○ 13万年前の「印旛潟」
( 出典 ; 「千葉の自然をたずねて―日曜の地学19―」 近藤精造 監修 2001年7月1日 築地書館(株) 発行 )
いまから13万年前、台地上に「古東京湾」という海が広がっていました。 この海に積もった土砂を「木下(きおろし)層」といいます。
花見川西岸、天戸の長南型枠の資材置場の崖(がけ)を見に行きましょう。 木下層は砂質で中粒砂と粗粒砂の薄層が交互に積もった部分、クロスナミナが発達し、ヒメスナホリムシという波の荒い砂浜に生息するフナムシのなかまの生痕化石だといわれる白い斑点を多量にふくむ中粒砂、少量の貝化石の破片をふくみ、同様にクロスナミナが発達した中〜粗粒砂、の3つの部分からできています。
これに対して印旛村吉田馬場台では、泥質の木下層が見られます。 カニ類の巣穴の化石をたくさんふくんでいます。 最下部には鉄サビで汚れた貝の印象化石をふくむ砂層をともなって、上岩橋(かみいわはし)層の細粒砂の上に不整合で重なり、不整合面は崖の西側(むかって左側)へ下がってゆきます。 崩土をはさんださらに西では、上岩橋層のかわりにコーヒー牛乳のような色の泥層(木下層谷埋めたい積物)が見られます。 これは上岩橋層をたい積させた海がしりぞいて陸化したときに刻まれた谷を、木下層を積もらせる海がはいりこんで埋めた場所です。
泥〜粘土質の木下層は印旛沼西部調整池沿岸から新川流域にかけて分布し、柏井の花見川開削部付近で東京湾沿岸の砂質の木下層に変ります。 同じ「古東京湾」に積もった地層なのにその様子がちがいます。 前に、花見川低地にはいりこんでいた縄文時代の海が、砂州で入口を閉じられて潟湖(せきこ)から湿地へと変わっていったことを書きました。 古東京湾もおそらく、同じような経過をたどってしりぞいたのでしょう。 泥質の木下層が潟湖の、砂質の木下層が砂州のたい積物ではないでしょうか。
花見川低地とのちがいは、潟湖の陸側に三角州が発達することです。 泥質の木下層の分布域の北側、手賀沼沿岸から木下・小林・鶴巻などの地域に分布する、クロスラミナが発達した貝化石をたくさんふくむ砂質の木下層が、三角州のたい積物ではないかと考えられます。
図2-11(省略)には常総(じょうそう)粘土層上面の海抜高度も示してあります。 常総粘土層は、古東京湾がしりぞいたあとに広がっていた湿地に積もった地層です。にもかかわらずその高さがちがっているのは、たい積後の地殻(ちかく)変動のせいだと考えられています。 泥質の木下層が、相対的沈降域に分布しているのがわかります。 13万年前の古東京湾最末期の潟湖、「印旛潟」は、この沈降運動のもとに生まれたのでしょう。 同じ地殻変動のために、縄文時代の古鬼怒湾が、現在の印旛沼としてとりのこされているように。
印旛沼から東京湾を結んだ江戸時代の花見川開削工事が困難だったのも、そんな自然のおいたちが背景にあったためかもしれません。