○ 利根治水協会と阿部知事の印旛沼開削計画
( 出典 : 「千葉県の歴史 通史 近現代1」(財)千葉県史料研究財団 編集 平成十四年三月二十五日 千葉県 発行 成田市立図書館蔵 )
利根治水協会の設立
治水を目的とする団体は、明治初期から各地方で設立され、全国的な規模をもつものとしては、一八九〇(明治二十三)年に設立された治水協会に代表される。 いっぽう、地方的なものとしては、東に利根(とね)川、西に荒(あら)川をもつ古利根(ふるとね)沿岸の低湿地にあって、特に利根川の栗橋地先の破堤などによって水害を多く受けてきた埼玉県杉戸(すぎと)町で、翌九一年に葛飾(かつしか)治水会が設けられていた。 この治水協会や葛飾治水会の設立とその活動のあり方について、早くからその情報を得ていたのは印旛(いんば)郡布鎌(ふかま)村(栄(さかえ)町)の高瀬泰次郎と、北海道踏査から帰ってきた埜原(やはら)村(本埜(もとの)村)の吉植(よしうえ)庄一郎であった。 高瀬・吉植の二人は印旛沼水害を防ぐための陳情はもちろん、調査研究のための組織づくりを思いたち、地元有志の間にその氣運をつくりだしていった。
その結果、一八九二年十月に、印旛沼沿岸町村の有志が木下(きおろし)町(印西(いんざい)市)に会合して第一回発起人会を開催し、北総(ほくそう)治水協会と名づけて会則を定め、印旛沼疏水(そすい)工事請願・堤防費国庫支出・枝利根(えだとね)川締切などの請願を決議した。 北総治水協会の幹事長に就任したのは二三歳の高瀬であり、かれは九七年に布鎌村長に就任する。事務所もこの高瀬宅に置かれた。 こうして、当初は北総治水協会として発足したが、翌月に開かれた第二回会合で、吉植庄一郎から本会の目的は治水の良法を研究し、これを表明して世論を喚起することにあるのだから、区域を北総の一角に限るべきではないという意見が出され、利根川水系全般をふくむ「利根治水協会」へと改称した。
吉植の提唱で、利根治水協会は利根川水系全般を対象とするものにまで拡大し、さらに、全国的な規模への発展を目標とするにいたった。 一八九三年十月、佐倉(さくら)町(佐倉市)で開かれた第四回常議員会で、新たに期成同盟団を設けることが高瀬から提案され、可決した。 利根治水協会が政社・政党にはいっさい関係せず、ただ治水の研究を目的にするものであったので、請願など政治世界と関係する際の事業体として期成同盟団が結成されたのである。 そして、その活動をつうじて全国諸河川に治水団の設置をうながし、全国同盟治水会の完全な組織化をはかろうとした。 すでに九二年十一月に、衆議院・貴族院の両院議員によって全国的な治水会が結成されていたが、そうした政治家の団体ではなく、農民の自主的な組織を意図したのが高瀬ら利根治水協会のあり方であった。
印旛沼開削への対応
第一回発起人会で、堤防費国庫支出・枝利根(えだとね)川締切の請願などが議決されていたが、一八九三(明治二十六)年二月、利根治水協会の発起人会ではこれらの請願をとりやめ、印旛(いんば)沼疏水(そすい)開削の請願一本にしぼって、以後の活動を行っていくことが議決された。
ここに、利根治水協会の活動内容に関して意思統一がはかられていくことになるが、その理由は印旛沼水害の構造そのものにあった。 つまり、利根川が年々土砂を河底に堆積して、流れを妨げて逆流し、印旛沼沿岸に設置された圦樋(いりひ)も役だたなくなった。 そのため、利根治水協会にとって堤防の増築あるいは枝利根川締切工事は一時の「姑息(こそく)的療法」であったので、水害を根治するには印旛沼を内海に開通して利根川の分水をはかる以外にないとされた。 ここでの開削は治水を第一義的なものとしており、利根治水協会の言葉を借りれば「開墾主義」から「治水主義」への転換がはかられていた。
