○ 房総の風土
( 出典 : 「千葉県の歴史 ー風土と人間ー」 石井進・宇野俊一 編 2000年7月20日 (株)山川出版社 発行)


<千葉と房総三国の名の由来>

 千葉県は、ほぼ房総(ぼうそう)三国、すなわち律令(りつりょう)制以来の安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)三国から成り立つ。 ただし下総のうち猿島(さしま)・結城(ゆうき)・豊田(とよた)三郡と相馬(そうま)・葛飾(かつしか)二郡中の一部は茨城県に、葛飾郡の一部はそれぞれ埼玉県と東京都に分属している。 県名のおこりは下総国千葉郡にある。 千葉郡の千葉郷を基礎にして平安後期、皇室領の大荘園(しょうえん)千葉荘が成立、この荘を本拠とした房総平氏(へいし)一族が千葉を苗字に、鎌倉・室町・戦国時代の中世、下総一帯に覇(は)をとなえた。 千葉の地は近世に佐倉(さくら)藩領の千葉町となり、寒川湊(さむがわみなと)や登戸(のぶと)湊をひかえた物資集散地として発展、やがて明治六(一八七三)年、それまでの木更津(きさらづ)県(安房・上総両国を所管)と印旛(いんば)県(下総国中の中・西部九郡を所管)を合併した千葉県が成立するや、県庁がおかれたのである。
 千葉の地名の由来としては、「多くの葉が繁茂する」の意で、沢山の草木が生いしげる原野だったからとも、土地の繁栄を願っての地名とも説かれている。 その地名がもっとも古くみえるのが、「万葉集(まんようしゅう)」巻二〇、天平勝宝七(七五五)年の下総国千葉郡出身の防人(さきもり)大田部足人(おおたべのたるひと)のよんだ、
  千葉の野の児手柏(こてかしわ)の含(ほほ)まれとあやにかなしみ置きて高来(たかき)ぬ
(千葉の野の児手柏の葉がまだ開き切っていないように、若くあどけない彼女が何とも痛々しくて、手もふれずはるばるとやってきたことだよ)
の一首である。 木々の生いしげった千葉の野に生かされつつ展開していた当時の人びとの生活ぶりをしのばせる歌だ。
 また『古事記(こじき)』と『日本書記(にほんしょき)』には、ともに応神(おうじん)天皇が大和(やまと)から近江(おうみ)にむかう途中、山城(やましろ)の宇治野(うじの)の上から遠く葛野(かずの)一帯をのぞんでの国見の歌として、
  千葉の葛野(かづぬ)を見れば百千(ももち)足(た)る家庭(やにわ)も見ゆ国の秀(ほ)も見ゆ
  (千葉の葛野を眺めやると、数多くの富み栄える民の家々も見える。 国の中でもっとも秀でたところも見える)
をのせている。 この「千葉の」とは数多くの葉の意味で、葛の葉がよく繁茂するところから、葛の枕詞(まくらことば)として用いられたのだと、契沖(けいちゅう)(江戸時代前期の国学者)以来考えられている。 山城の葛野についての歌ではあるが、古代人が千葉の地名に託した願いを知る材料になることだろう。
 また上総・下総両国は、もと「総(ふさ)の国」として朝廷から把握されていたが、のちに二国に分立、さらに奈良時代の養老二(七一八)年には上総から安房が独立して房総三国が成立した。 国名のおこりについて、平安初期、斎部広成(いんべひろなり)が自家の伝承を主張した『古語拾遺(こごしゅうい)』には、斎部(忌部)氏の祖の天富命(あめのとみのみこと)が、阿波(あわ)の斎部の一部を率いて東国へと大移動を行い、麻を栽培して成功した肥沃な地が「総の国」で、斎部の居住地のは阿波の名をとって安郡(今の安房国)と名付けたとみえている。
 西国からの移住や開拓が黒潮にのって海岸部からはじまり、それゆえに半島南部の方が都に近い上総となり、北部が下総となった理由もわかる興味深い伝承である。 また「房」も「総」も、ともに花や実などが茎や枝にむらがりつき、たれさがるような状態を示す古語の「ふさ」にあてる字だから、房総三国とも麻や粟(安房の地名はもとはこれか)などの産物の豊かな地を示すか、あるいは豊作を祈っての国名ということになる。 その点では奇しくも千葉と同じ趣旨の命名であった。 地名にこめられた古人の願いが、その後、今日に至るまでの歴史でどこまで実現されたか、あるいはされなかったかの検討は、本書全体をつうじての重要な課題である。

