○ 江戸時代の印旛沼 ― 抜  粋 ―
( 出典:<企画展図録>「印旛沼の自然とくらし」 平成8年10月4日 八千代市歴史民族資料館発行 )

1.印旛沼の地理的条件

 約1,000年前の東関東水系図(吉田東伍博士による)を見てみると、東関東の地形は現在の銚子方面から香取、牛久沼、手賀沼、印旛沼と海が深く入り込んで「香取の海」といわれる入江を形成していました。 そのため、印旛沼は中世まで「印旛浦」と呼ばれていました。
 当時、利根川は江戸湾に流れ込んでおり、現在の荒川区南千住から台東区橋場にかけてが利根川の河口でした。 このことは亀戸天神近くにある香取神宮の縁起に、「香取神社は利根川河口の亀の島にあった」と、記されていることからも裏付けられます。
 徳川家康が秀吉により江戸へ転封されたころは、江戸の多くが低湿地帯で、大河川のある利根川や荒川の本流が流れていました。 低湿地が多いので、利根川や荒川によって洪水の被害を受けやすい江戸の町を守るために、利根川の瀬替えを家康は行いました。 いわゆる「利根川東遷」の始まりで、文禄3年(1594)のことでした。 以後60年間にわたって工事が行われたのですが、利根川の瀬替えは江戸の水運を最重視したために行われた事業であり、治水事業ではなかったという説もあるようです。
 瀬替えの理由はどうあれ、利根川の運ぶ膨大な量の土砂により、常陸川や小貝川、鬼怒川などによる沖積化(土砂が堆積すること)がより一層進行し、流域の地形は大きく変化したのでした。 利根川などの川が運ぶ土砂によって香取一帯は低湿地となり、やがて新田が開発されました。 また、印旛浦・手賀浦は「香取の海」の内湾から内陸の湖沼へと変貌していったのです。
 当時の印旛沼は、W型をしていて、まるで龍が口を開けて何かを飲み込もうとしているような姿をしていました。 江戸末期に赤松宗旦によって刊行された利根川図志には、「鯉、鮒、鰻、鯰、鯔、‥‥‥、蟹、海老、‥‥‥、蜆、田貝(真珠あり)‥‥‥」と多くの魚介類が採れると、「土産」の項に記載されています。 また、水鳥、雁、鴨、ヒス、ナガ、鵜、鴫や多くの種類の鳥がたくさんいたとも記載してあり、幕末ごろの印旛沼はなかなか豊かな生物相を成していたことがうかがえます。 特に印旛沼の湧水点である佐久知穴では、「イナ(ボラの小さいもの)」が投網で一度に百二、三十匹もとれるということが記されてあり、おおくの魚が棲息していたことが分かります。
 また、印旛沼は長門川により利根川と結ばれていて、印旛沼や手賀沼は利根川の遊水地的な性格を持っていたので、利根川の水量が増えれば水が逆流して、沼周辺は逆流湛水洪水をよく引き起こすようになっていきました。

2.印旛沼の漁業

(1)江戸時代の水産資源としての印旛沼
 印旛沼沿岸に住む人々は、古くから印旛沼に生息する動植物に関わって生活してきましたが、正式な取扱いを受けるような記録は、明和5年(1768)の「印旛沼藻草取海老魚鳥猟願書」です。 これは、埜原新田14か村(元本埜村)が、水害などにより耕地の減少したことを訴え、生産の向上を図るために、印旛沼の藻草やエビを捕って肥料にしたい、と幕府に印旛沼での猟の許可を願ったものです。 その後、北須賀村(現成田市)、吉高村(現印旛村)が、これに対して不服を申し立て、幕府では、役人を派遣し調査して関係する村々の役人を呼びました。 そして、各村の猟区を定め、その権利として藻草・海老猟運上と魚鳥猟運上を5か年、毎年2月を期限として代官に納めることに署名し、明和8年に解決しました。
 この取り決めによって、八千代市域では保品、神野、平戸、佐山の4か村が藻草・海老猟運上や魚鳥猟運上を納め、印旛沼の藻草やエビを採ることが許可されるようになりました。