利根治水協会の印旛沼開削への動きは、利根治水協会の幹事で本郷(ほんごう)村(本埜村)出身の県会議員海老原(えびはら)善一郎の建議書の提出から始まった。 一八九三年十二月に海老原は、印旛沼開削は単に利根川沿岸の水害をのぞくだけでなく、印旛沼・手賀沼沿岸はもちろん霞ヶ浦(かすみがうら)・北浦(きたうら)・浪逆浦(なさかうら)の沿岸におよんでいて一地方の事業ではなく、国家事業として国庫の支出をあおぐのは正当のことと考える。という内容の建議案を千葉県会へ提出した。 この建議案は県会で議決され、内務大臣井上馨(いのうえかおる)に提出された。 その一方で、県会の建議案と歩調を合わせるかのように、利根治水協会を中心に印旛沼開削請願書が作成された。 これは岩井勝太郎・高瀬泰次郎を総代として、千葉・茨城両県下の二四郡八九か町村、二八七二人の署名をもって作成され、同年十二月に内務大臣と衆議院・貴族院へそれぞれ提出された。 しかし、この時の衆議院は第二次伊藤内閣による条約改正問題と、自由党の幹部で衆議院議長であった星亨(ほしとおる)への糾弾(きゅうだん)で大揺れの時期で一〇日間の停会となり、三十日には解散となった。 また翌九四年には日清(にっしん)戦争が始まり、そうしたなかで提出された印旛沼開削請願は挫折せざるをえなかった。
この利根治水協会の印旛沼開削請願について、内務省土木局も否定的な見解を示していた。 一八九四年五月に、高瀬泰次郎が土木局長と面談した際の内務省側の見解は、「まだ利根川全域の治水上の調査は終わっておらず、ただちに印旛沼疏水工事をすることはできない。利根川の水害は全国的には、それほど大したことはなく、明治初年以来の低水工事で水害はむしろ減少している」というものであった。 九六年一月の第一区土木監督署長の見解はさらに手きびしく、「地方人民は水害水害というが、水害は往昔とは異なる。近年の水害による惨劇は地方人民各自がみだりに堤防を築き、墾田をおこしたことによるもので、言わばみずから招いたことである」というものであった。 こうして、利根治水協会の印旛沼開削への請願は失敗に終わり、一九〇〇年代以降も断続的な活動はしているものの、実質的にはほとんど活動停止状態となっていった。
阿部知事の開削計画と県会
利根治水協会の請願が失敗に終わったあと、千葉県によって新しい計画が生まれた。 一八九八(明治三十一)年八月、阿部浩(あべひろし)がふたたび千葉県知事として就任し、同年十二月に県営事業としての印旛沼開削をうちだしたのである。 阿部知事は、印旛沼開削についてひとつの思いがあった。 それは、九六年八月にはじめて県知事に就任した際、利根川(とねがわ)水系の大水害に直面したことであり、そのことが念頭をはなれず、九八年の県会でも、その水害被害が自分の在職中であったことを改めて述べたほどである。
ところで、印旛沼開削は千葉県会ですでに何度か建議されてきた懸案であって、阿部知事が就任する直前の一八九八年十二月(?)にも、本新島(もとしんしま)村上須田(かみすだ)(茨城県東(あずま)村)の高城(たかぎ)啓次郎が提案していた。 阿部知事はこれを、一挙五得とも申すべき愉快なる大事業と称して積極的に取りかかり、九九年度の予算に、河川法施行のための調査とあわせて印旛沼開削工事調査費二万六〇〇〇円を計上した。 これに対して、九八年十二月の千葉県会で、鈴木久次郎(きゅうじろう)・鵜沢宇八(うざわうはち)・杉谷弥之吉(すぎやつやのきち)などから工事竣功の可能性を問いただされ、県側は測量・調査後に決めると答弁した。
しかし、向後(こうご)四郎左衛門から金融逼迫(ひっぱく)・民費多端の折、到底手に負えぬ事業に着手することは非常に無謀だとして、印旛沼開削調査費の全額削除案が提出された。 この全額削除案には白井貴右衛門が賛成にまわり、このような営利的な仕事は私立会社でも国庫支出でもよく、県の負担とする必要はないという意見が述べられた。 これに対して、池田愛三郎・高城啓次郎・杉谷弥之吉が印旛沼開削原案に賛成であることを述べ、向後の全額削除案は賛成五名で否決された。 さらに、白井喜右衛門から調査費削減案が再提出され、鈴木久次郎・鵜沢宇八らがこれを支持したが、少数で否決された。
