○ 2,000年前の印旛沼周辺地域 ― 新しい文化に触れ独自の文化を築く ―
( 出典 : 「広報なりた」 2004 October 10/15 No.1037 )
豊住工業団地の北側に広がる南羽鳥遺跡群(現在ゴルフ場)は、人頭形土製品やムササビ形埴輪など、過去に類例がない出土品で全国的に有名になりました。 いずれもお墓に副葬された品々ですが、同遺跡群の南羽鳥タダメキ第2遺跡や谷津堀(やつぼり)遺跡A地点は、弥生時代のお墓や独特の土器文化をうかがうことのできる数少ない遺跡です。
市内(成田)で見られる弥生時代のお墓は大きく分け二つあります。 一つは棺のまわりに溝が四角形にめぐる「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」と呼ばれるおの。 もう一つは土器自体が棺の役目を果たし、それを穴に埋める「土器棺墓(どきかんぼ)」といわれるものです。 前者は西日本から伝わった新しい埋葬方法で、市内(成田)では押畑子の神(ねのかみ)城址遺跡で初めて確認され、その後南羽鳥タダメキ第2遺跡でも発見されました。 後者は縄文時代から見られ東北地方南部から下総地域を中心に特徴的に見られるもので、白骨化してから骨だけを改めて壷に入れたもので、南羽鳥タダメキ第2遺跡、南羽鳥谷津堀遺跡、芦田桐ヶ崎(きりがさき)遺跡などで確認されています。
このように南羽鳥タダメキ遺跡から発見された新旧二つのお墓は、弥生時代中期後半、今から約2,000年前にほぼ同時期に造られたということが注目される点です。 さらに出土した土器を見てみると、茨城県などに分布の中心がある土器の一部と東京湾沿岸地域を主体とする土器の一部を組み合せて一つの棺を作り、その上に別の土器を蓋としてかぶせて埋葬された例もありました。 また、谷津堀遺跡の土器棺墓は両地域の土器の形や文様の特徴を取り入れた折衷型ともいえるもので、弥生時代後期になるとこの折衷型が中心を占めるようになります。
このように印旛沼周辺は、中期後半から土器の流通や婚姻などを通して活発で密接な交流があった地域と考えられています。 そして、残された遺跡からは、西からの新しい文化と北関東地方の文化とを融合させながら独自の文化を築いた、わたしたちの祖先の暮らしをうかがい知ることができます。
(杉浦補註)「原史時代‥‥、印旛沼周辺地域は、東西文化の十字路であった。」という視点。
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