(2)明治時代の印旛沼での漁業
 周囲64kmのW字形をした印旛沼には、十余の町村が隣接しています。 これらの村では、専業か兼業かの区別ははっきりしませんが、印旛沼での漁業が生活を支える収入源となっていました。 表は「水産事項特別調査」によって、明治24年の印旛沼周辺の町村の漁業戸数を示したものです。
 この表から、沼の北岸の町村と南岸の町村を比較すると、北側に面した町村の方が漁業戸数が多いことがわかります。 また、町村別に見ると、特に六合村(現印旛村)と宗像村(現印旛村)で、漁業戸数が多いことがわかります。
 この2村での漁業戸数が多いのはどうしてでしょうか。 このことを畑地面積から見て見ましょう。
 この2村の地区の漁業戸数内訳を明治27年の「水産事項特別調査」で見ると、六合村の中でも漁業戸数の割合が高いのは平賀、瀬戸で、総戸数の50パーセント以上が漁業にたずさわっています。 このことを明治21年1戸当たりの田地面積と比較すると、1戸当たりの平均田地面積が少ない地区が平賀(0.39町)瀬戸(0.54町)で村内でも少なくなっています。 つまり、1戸あたりの田地面積が狭く農業による収入が少ない地区では、印旛沼での漁業によって収入を補っていたと考えられます。

  印旛沼周辺町村の漁業戸数

 町 村 名   沼 と の 隣 接 距 離   漁 業 戸 数 

安 食 町

埜   原

六   合

宗   像

鮒   穂

 1里 4町 (約4.4km)

     26町 (約2.8km)

 2里  7町 (約8.6km)

 1里  8町 (約4.8km)

     16町 (約1.7km)

       37 戸

       41 戸

      285 戸

      144 戸

       50 戸

八      生

公      津

酒  々 井

内      郷

臼  井  町

志      津

阿      蘇

      2町 (約0.2km)

 1里 32町 (約7.4km)

     28町 (約3.1km)

 1里 33町 (約7.5km)

     33町 (約3.6km)

     28町 (約3.1km)

     30町 (約3.1km)

       10 戸

      134 戸

        6 戸

       39 戸

       83 戸

       11 戸

       28 戸

 
 漁獲物の種類としては、コイとウナギが代表的な物で他にフナ、ドジョウ、ナマズ、エビなどがあげられます。
 次に、漁法について見てみたいと思います。安政5年(1858)に発行された「利根川図志」によると、そのころ印旛沼にはコイ、フナ、ウナギ、ドジョウ、ナマズ、エビ、ハラアカ、セイマルタ、マス、カニ、シジミ、ゲバナなどが生息していたとあります。 そしてフナについて次のように述べています。

 吉高鮒、名物なり。 金色にして骨堅し、肉しまりて味美なり(なますにして最もよろし)。 この鮒をとるに、一種の漁法あり(冬の漁なり)まず一人小船に乗り、水浅きところを棹さしながら、舷を踏みて舟を左右に蕩揺かす。 この波音におどろきて鮒は藻の根に隠る。 その水の濁るを見て、手に是を握みとる。 故に手取り鮒ともいう。 万葉集のモブシツカブナ是なり。

 こうしたフナやナギの掴み取り漁は原始的なものですが、その後、効率を高めるいろいろな漁法が考えられました。 その代表的なものに「簀立て漁(ぐれ)」「網漁」があり、そのほか「釣り漁」などがありました。
 「簀立て漁」は漁業権をもった組合員だけが許される一種の定置網漁で、竹簀を繋いで沼中に立て、奥に逃げ込んだところを網ですくい取る方法です。 「網漁」には、一定期間張って置く「グレアミ」「ハリアミ」「タテアミ」があり、そのほかに「刺し網」「引き網」などがありました。
 こうして捕獲された魚は当時の人々の重要なタンパク質源で自家利用されたり、自分で天秤棒で担ぎ、近くに売りに歩いたりまた仲買人に売り渡したりして収入を得ていました。 「引き網」による「ヌカエビ漁」は12月から3月にかけて行われましたが、獲れたエビは1日天日で乾燥させ、栃木や群馬方面まで売りに行きました。 「米一升、エビ一升」といわれるほど高価なものであったと言われます。
 漁業を営む人々にとって舟中の安穏と豊漁を願う風習は、各村に金毘羅信仰や水神講となって広まり、その顕著なものとして、印旛村泉王寺に印旛沼漁民が奉納した絵馬が挙げられます。

