○ 印波の国造
( 出典 : 「成田の歴史と史跡 40」 平成18年3月26日発行 成田エリア新聞 )
千葉県つまり房総は、周知の通り安房・上総・下総の3か国から成り立っているが、これは大化改新(645年)以後のことで、それ以前はいくつもの小さな国に分かれていた。 そして大和朝廷の勢力が房総に波及してくると、房総の豪族たちは朝廷に服属し、国造(くにのみやつこ)に任命されて、朝廷の地方官となっていったのである。
では成田市や印旛郡付近を範囲としていた、印波国の国造とはどういう人物であったのであろうか。 9世紀初頭の撰録になる『先代旧事本紀』国造本紀には、応神天皇の時代に、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の8世の孫にあたる伊都許利(いつこり)命が、印波国造を賜ったと記されている。 神八井耳命は神武天皇の皇子であるから、初代印波国造に任命された伊都許利命は皇族の血を引く人物といえよう。
神八井耳命の同系としては、鴨川市付近を領土としていた長狭(ながさ)国造などもそうである。 問題となるのは印波のような東国の国造に皇族の系統の者を置くということで、それだけ印波国はこれより以北の蝦夷(えみし)を監視する重要な拠点となっていたのではないかと考えられるのである。
船形地区の麻賀多神社の脇には、伊都許利命の墓と伝えられる古墳が存在している。 東西約35メートル、南北約36メートル、高さ約5メートルを測り、方墳(平面形が方形の古墳)としては大規模なものである。 江戸時代末期の元治元年(1864)に横穴式石室と箱式石棺が発見され、中から鉄製太刀や鉄族・金環・土玉などが出土した。 また伊都許利命の治世年代は、応神天皇の在位年代や麻賀多神社の宮司太田家に伝わる家系図などにより、4世紀後半から5世紀初頭ということがわかる。
では印波国造の支配領域はどこか。 現在のところ成田市特に印旛沼東岸の公津地区から、印旛郡を含むかなり広い地域であったと考えられている。 しかし大化改新によって国造制は廃止となり、時代は中央集権統一国家の建設という、新しい流れへと向っていくのである。 ( 成田山書道美術館 小倉 博 )
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