< 治水・利水の歴史 >
○ 印旛沼に関する年表 ( 出典 : 「 平成13・14年版印旛沼白書 」 (財)印旛沼環境基金発行 )
| 縄文時代 (約1万2千年前) |
現在の霞ヶ浦,手賀沼などとともに、利根川下流域一帯の低地は、古鬼怒湾という内湾であった。当時の貝塚の分布によって、古鬼怒湾の位置を知ることができる。その後、次第に海退と上流からの土砂流入によって、海水は淡水化し、陸地化し、印旛沼が独立していった。 |
| 奈良時代(700年代) | 万葉集に“香取の海”とあるのは、印旛沼を含むこの一帯の水域であり、印旛沼はその入り江であり、まだ完全には独立していないと思われる。 |
| 平安時代 (800〜1180年頃) |
平安時代末期に暗躍した金売り吉次の墓が、利根川と印旛沼の間にあったと伝えられ、すでに陸地化していることから、この頃の印旛沼は、香取の海から独立した一つの湖沼であったと思われる。 |
| 天慶年間(940年頃) | 平将門が、舟運と新田造成を兼ねて印旛沼開発に着手したという説があるが、定かでない。 |
| 戦国時代(1500年代) | 師戸城(印旛村)の城下集落が城東下の字根古屋の低地に造成される。江戸時代になって、洪水被害が度重なり、台地上の師戸に移転する。この頃から印旛沼の洪水は頻発するようになったのだろう。 |
| 文禄3年(1594) | この頃、江戸湾に注いでいた利根川中流域で、会の川の呑み口を塞いで、利根川本流を東に流す、いわゆる利根川東遷の初期工事が始まる。 |
| 元和7年(1621) | 利根川本流を鬼怒川支流の常陸川(広川ともいう)と結ぶ土木工事(赤堀川掘削工事)が始まる。 |
| 承応2年(1653) | "佐倉惣五郎の事件起こる。" |
| 承応3年(1654) | 赤堀川掘削工事が完成し、利根川の水が印旛沼の方へ流れて銚子に落ちるようになる。 |
| 寛文3年(1663) | 布川、布佐間で利根川を締め切り、新利根川を掘削して利根川の水を霞ヶ浦に流し、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などの新田開発の工事が始まる。この頃、埜原新田(現本埜村)が開発される。 |
| 寛文7年(1667) | 前年7月に、利根川下流一帯に大洪水が起こる。その原因が新利根川にあるとして、新利根川を廃川として元に復す。 |
| 延宝4年(1679) | 印旛沼を利根川の遊水地にするため、将監川を開削する。 |
| 元禄8年(1695) | 鉄牛和尚が元禄幕府老中に印旛沼干拓を献策、これを受けて佐倉藩主稲葉正住が、鹿島川河口部の改造工事を行うも、転封によって中止。 |
| 宝永元年(1704) | 6月半ばより関東、東海地方に霖雨、利根川堤防決壊。(※本所・行徳・深川等で浸水) |
| 享保9年(1724) | 平戸村(現八千代市)の農民染谷源右衛門が中心とになって、印旛沼の水を江戸湾に落とし、新田開発の計画をたてる。幕府の許可を得て掘削工事を始めたが、資金難のため挫折する。 |
| 享保13年(1728) | 江戸を中心に開府以来の洪水。(※両国橋破壊) |
| 寛保2年(1740) | 8月末、日本水害史上最大級の大洪水。(※江戸市中冠水、関宿城大破) |
| 宝暦7年(1757) | 長雨のため、各地で出水。(※古河・関宿大水) |
| 天明2年(1782) | 印旛沼の新田開発と水害防止のため、惣深新田の名主平左衛門、島田村の名主次郎兵衛が請負人になり、幕府の主導のもとに享保の印旛沼開削工事を再開する。 |
| 天明3年(1783) | 浅間山が大爆発し、火山灰で利根川の川底が上がり、水害が頻発する。掘削工事も被害があり工事は一時中断したが、再開する。 |
| 天明6年(1786) | 江戸開府以来の大洪水によって諸施設は破壊され、加えて最高責任者の田村意次が罷免され、掘削工事は中止となる。(※江戸市中浸水、両国橋大破) |
| 文化9年(1812) | 江戸後期で有数の出水。 |