3.河川交通の発達と印旛沼の水運
 江戸時代になって、経済交流の広がりと城米や年貢米などの幕府への輸送の必要から交通が発達しました。 とりわけ、東関東では利根川の改修工事によって利根川をはじめとして、それに付随する大小河川の交通の発達は著しいものとなりました。
 各河岸から積み出される物資は、その地理的環境によって異なり、銚子は鮮魚や醤油、佐原や小見川では酒、野田は醤油、流山はみりん、木下では米と木材、薪、炭、佐倉では炭となっていました。 これらは主に「高瀬舟」「房丁舟」と呼ばれる舟で運ばれました。 高瀬舟とは、浅瀬で使う舟で、河川が渇水期になっても運行できるように舟の大きさに対して舟底が浅くなっているのが特徴で、語源を浅瀬に求める説があります。 この高瀬舟は航路によって大きさは異なりますが、利根川では5・6百俵積み船頭4人乗りと、8・9百俵積み船頭6人乗りのものとに分けられ、トン数に直すと30から50トン程度になります。 印旛沼では、これよりやや小型で3百俵積みであったと言われています。 この舟で銚子から江戸まで鮮魚を運ぶ所要時間は、遅くとも3日目の午前3時まで魚市場に届けるという契約を結んでおり、夕方銚子を出発し、明け方に布佐(現我孫子)を通過し、昼までに松戸に着き、夕方から夜にかけて日本橋に到着するのが通常となっていました。 しかし、冬の季節になると利根川は減水し、布佐から松戸まで高瀬舟でも通れず陸路を通り、松戸から江戸川を使うというコースもとられました。 このため布佐から松戸までの陸路を「生街道」と呼ばれました。
 印旛沼では、佐倉城下の鹿島橋近くから鹿島川を使い、印旛沼を通って利根川に出るコースが多く使われ『古今佐倉真砂子』には、「この川(鹿島川)利根川の末にて、江戸より川舟にて大廻りの舟この橋(鹿島橋)までつく」と記され、鹿島橋は「江戸口」とも呼ばれていました。 佐倉藩では、年貢米を江戸に送るのに、北須賀から印旛沼で利根川に出て関宿を通って蔵前まで廻送しました。
 江戸への穀物の輸送だけでなく、他の村への通行にも印旛沼の舟運は貴重な交通機関でした。舟を留めておく場所を「河岸」(カシ)と呼び、吉田河岸、岩戸河岸、キュゼム河岸、師戸河岸、鎌苅河岸、一本松河岸、瀬戸中河岸、大川岸・江川河岸、山田河岸、仲井河岸、浅間河岸、角崎河岸、堂下河岸、坂下河岸、ズーバ河岸、辺田河岸、寺下河岸、花島河岸、道珍前河岸、安能河岸、蕪和田河岸、新河岸、吉高中河岸、江戸河岸、舟戸河岸などがあり、これらは渡し舟の発着所や高瀬舟の荷の積み下ろし場として、あるいは漁業用の船着場として昭和40年頃まで活用されました。
 八千代市域には、茨城県や銚子から利根川を上り、印旛沼を通り、平戸まで芋を買いに来たほかけ舟が往来し、平戸の人々は「イモ舟」とか「イモツミ舟」と呼びました。 農家にとって芋を売ることは大変貴重な収入源で、この「イモ舟」は大正11年安食の水門の完成によって姿を消しました。 この他に小池、真木野、佐山の農家では、小さな舟に綿や芋を積んで佐倉まで売りに行きました。

