留学生体験記4 2001年1月
西澤奈穂子
プラクティカムI
PsyDコース、心理学博士課程の必修科目の中で大きな位置をしめているものに、プラクティカム、つまり、授業と平行して行う実習がある。1学年に1つの場所で、9ヶ月から1年の間、パートタイムのスタッフみたいにして働く。たいていはお給料はもらえない。そのかわりそのサイトで毎週3時間前後の臨床的で実践的なトレーニングと、毎週1時間以上のスーパービジョンが受けられることになっている。実習時間は、1年次は週8時間以上、2年次、3年次は週16時間以上。そして課程最終年度は1年間フルタイム(週40時間以上)か2年間のハーフタイムで、学校で授業をとらずにまるまる現場で実習することになっており、これはプラクティカムとは呼ばずにプレドクター・インターンシップと言っている。今週は、「ヘッドスタート」でした1年目の実習について書いてみたいと思う。
PsyD1年目は、プラクティカムの中でセラピーはまだ行ってはいけないことになっている。週8時間なのでどちらにしてもあまり本格的なことはできない。メンタルヘルスのフィールドで現にどんなことが起きており何が問題になっているのかという、オーバービュー的な感覚を掴むというのが、これが必修課題であるところの意図なのだろう。しかしドクターコースを始めようという人の中には大学院に戻るまでにすでに現場でかなりの経験を積んできている人も多いので、そういう人たちにこの中途半端な実習がどれほどの意味をなすのかは疑問だ。私の場合は、セラピーを実践し始める前に、まずそのレベルにまで自分の英語をもっていかなければならないという課題があったから、このウォーミングアップ的な実習がとても役に立った。また、この国の社会・文化を理解するためにも、「ヘッドスタート」というのはまさに最適なスタート場所だったように思う。
「ヘッドスタート」というのは、低所得などの理由で家庭教育がままならない環境にいる子供達のために、政府が出資して無料で提供されている幼稚園のようなものだ。全米にかなりの数あると思う。「ヘッドスタート」について、教育の内容ややりかた、子供たちへの影響などの点で賛否両論があり、地域によってかなり差ができてしまうという問題もあるが、このプロジェクトの発想自体はすばらしいと思う。申し込まなければこのサービスは受けられないが、申し込みがあり条件があってさえいれば、子供本人はもちろん家族のメンタルヘルスや福祉などを含めた子供への全体的なケアが、無料で受けられるのだ。教育が大人が与えるべき「義務」ではなく本人の「権利」としてとらえられている、ここの文化的感覚を象徴しているようでもある。
午前、午後と一日が2クラスにわかれており、その両方の4歳児クラスに参加した。インターンとして週一日クラスにいて、「セカンドステップ」という子供の精神の発育を促すためのプログラムを行うグループを持ったり、気になる子供と話をしたり、養育者たちに「ペアレンティングクラス(育児教室)」を開いたりして1年を過ごした。うけもった30人ほどの子供たちはみんなとても印象にのこっているが、中でも特に忘れられない子供たちが4人ほどいる。Aくんはその一人。
Aくんは、初めのころは目立たなかったのに、冬に入ったころからクラスで暴れるようになった。誰にでもけんかを売る。先生の言うことは聞かない。すぐにものを投げ、暴力を振るいだすととまらない。こういうタイプの子供がこのクラスにはほかに何人もいてクラス全体がどんどん崩壊状態にむかっていたところだったから、先生はこの子が何をしても怒るだけで精一杯でフォローすることができないでいた。ある日Aくんはまたけんかを始めた。クラスメートの遊んでいたおもちゃを取り上げようとしたのだ。相手の子をなぐろうとする姿が尋常ではないので、私はあわててAくんをおさえつけようとしたが、彼は私の手をすり抜けて教室内を走り始めた。先生は忙しくて夢中で走るAくんを追いかける余裕がない。そこで私がかわりにしつこく彼をおいまわした。ようやくつかまえたとたん、Aくんはすごい勢いで私にしがみついてきた。びっくりして、「どうしたの?」といいながらしゃがんみこみ、彼と同じ目線で問いかけてみようとして言葉をのんだ。彼の目が、まるで殺されそうになってでもいるような激しい恐怖でいっぱいだったからだ。彼は私と目があうとまたしがみついてきた。私が何かを問いかけようとすると、彼は再び私の手をすりぬけ、そこにあったはさみを掴んで自分の喉もとに持って行って言った。「I’m gonna kill myself!」あわをくった私があわててはさみをもぎとるとまた逃げ出して走りまわり、ころがっていたブロックを掴んで飲みこもうとした。
このことがきっかけになってAくんへの特別なケアが始まり、A君の一家8人ほどが実は数週間前からホームレスになっていたことがわかった。結果、シェルター紹介、A君らにセラピストをつける、などという市が提供すべきサービスがヘッドスタートを通して可能になった。A君は問題行動でSOS信号を出し、それがこの一家を救ったとも言える。そしてA君がSOSを出せたのは、すべての人の「権利」に対して開かれていようとするここの文化のありかたのせいなのかもしれない。「権利」がそれほど重要になるのは、家族や親類などの身近な人間同士の結びつきが弱いということでもあるのだろう。A君の姿はたくましくて他者の感傷を許さない強さがあるが、恐怖に満ちたあの瞳は今でも忘れることができない。
「権利」を重んじ、メンタルヘルスケアも充実したこの国は、同時に、残酷な出来事の底無しの落とし穴がいたるところで大きく口を開けている社会でもある。ここで家もなく家族も頼れずに生きることは、Aくんを強くし、孤独にしていくのだろう。「ヘッドスタート」の子供達との出来事が教えてくれたこういう感覚一つ一つが、ここでメンタルヘルスのフィールドで学んでいくなかで、とても大切なものになっている。そしてそれは、この国だけの問題なのではなく、現代という時代に生きることが私たちに課していく重要な課題の一つなのだろうと思う。