<半島としての風土>

 昔むかし、小学校の地理の時間に、日本の略図を描くさいは、千葉県の犬吠埼(いぬぼうさい)を中心点にしてコンパスで半円を書き、そのうえに本州・四国・九州・北海道をのせるように、と教えられた覚えがある。 たしかにそのとおり、千葉市を中心にした半径1000キロ県内に南西諸島以外の日本列島は、ほとんどみなおさまってしまう。 まさに千葉県は日本の中心にあたり、東北日本と西南日本の接点に位置するという得がたい地理的特性をもっているのだ。
 また千葉県の大部分は東と南を外洋、西は内湾と三方を海に囲まれた房総半島に属している。 そこで県の地理的条件としてはつねに半島であることが重要視され、とくに袋小路的な閉鎖性が問題視されてきた。 近代になってから強まった陸上交通中心の見方からすれば、それも事実である。 しかしより長い歴史からみれば、外洋に面した半島はかえって海流による漂着などで外来文化が渡来してくる窓口となり、外にむかって開かれた場所でもあった。 千葉県においても水上・海上交通を利用して外来文物や人物を受容・発展させた事例にはとぼしくない。 若干の例をあげれば、古くはまず『古語拾遺』にみえる斎部の移住・開拓説話がそうであり、中世の幕開を告げた源頼朝(みなもとのよりとも)らの叛乱軍も西方から安房に上陸してきた。 戦国時代の南房総の覇者里見(さとみ)氏は滝沢馬琴(たきざわばきん)の大作『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』によって有名だが、その初代とされる義実もまた、伝説では頼朝と同じく海路を安房に上陸、たちまち見事な成功をおさめたのだという。
 近世には九十九里浜(くじゅうくりはま)の地曳網(じびきあみ)が盛況を呈したが、それらはもっぱら紀伊(きい)・和泉(いずみ)など関西の漁民の出漁によって県内に伝えられたもので、そのほかにも内湾の鯛桂網(たいかつらあみ)や勝山(かつやま)の捕鯨などはみな、紀伊から伝えられたという。 銚子(ちょうし)の醤油(しょうゆ)もまた摂津(せっつ)・紀伊など関西からの人と技術の導入によってはじまり、やがて大をなしたものであった。 太古以来、黒潮にのって西からさまざまの文物や人間がつぎつぎとこの半島に到来したことが、本県域にいかに多くをあたえたか、半島ゆえの閉鎖性ばかりで県域の歴史を語ることは完全に誤りといえよう。
 半島であるがゆえの地理的特色としては、それ以外にも海洋性・臨海性が強く、漁業・水産業が発達するとか、また気候温和なために保養地に適し、草花や果樹類の産地となることが多いといわれる。 房総半島にも、これらの特色はおおむねよくあてはまる。 とくに半島の沖合で暖流の黒潮が列島をはなれて東方洋上にむかっていく一方、北からは本州沿いに南下してきた寒流の親潮の尖端がこの海域に達するため、漁場として豊富な資源に恵まれていることも注目されよう。

<島としての房総>

以上、半島性をキーワードとして千葉県の特性をあげてきたが、少なくとも古代・中世において房総半島は半島というよりもむしろ四方を海や大河で取り囲まれた「島」であった。 というのは半島の東北方、今の利根(とね)川や霞ヶ浦(かすみがうら)・北浦、印旛沼・手賀沼など多くの湖沼の分布する一帯が、中世に至るまでは一続きの広大な入海で、「香取(かとり)の海」とよばれていた事実が、近年注目を集めているからである。 事実、奈良時代につくられた隣国の『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』では、外海を「大海」というのに対して、これらの水域を「流海(ながれうみ)」と表記していた。 こうした状況は中世をつうじて基本的に変らず近世初め、江戸幕府による利根川のこの水域への瀬替え事業によって、河川の堆積機能が大きくなったこともあり、徐々に埋め立てられて陸化が進んだのであった。 (中 略)   南北朝時代の十四世紀後半、香取の海の周囲に分布していた多数の津(港)のうち七〇ヵ所以上は香取社が支配していた。 それらの津の推定復元図(省略)は同時に当時の香取の海の姿をよく描きだしている。
 半島つけ根の東北方は香取の海、西北方は利根川・太日(ふとひ)川の水流によって区切られた島ともいうべき房総地方は、かえってそれによって水上交通上大きな役割をはたした。 中世末まで、香取の海から常陸川をさかのぼって関宿(せきやど)に至り、ここで利根川・太日(ふとひ)川の水流にはいって内湾にくだるか、あるいはのそ逆コースの水上が全通していたかどうか、現在の学会では議論がある。 関宿で両水系がのりいれ、まじわっていたわけでなく、この間は陸上交通が利用されていたとの有力な異論もあるところだ。 しかし、いずれにせよ、現在、千葉県最北端の関宿の地が、中世関東地方における重要な交通の要衝だった事実には変わりがない。 それは島としての房総半島が外洋からの文物を受けいれるだけでなく、広く関東地方の中心部、内陸の物流の要(かなめ)としての機能をはたしていたことの表現でもあった。



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