4.印旛沼の洪水と開発工事
 「3、4年に1度ずつ8月頃、辰巳(東南)風強く吹きたるうえにて日光水くる。米をといだ白水のごとく白く濁りたる水。 この水この河辺やつ(谷)より佐那太橋の辺へ一面に大河になる。 この時は田町片町まで町屋へ水入り、根曲輪うまやの辺より小役人長屋辺一面水入る。 この辺も床上へ水つく故、家内仕廻し、舟ないので縁故の所へ退いて空家にする。

 これは『古今佐倉真佐子』に記された印旛沼洪水の様子です。
 利根川の改修工事の完成を契機に新田開発が進み水運が開け、印旛沼では淡水資源の恵みを得ることができるようになりました。 しかい、この工事によって利根川の増水が河川の逆流を招き、印旛沼の洪水につながるというリスクを背負うことになりました。 『利根川水害年表』による安永6年(1777)から昭和16年(1941)までの164年間に7回の大洪水が起き、その度に周辺地域に大きな被害をもたらしました。 これらの被害を防ぐため、何度かの工事が試みられましたが、失敗に終わり、その願いがかなったのは、昭和42年(1967)で、最初の工事から240年も経ってからのことでした。

(1)江戸時代の開削工事

   享保期の開鑿工事    別掲参照

   天明期の開鑿工事    別掲参照

   天保期の開鑿工事    別掲参照

(2)明治以降の工事

 明治初期の印旛沼水害調査によると、慶応3年から明治10年に至る11年間で、米の収穫があったのは、明治10年を含む2年のみでした。 特に明治維新後3年間はほとんど収穫はなく、明治元年は、田畑住居が数十日間浸水する惨事となりました。
 このような状況のなかで、明治政府の改修工事が明治8年からオランダの技師を招いて行われました。 明治20年代前後、印旛沼開削工事の計画に関して、その調査に当たったオランダ人のデレーケが報告し、その要旨は「少なくとも洪水時には、印旛沼と利根川を遮断すること。 水門を作らずに水害防止を図るには、至難の掘削と高大な堤防が必要で、経済上なし得ることができないだろう」というものでした。
 この報告に基づいて大正11年3月、長門川の入り口を締切るために水門が設けられました。 これによって利根川の逆流を防ぎ、平常水時には印旛沼から排水するとともに船舶の通行を確保できるようになりました。 竣工して間もない同年8月、大洪水があり水門の内と外の水位の差が4m以上にも達しましたが、印旛沼岸の被害は未然に防がれ、水門の意義が改めて認識されました。
 しかし、それから程経たない昭和13年、新たな原因による洪水が沿岸を襲いました。
 6月下旬、台風の接近によって梅雨前線が刺激され、27・28日に関東東南部に豪雨をもたらし、台風通過後も7月3日まで雨が降り続きました。 利根川の増水は中程度でしたが、印旛水門が閉ざされたままになりました。 そのため、流域の河川からの落水を集めた沼水は、はけ口を失って氾濫したのでした。 これによって田植え後間もない水田は、約1か月にわたって冠水し、収穫は皆無となりました。 それから、3年後の昭和16年、この年6月中旬から利根川増水のため水門は締切られていました。 そこへ、、台風が前線を刺激しながら北上し、房総半島南端から東京湾に入り関東地方を縦断しました。 印旛沼には流域河川からの落水が最悪の状況になりました。 度重なる洪水に地域住民の治水工事を望む運動が盛り上がりました。
 戦後、食糧増産が叫ばれる中、昭和21年11月、国営の「印旛沼手賀沼干拓事業」の起工式が挙行されました。 昭和42年、2日間で印旛沼の水をすべて排水する機能を持つ大和田排水機場が完成し、この工事は終了しました。 江戸時代からの印旛沼周辺でくらす人々の願いであった平穏な印旛沼が、ここに実現したのです。

※ 「(1)江戸時代の開削工事 」の項については、鏑木行廣氏の「印旛沼の開鑿工事」( 『八千代市の歴史』 昭和53年刊に所収 )および「江戸時代の印旛沼工事」( 『印旛沼 自然と文化』創刊号 平成6年 (財)印旛沼環境基金 刊 )からまとめさせていただいたものである。

主要参考文献     ( 略 )






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