| 天保14年(1843) | 「利根川分水路印旛沼古堀筋普請」として、幕府は印旛沼掘削工事を再開する。その目的は新田開発ではなく水害防止と海運であり、沼津藩、庄内藩、鳥取藩、貝淵藩、秋月藩のお手伝い普請として強行したが、失敗した。 |
| 安政2年(1855) | 利根川図誌が刊行さる。 |
| 明治3年(1870) | 豪雨のため堤防相次ぎ決壊。 |
| 明治23年(1890) | 明治前期最大の洪水。 |
| 明治27年(1894) | 台風により洪水。 |
| 明治29年(1896) | 6〜9月に再度出水。印旛沼の水位は平常より3,3m高くなる。 |
| 明治31年(1898) | 6〜9月に再三出水。千葉県知事が国庫半額の県営事業として、疎水路掘削を計画したが着工せず。 |
| 明治39年(1900) | 利根川治水対策として浚渫工事が始まり、低水工事から高水工事へと大きく転換する。 |
| 明治40年(1907) | 明治期有数の出水。 |
| 明治43年(1910) | 台風直撃により未曾有の大洪水。 |
| 大正8年(1919) | 半民半官の中央開墾株式会社を設立、印旛沼北部1000haの開墾埋立工事に着手、大正10年、100haを完成して中止。 |
| 大正10年(1921) | 農商務省、工期10年の印旛沼手賀沼土地利用計画を樹立したが着工せず。 |
| 大正11年(1922) | 利根川と印旛沼を結ぶ長門川の入り口に印旛水門が完成した。利根川からの逆流を防ぎ、外水は防げるようになったが、内水による洪水は防げない。 |
| 大正15年(1926) | 埜原村(現本埜村)に近代農業を目指して、65haといわれる吉植農場の開墾が始まる。 |
| 昭和2年(1927) | 農林省、印旛沼手賀沼大規模開墾計画を樹立したが着工せず。 |
| 昭和10年(1935) | 吉植農場の入植が始まり、水田耕作を始めたが、水害、第2次世界大戦などで苦労を重ねる。 |
| 昭和13年(1938) | 集中豪雨で、内水水害、利根川水位YP6,80m、印旛沼水位5,02mに達する。 |
| 昭和14年(1939) | 利根川下流地帯の洪水に対処するため、湖北村(現我孫子市)から船橋市まで、利根川放水路開削工事が計画される。同時に印旛沼、手賀沼の干拓、東京湾埋め立てを行うとして起工したが、同18年、戦争のため中止となる。 |
| 昭和16年(1941) | 7月梅雨前線による強雨が継続し、県下総雨量400〜690mmに達し、手賀沼、印旛沼、佐原、小見川一帯が大洪水、利根川水位9,02m、印旛沼水位5,45mに達する。 |
| 昭和20年(1945) | 八千代市保品と印旛村吉田の間に、印旛沼に架けられた最初の木橋が完成する。(この地に駐屯していた旧日本軍捷・範部隊が解散直後に、地元へのお礼として建設したという。一時、地元では捷範橋と呼ばれる。) |
| 昭和21年(1946) | 農林省直轄事業として、国営印旛沼手賀沼干拓事業が決定。鹿島・平戸干拓工事着工。この事業は、当初計画、第1期計画、第1次,第2次改定計画と変更して、昭和38年の印旛沼開発事業へと引き継がれる。 |
| 昭和22年(1947) | この頃、印旛沼から”モク採り”が姿を消す。 |
| 昭和25年(1950) | 同上事業の第1次事業計画作成。 |
| 昭和27年(1952) | 平戸干拓工事完成。 |
| 昭和28年(1953) | 事業早期完成のため、計画を全面的に改訂。 |
| 昭和29年(1954) | 土地改良法の改正に伴って、手賀沼を分離した基本方針が決まる。 |
| 昭和31年(1956) | 印旛沼干拓土地改良事業計画を決定。鹿島干拓工事完成。 |
| 昭和32年(1957) | 印旛排水機場工事着工。 |
| 昭和33年(1958) | 佐倉市萩山、印旛村山田間に印旛大橋が架かる。現在は廃止されて陸路となる。沼の干拓が進む。 |
| 昭和34年(1959) | 利根川中下流で出水。 |
