茨城県立歴史館特別展
2005年2月5日特別内覧会の招待で行って来ました。オープニングのセレモニーのあと、学芸員の方の説明と共に多くの展示品を見学。入り口にはいるとガラスの向こうに佐竹義宣の甲冑に圧倒されます。安土桃山時代から江戸期にかけての甲冑は本当に美しい。兜の前立ては熊の毛皮で作った長い棒だが、これは毛虫を象徴しているとのこと、兜の前立ては、その人物のポリシーやモットーを示している場合が多く面白い。何故、毛虫?と誰もが考えるでしょう。これには3つほど意味があるらしい。
1,毛虫は、常に前に進み、絶対に後退しない。
2,毛虫は葉を喰う。そこで刃を喰うという縁起担ぎから戦場での魔よけという意味合い。
3,古い発音では、源氏を「けむし」と発音することがある。つまり自分は源氏の正統だという自認を示している。
もし、自分が戦国大名だったらどんな前立てを取り付けるか想像してみるのも面白い。やはり日本の甲冑は世界に例を見ない美しいものだとつくづく感じます。
さらに奥に進むと、清和源氏佐竹冠者の発祥から、鎌倉時代、室町時代を説明する展示品を数々見ることになる。源頼朝、義経時代の佐竹氏についての解説は興味深いものでした。意外なことに佐竹は源氏でありながら平家の恩恵を受けていたため一時期、源頼朝と敵対していたことがあるとのことでした。よく源平合戦といわれるが実際は源氏、平家で敵味方を分けているわけではなく人間関係は相当複雑だったようです。
今回の特別展、展示品はほとんど本物で、博物館職員の並々ならぬ気合いを感じます。なんと国の重要文化財「吾妻鏡」「頼朝奉納の鞍」まである。吾妻鏡だけは20日までしか展示されないそうです。
次に戦国時代、佐竹義重の甲冑と伊達政宗の甲冑が向かい合って展示されている。勿論本物、展示は人取橋合戦を意識して展示されている。心憎い演出だ。彼等は戦場でこれを着用しどんな夢を見たのだろう。柄にもなく思いにふける。伊達政宗の兜には巨大な三日月型の前立てが取り付けてあるが、これは説明するまでもなくあまりにも有名。ファッションにうるさい政宗の甲冑だけあってなかなか格好がよい。説明を読むと甲冑製作者の名前は「明珍信家」。これには驚きを隠せません。私の使うカッチャ制作者、明珍武康氏のご先祖様は政宗の軍師、片倉景綱おかかえの甲冑師である。つまり私は佐竹の産金地で宿敵である伊達氏ゆかりの道具で砂金を掘っていることになる。何とも奇妙な因縁です。
ちなみに義重の甲冑は吉久作、義宣のものは奈良の甲冑師興惣の作とされています。
他には佐竹と交流のあった武将の書簡なども見応えがある。武田、北条、豊臣他の書簡が展示されている。上杉謙信が佐竹義重に贈った太刀などは、滅多に観ることが出来ない逸品といえる。なお、この太刀は、「典厩割国宗太刀拵」といい川中島で武田信玄の弟、信繁を討ち取った刀とされています。
そして、佐竹氏の金山開発、塩業支配に関する展示に入ります。常陸の金山は、現在からは考えられないほど莫大な産金があり、その量は越後金山、佐渡金山につぐ産金量だった。また、水戸周囲に私がまだ知らない戦国の金山が存在したことが判明した。さらに秀吉の朱印状もあり、それによる、常陸の金山は一度秀吉の直轄とし佐竹預かりとして掘られていたことが分かります。佐竹氏は秀吉に莫大な金の上納や労役を課せられ苦労もしますが、見返りに、茨城全土、福島南部、栃木東部を所領として安堵され、東国トップクラスの大名に上り詰めます。この時期が佐竹にとって全盛期といえるところです。ここでは秀吉の朱印状、常陸の砂金、金鉱石、鉱山臼が展示されています。なお、佐竹の金山衆については、武田の黒川衆のように痕跡が残っておらず謎が多い。
次に以外だったのが製塩事業、戦国期、茨城でも塩の生産が行われていたことが近年の遺跡発掘により判明している。私にとっては初耳であり、とても驚かされました。学芸員の方の話では、海沿いに住む大名は大概、塩の生産を行っていたとは珍しいことでは無いそうです。
人間が生きて行くには塩を不可欠なもので、武田信玄が、今川、北条から塩の取引を止められ困っていると上杉謙信が信玄に塩を送った「敵に塩を送る」逸話は有名ですね。義に生きる謙信の美学を示す話ですが真偽については疑わしいところもあります。しかし、考えようによっては謙信にとって武田の弱体化で、今川、北条の力が強力なることの方が心配だったのかも知れません。
そして最後、常陸から出羽への移封、学芸員の方の話でも、移封理由は上杉景勝や石田三成への内通が疑われたためではないかと言われているが、実際は不明だとのことでした。ただ江戸の真上に、こんなに大きな外様大名を置くことを家康が許さなかったのは確かだろうと言うことです。家康の命令で佐竹は500年も支配した常陸を離れていくことになりました。ここでは、佐竹氏の家臣が常陸から出羽まで背負って運んだ七面天女立像、徳川秀忠より義宣に贈られた火縄銃、国替に関する図面、書簡等展示がされている。立像などは402年ぶりに常陸に帰ってきたとのことで何とも感慨深いものがあります。
また、直接関係はありませんが、家康が初代水戸藩主、徳川頼房(水戸光圀の父)に贈った太刀が展示されている。これも重要文化財であるが解説を読んで驚いた。
鎌倉時代の名工、備前福岡一文字派の則兼作である。これほどの銘刀を間近で見たのは初めてだ。これと同類の刀には新選組沖田総司の菊一文字則宗が有名ですが、一文字派の銘刀は幕末でも現在の価値で一億円以上した。また鎌倉時代の太刀は馬上で使いやすいように反りが大きく作られているため得意の突き技には向かないことから現在この説は創作とされているようです。
とりあえずこれで全ての見学が終わりました。帰りには、和服姿の水戸の梅大使の娘さん達から図録が一人づつ手渡された。
彼女たちをみて、「水戸の美人は佐竹さんがみんな秋田に連れて行ってしまった」というのは嘘だなと思った。昔、「秋田の美人、水戸の不美人と言う伝承が・・・」などと書いたことを謝らなければならないところだ。すいません!水戸には美人がたくさんいます。
他にも「佐竹さんが出羽に移封になったとき、常陸の金鉱は牛の形に変わって秋田に歩いていった」とか、「海のハタハタがみんな秋田に泳いでいってしまって日立の海では採れなくなった」という伝承が残り、そして現在も、「私の先祖は昔は佐竹さんに仕えていた」と言う話もよく聞く、また72年に一度行われる金砂大祭礼でも佐竹の家紋が入った旗が掲げられる。
3月21日特別展も無事終了しました。開催中の観覧者は2万人以上に及び、改めて地元での「佐竹さん」人気のすごさを実感しました。
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