翌一九〇〇年度予算でも、印旛沼開削利根川除水害調査費一万四九一七円が項目として立てられた。 これに対して、一八九九年十二月の県会で、志賀(しが)吾郷から調査費全額削減が主張された。 志賀の批判に対しては、まず、阿部計画の実質的な主導者であった小野政精技師が弁明し、続いて鳥海金堤(とりうみきんてい)・磯谷武一郎が原案賛成の弁をふるい、その後に足立宗俊が熟考のために審議の延長を主張したが、賛成多数で原案が可決された。 反対派は収まりがつかず、仲田徹が、印旛沼開削調査は成算が十分ではなく無責任である、と調査費全額削除を主張した。 また、これに賛成のかたちで向後四郎左衛門は、もし工事を行ったならば漁業で生計を立てている沿岸人民はただちに生活の道を失うだろう、と警告した。 ところが、議長の東条良平が反対意見にひとつひとつ反論し、続いて中村兼吉から、調査期間を一〇か月に短縮して二か月分を減額する修正案が提出されたところで、これを多数で可決した。
しかし、印旛沼開削調査費問題はこれで終わりとならず、一九〇一年度予算に前年度の追加として調査費一六九四円の項目が立てられたために、引きつづき審査の焦点となった。 一九〇〇年十二月の県会で、白井喜右衛門・高城啓次郎・志賀吾郷がこの調査費を問題にし、志賀吾郷が調査費全額削減を主張した。 また、向後四郎左衛門・仲田徹・鳥海金堤が、確かな見込みのないままに三か年間、継続費でもないものを継続のように議場にはかって県税を浪費するのは無責任かつ怠惰である、と非難した。 これに対して小野技師が、出水による障害、鉄道工事や利根川改修工事で労賃が上昇し、前年度議決した一〇か月で完了することが困難となり、残り二か月分を要求したのだと答弁した。 この間、斎藤万衛文(まんえもん)から、調査費をそのままにして土木費中の他の項目を減額し、土木費全体を減額修正する案が提出され、志賀吾郷の全額削除案を否決後、この修正案を可決した。
阿部計画の概要と挫折
こうして、印旛沼開削調査について県会の協賛をえることに成功した阿部(あべ)知事は、印旛沼開疏(かいそ)設計調査部を設け、小野政精技師を技師長に任じ、工科大学(東京大学工学部)学長や内務省土木局長を歴任した古市公威(きみたけ)を顧問に嘱託した。 実測調査および設計調査は一八九九(明治三十二)年四月から着手されており、二年後の一九〇一年三月に実測調査を完了し、同年九月には設計その他の調査を完成させた。
古市の作成した調査報告書は、「印旛沼開疏意見書」として一九〇一年十月、小野技師長から阿部知事へ提出された。 古市の意見書によると、この計画は、二段階に分けられていた。 第一段階は、利根(とね)川と印旛沼との連絡の遮断を前提としつつ、一応開放したままの状態で印旛沼と東京湾との間に印旛沼流域の水を疎通(そつう)できる水路を開き、第二段階では一九〇〇年から始められていた利根川高水工事の竣功(しゅんこう)を待って長門川の閉鎖を断行し、水運の連絡は閘門(こうもん)によって行うというものであった。
阿部はただちに衆議院・貴族院の両院議員および県会議員、利根治水協会で活躍した高瀬泰次郎らを県会議事堂に招集して、この意見書についての詳細な報告を行った。 また、それと同時にこの意見書をもとに総工費予算三四〇万円、そのうちの半額を国庫支出、残りを県費支出とし、一九〇三〜〇八年度の六か年継続事業として起工する計画を立案した。 計画書は〇一年十二月に県会で可決され、翌〇二年一月、阿部知事は意見書をたずさえて上京し、内務大臣内海忠勝(うつみただかつ)に国庫補助を申請した。 その結果、内務大臣からは好感触を得たが、さらに計画案を帝国議会に提出し、議会の協賛を求めることとなった。 しかし、阿部知事は〇三年二月に新潟県知事へ転出することになり、翌〇四年二月の日露(にちろ)戦争開戦でこの計画は延期され、自然消滅していった。
その後の印旛沼開削については、一九一〇年八月の利根川水系での大水害を契機として、翌年に印旛沼・手賀(てが)沼沿岸農民が設置した至誠会の活動があげられる。 至誠会の会員は四〇〇〇人に達しており、一一年十二月、印旛・手賀両沼開削の願書が千葉県知事告森(つげもり)良あてに提出された。 その際、願書に不備な点があり、それを修正して、翌点一月に再提出したが五月に却下された。 至誠会の活動はこの却下で中止されることとなるが、手賀沼については水利組合を組織し、ポンプ排水による干拓と耕地整理の計画が千葉県によって進められていた。 しかし、印旛沼については内務省による安食(あじき)口の印旛水門の着工も未決定であり、具体化されなかった。 利根川の洪水の印旛沼への逆流を防止する印旛水門の完成は、ようやく一九二二(大正十一)年になってからのことであった。