○ 雨祈(あまいのり)
( 出典 : 「口訳 利根川図志」 赤松宗旦 著 阿部正路・浅野通有 訳 1978年6月10日 崙書房 発行 )

巻 四

雨祈  文政年間(一八一八〜一八三〇)の初めの頃、印西のあたりに、名をト童(ぼくどう)とよぶ禅宗の僧がいた。年齢は十九歳だという。もともとはどなたかの弟子であったのであろうという。ここに漂泊して来て、二、三年になった。性質は至って愚鈍で、いつも路上で何やらうそぶいたり、唄ったりしており、宿を求めることはなく、ただ樹の下の詞堂(しどう)をすみかにしていた。三伏(さんふく)[極暑の侯のこと。すなわち、夏至の後の初休=第三の庚(かのえ)の日と中伏=夏至の後の第四の庚の日、末伏=立秋の後の第一の庚の日の総称]の月日にも木綿の綿入れを着て、暑いともいわず、蚤や蚊をいやがらず、雪が降る寒いきびしい冬にも単物(ひとえもの)に半天一衣(いちまい)である。もっとも、麻の破れ衣だけは、いつも腰にまとって放さなかった。食べ物を与えると、二椀[一汁一菜]以外は食べず、それを食べたあとは、どんな珍しくおいしいものを出しても、手もふれなかった。酒宴の席を嫌った。ト童が少年や血気さかんな男たちを嫌う理由は、かれらが煙草に火薬を混ぜたり、あるいは食べものに唐がらしを混ぜたりしてこれを与え、困らせるといういたずらをしたからだという。粗末な飲み食い以外、何ものも求めないこの男は、まさに「愚直の者」というべきである。
 ある年の夏、この付近が大旱魃になり、利根川をはじめ、あちこちの川や沼の水が渇れた。高瀬舟の通路も絶たれ、井戸の水も尽きてしまい、住民の心配はひとかたでなかった。このため、土地の領主たちも、多くの寺々に「雨祈り」をさせ、また、村々の農民たちもそれぞれにふさわしい雨乞いの行事をしたのだが、一向にその効き目はなかった。
 その時、例のト童が「印旛沼の中にある佐久治穴に龍神が住んでいる。私が龍神に頼んでお祈りをすれば、たちまちのうちに雨が降るだろう。早くその祈祷をするための台を作ってほしい」と言った。土地の人びとは大いに笑って、「このばかな乞食坊主が、何を知っていて、こんな嘘を言い出し、人の心をあざむくのか」と叱ったところ、ト童は「いやいや、疑ってはならない。私は数年来、佐久治穴の龍神とは友だちなのだ。だから、龍神に頼む方法を知っている」と言って聞き入れない。そして、是非、祈祷の台を作ってくれと強く望んだのだった。土地の者も長いひでりで困りはてている時でもあったので、それではとにかくト童の意志にまかせてみようということになり、佐久治穴のかたわらである印旛沼の中あたりに祈祷台を作って与えた。ト童はこれに注連(しめ)縄を張り、四方に、青、白、赤、黒の御幣をたて、その他必要なものを備えた。そして、ト童は台の上に立ちあがり、声高らか「このたび天災たる大旱魃で、皆々の飢渇に苦しむさまは見るしのびない。このため、愚僧ト童は、七日間にわたって断食し[原文にある一七日は、十七日でなく、七日の一回分ということであろう]、佐久治穴の龍神に祈る次第だ。願わくは、どうか大雨を降らして、皆の飢渇をお救い下さい。もし、七日目になっても雨が降らなければ、私はもはやこの世に生きて帰らず、佐久治穴へ身を投じて龍神の住居を穢すであろう」と言った。そして言い終えて、ト童はどっかと台に座り、あとはものもいわない。その姿は座禅をくんでいる姿にみえた。土地の人びとは、それまでは、ト童にあざむかれたかも知れないと思っていたのであるが、この「誓文」を聞いてからは、大いに驚き、それからは、みんなでト童のことをあれやこれやと心配しながら過したことであった。
 さて、ト童が雨乞いをはじめてから七日目になったけれども、そのしるしが見えそうもない。今日こそ、ト童が死ぬ日だと皆はひどく心配していたところ、ト童の、困りはてた人々の苦難を救おうとする命がけの祈りが通じたのであろう、昼ごろからにわかに黒雲舞い起こり、雨が降り出した。雨足はやがて篠をつくように激しくなり、車軸をゆり動かすようなどしゃ降りになった。土地の者たちは、大いに悦び、これで長い間の飢渇の苦しみからいっぺんに蘇ったような気持ちだ言いながら、踊りあがって喜びあったのだった。
 それから、ト童に何か御礼をすべきだろうと相談したところ、ト童は、もともと無欲の僧である。金銭には手も触れず、一汁一菜の食事を求めたほかは何の望みもないと言う。そこで皆は、ただ単物一衣と、麻の衣だけを御礼としてさしあげたことであった。
 こうして、ト童は、それから三十五日の間、このあたりをさすらったのだったが、それからどこへ行ったのだろうか、ぷっつりと姿を消してしまい、その姿を見かけることもなくなってしまった。。土地の人びとは、このことをたいへん奇妙だと思い、誰一人、不思議だと思わない人はいなかったという。




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