| 昭和35年(1960) | 印旛排水機場完成。これを機に内水排除が可能になり、印旛沼の洪水がなくなる。 |
| 昭和37年(1962) | 計画基準雨量の変更、大和田に排水機場を設け排水能力の向上、工業用水の参加などの事由により再度同事業計画を改訂。 |
| 昭和38年(1963) | 農水省直轄事業から水資源開発公団に継承され、印旛沼開発事業と改名。大和田排水機場着工。舟戸大橋竣工。川鉄工業用水取水開始。 |
| 昭和39年(1964) | 西部調整池の堤防盛土工事着工。 |
| 昭和40年(1965) | 捷水路掘削工事着工。酒直水門及び酒直機場工事着工。北部調整池の堤防盛土工事着工。 |
| 昭和41年(1966) | 大和田機場完成。酒直水門及び酒直機場完成。 |
| 昭和42年(1967) | 捷水路掘削工事竣功。中央干拓干陸開始。鹿島橋脇の県営工業用水取水施設取水開始。印旛沼流域下水道事業着工。 |
| 昭和43年(1968) | 北部調整池堤防竣功。西部調整池堤防竣功。疎水路(新川、花見川)掘削工事竣功。水資源開発公団印旛沼管理所開設。県営水道取水開始。 |
| 昭和44年(1969) | 3月に印旛沼開発事業竣功式。 |
| 昭和46年(1971) | 台風25号による豪雨。 |
| 昭和47年(1972) | 台風20号による豪雨。 |
| 昭和56年(1981) | 台風15号による豪雨。4月1日。水資源開発公団印旛沼管理所を千葉用水総合管理所へ改組。 |
| 昭和57年(1982) | 台風18号による豪雨。 |
| 昭和59年(1984) | 財団法人 印旛沼環境基金 発足。 |
| 昭和60年(1985) | 大和田排水機場を利用して、印旛沼の水の流動化を試験的に実施(流動化運転)開始。 印旛沼シンポジューム開催。初めて公開の場で印旛沼の環境に関する方向性が議論された。 湖沼水質保全特別措置法に基づく指定湖沼の指定を受ける。 |
| 昭和61年(1986) | 台風10号とその後の低気圧により豪雨。鹿島川、印旛沼の水位、YP4,46m,3,83mまで増水。 |
| 昭和61年(1986) | オニビシが印旛沼水面の474万m2を覆うほど、異常発生し、大規模な刈り取り作業を開始する。 |
| 昭和62年(1987) | 第1期湖沼水質保全計画を策定。 |
| 平成2年(1990) | 印旛沼の鹿島川流入口付近で、ブラジル原産ヒユ科の湿性植物ナガエツルノゲイトウが初めて発見された。 |
| 平成3年(1991) | 台風18号による豪雨、10月の台風21号、秋雨前線により増水。印旛機場12日間、大和田機場9日間の連続排水運転で、やっと正常水位となる。 |
| 平成4年(1992) | 第2期湖沼水質保全計画を策定。 |
| 平成5年(1993) | 北沼のオニビシは殆ど消滅し、西沼も一部に残る程度に激減した。 |
| 平成6年(1994) | オニビシの刈り取り作業は、本年をもって中止とした。 印旛沼憲章が制定された。 |
| 平成8年(1996) | 9月台風17号により、水位管理開始以来最高水位のYP3,97mを記録。 |
| 平成9年(1997) | 第3期湖沼水質保全計画を策定。 |
| 平成11年(1999) | 排水運転中、印旛機場の全面停止の事故発生。 |
| 平成12年(2000) | かねてから計画されていた国直轄の利根川印旛沼総合開発事業が、中止となる。 |
| 平成13年(2001) | 千葉県は、印旛沼流域水循環健全化会議を発足させ、印旛沼の抜本的な改善策の指針作成に乗り出す。 水資源開発公団千葉総合管理所が千葉用水総合事業所に名称を改める。 |
| 平成14年(2002) | 第4期「印旛沼に係る湖沼水質保全計画」(平成13年度〜17年度を期間とする)を策定。 「よみがえれ印旛沼県民大会」が千葉県・印旛沼水質保全協議会の主催で開催。 |
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