

その後の吹田操車場をめぐる歴史

1923年(大正12年)
吹田操車場開業

1984年(昭和59年) 
60年にわたる歴史を閉じ、操車場機能を廃止、信号場となる

1987年(昭和62年)
国鉄が分割民営化、JRとなる。同時に梅田貨物駅の売却などを閣議決定。ただし、梅田貨物の行先が吹田であるという記載はない。

1988年頃〜
事態を重く見た吹田市は、移転反対で要望・陳情を開始する。

1992年(平成4年)
吹田市議会に「吹田操車場跡地利用対策特別委員会」を設置。この頃バブルがはじけ、土地の価格が暴落。梅田貨物駅を売却して国鉄の赤字返済に充てる、という大義名分が崩れていく。

1997年(平成9年)
国鉄清算事業団から吹田市へ「梅田貨物駅移転計画について」の申し入れ。正式な文書申し入れはこれが初めて。

1998年(平成10年)
清算事業団が解散。その権利・義務が鉄建公団へ継承される。

1999年(平成11年)
5者協定締結。それに伴い住民説明会を開催。市民からの意見書は762通

2000年(平成12年)
吹田操車場遺跡の発掘調査。

2001年(平成13年)
鉄建公団が環境影響評価準備書(準備書)を提出。

2002年(平成14年)
準備書に基づき、住民説明会の開催。意見書は11014通

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