Column
自由帳


 1   資料 佐竹義宣の手紙
更新日時:
2009/05/16 
1592年、佐竹義宣が名護屋(現、佐賀県)在陣中、国元(現、茨城県水戸)の家老の和田安房守に宛てた手紙として以下のものが残っています。
一、
大くほ(大久保)、せや(瀬谷)やく(役)金のこと、せやへ五つ、大くほへ三つ引きわけ、あらためて申し付けべく候
其をとかくわひ事申し候は、山をめしはなし、ほっこ(堀子)をしらへ、検使を付け、ほらせ申すべく候
一、
ふうない(保内)、南郷、部垂にけんし(検使)をつけ、ほっこ一人まへより金二ぶつつもやくを取り申すべく候。かなておろし候ことは無用に候。ただやくをかけとり申すべく候。其の上にも代物をおろし、ほりはにて其の時のねに所望仕るべく候。
けんみつ(厳密)なるものを申しつけべく候。
それにもよこめ(横目)をつけ、わたくし候はば、ここもとへ申しこさす候はでも成敗仕えるべく候。何事もここもとより直判を以ていいこささる儀は、ほんにいたすましく候。何事もきつかいなく申しつけべく候。
一、
ひかり山りう所にて、あたらしく金をほりいたすよし肝要に候。是へも三人ほとけんし(検使)をつけ候て、けんみつ(厳密)にほらせべく候。やくの儀は、かねのいてやうによりて、やくくわふんにあてべく候。
 
これは義宣が朝鮮出兵の折り本国の家老に新しい鉱山を開発しろと言っているのだが、これを読むと、常陸には、武田の黒川、上杉の越後や佐渡、今川の土肥のような大型金山は持っていないことが分かる。それにしても小さい金山を沢山持っており、豊臣へ上納した金の量は佐渡に続いて第3位だというから凄いことだ。これらの金が豊臣政権下での佐竹の地位を高め、また、佐竹の天敵、北条、伊達の討伐にも有利に働いたようです。
 
補足 佐竹の主力金山
大久保、助川金山(日立市)
瀬谷金山(常陸太田市)八溝、保内、洞坂金山、(大子)南郷金山(福島県棚倉町)部垂砂金山(大宮町)山尾(十王町)、木葉下(水戸市)、武茂郷(栃木県馬頭町)
他にも岩間町、山方町など小規模金山、砂金堀場が多数あります。また出羽国替え後の院内の開発手腕もめざましいものがある。このことからも佐竹家は武田氏やその技術を引き継ぐ徳川家と並ぶ日本屈指の鉱山大名と考えてよいでしょう。
※補足 佐竹義宣の人物像
鬼義重の異名をとり、上杉謙信の信頼も厚い勇猛な戦国大名佐竹義重の嫡男。
父親の作った基盤を受け継ぎ、卓越した武力と外交手腕で一気に領土を拡大、常陸を完全に制圧する。秋田移封後も優れた行政手腕を発揮し、軍人タイプというより官僚タイプだったと思われる。
義宣の母は伊達政宗の父、輝宗の妹であるため、最大のライバル政宗は従兄弟ということになる。
彼の素顔の肖像画が全く残っていないというのが実に不思議な点です。実は一枚肖像画があるのだが、兜に仮面を付けており意図的なものすら感じざるを得ない。義重は毎日違う場所で寝ていた、扉の閂は長刀の先で開けていたというエピソードもあることからも暗殺などを極度に恐れていたとも考えられる。石田三成とは、個人的にも大変親しく、佐竹家が改易の危機にあったとき三成に救われたことがある。そのため三成には大変恩義を感じており三成が武断派の襲撃を受けたとき、彼を女装させて家康の元に逃がしたのも義宣とされている。義宣は関ヶ原では西軍につこうとしたが、父親と家老の反対に遭い、また家康の策略のためだと思うが上杉軍や西軍との連携が取れず結局どっちつかず格好となってしまった。その後この家老達との確執は、秋田国替え後も長く尾を引くことになります。家康は義宣をこう評価している。「佐竹義宣は日の本一の律儀者、しかし、律儀すぎるのも非常に困る」これは褒めているのか?皮肉っているのか?何ともタヌキ親父の本音は不明である。また常陸、出羽での彼の評価も変わっている、優秀な執政者、教養高い文化人、義理に厚い、親孝行といった名君としての賞賛が高い、その反面、猜疑心が強い、冷酷で残忍といった評価もあるが、たぶん武闘派ではなく、官僚タイプの戦国武将だったということだろう。


● PrevIndexNext

2007年の砂金堀り


戻る