自分だけのオリジナルな産地を持つこと、あるいは古い砂金地を再興することは、私にとって無上の喜びになっています。
下記の方法はおおざっぱなものですが参考程度にお読み下さればと思います。
金山の下流を調べる
これは砂金産地探索の基本になります。金山の下流で砂金が出ることはごく普通のことです。また、想像も付かないような場所で砂金が見つかることもある。こんな下流までは流れてこないだろう、あるいは、付近に金鉱がないから無理といった先入観は、新たな産地発見には大敵です。とにかく行動と想像力(妄想?)を失っては当たり前のことしか出来ないだろう。(たぶん)
銅山も意識する
銅山でも自然金産出は珍しくなく、上部の酸化帯から分離した自然金が川に流れ出している例も多く見受けられます。足尾銅山で精錬課程で回収された金は、下手な金山など足下に及ばない量になります。これは銅鉱床の上部に金や蒼鉛を含む熱水鉱脈が来ていることからも立証されています。
日立鉱山付近にもテルルと金を含む鉱脈が近辺に走っており、砂金の採取にも成功している。このことから言ってもキースラガーや浅熱水鉱床近辺でも砂金は確認できる可能性が高いと言うことが分かると思います。
自由な発想、冷静な理論、この相反する考察から実践を行うことにより成果を生み出す。これが砂金探検掘りの醍醐味だと言える。
元素の親和性を検討する
元素の共存関係も重要なヒントになります。アンチモン、テルル、ビスマスなどは金との相性が非常に良く特にテルル蒼鉛などは金と密着して産する事が多い。
私の経験上も輝安鉱を掘った鉱山の下では高い確率で砂金が産出します。
砂金の集め方は人それぞれでしょう。砂金掘りをたしなむ方には鉱床関連の理論を語ることを異常にいやがる人もいる。しかし簡単な鉱物学を学べば砂金はさらに楽しくなる。これが私の持論です。
河原の転石に注目
長い年月で川の位置は現在と違う位置を流れていることがある。
一見すると砂金と関係がないと思われる川で砂金が採れることがあるのだが、よく観察すると重砂や転石から納得することができる。
茨城県大宮町玉川は、戦国時代からの砂金産地であるが知名度は低い。河床の岩盤は礫岩、砂岩などの堆積岩から構成されているが八溝山系の様な熱水石英脈は一切ない。
しかし、転石には摩耗したメノウ、重砂には石榴石が混じる。これは大宮町や瓜連町の方に久慈川が流れていたためである。玉川の砂金は八溝山系から運ばれてきた砂金堆積後に久慈川の流れが変わり陸地化したために残留した柴金といえる。
埼玉県入間川、荒川からも多摩川からも離れている。化石は産出するが、付近に熱水性の鉱脈はない。では、何故砂金が採れるのか。よく気をつけてみると入間川の河原の石に時々花崗閃緑岩の礫があるのに気が付く。
これらの礫は何処から供給されたかを考えると荒川ではなく多摩川の上流から供給されたものと考えられる。
河原の礫に花崗閃緑岩がある川として宮城県涌谷町も、同様な理屈が成り立つ。涌谷の黄金沢付近には花崗岩の露頭は一切ない。北上川が遙か昔に涌谷の方に流れていて、砂金と花崗岩の礫を涌谷付近に堆積させたと考えれば納得がいく。
遙か古代、涌谷の人々がミヨシ堀可能な丘陵を発見するのには、こういった花崗閃緑岩や石英の礫の有無で判断したのではないだろうか。
河原の礫や川岸の地層の観察をし推測することも新産地を探す上で大事なことだと思われます。
戦国史、民俗史から探る
金がつく地名、例えば金沢、金山、金鶏などに産金の可能性があることは、すぐに思いつくと思います。
地方の図書館、郷土資料館で伝承を調べるのも有効な手段です。私が今まで訪れたところには伝説から砂金を見いだしたところもいくつか有ります。石川スズメ、八溝の大蛇、ねじきりなど、これらは産金の事実に根ざしたものだと思われます。
神社で祭られている神様の名前を調べ金山彦ノ命が祭られているようでしたら、近辺に古い金山が有った可能性が大です。
戦国時代の金山は砂金採取から始まっていることが多く、また戦国大名の戦は鉱脈の争奪戦によるものが多い。現在に置き換えるなら原油の争奪戦といえばわかりやすいだろう。
武田、佐竹、伊達、芦名、蒲生など安土桃山時代の大名の記録を調べておくのも有効な手段といえる。
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