○ 印旛沼落掘難工事現場の地理地質的特徴 ( 出典 : 白鳥孝治 「 印旛沼ー自然と文化ー第5号 」平成10年11月 (財)印旛沼環境基金 発行 )
江戸時代の印旛沼落掘工事は、享保、天明、天保の3期にわたって行われたが、極めて難工事であり、ついに完成しなかった。 中でも天保期工事の庄内藩と鳥取藩の分担した、横戸から花島の地先は難工事であったと言われている。 前者は高台と呼ばれる高い台地を深く掘り割るために、後者はケト土と呼ばれる軟弱な地盤に加えて地下水が多量に湧出するところを掘り割るためであると言う。 ここではこれらの難工事の原因について、地理・地質的な特徴から解き明かそうとするものである。
なお、「ケト」とはヨシ、マコモ等の水草の遺骸が繊維を残したまま地中に堆積したものの俗語であり、泥炭の類似語である。 北総の低湿な水田には至るところに泥炭層、黒泥層があり、いずれも縄文時代以降の堆積物である。
1.難工事現場の確認
幕府は各藩に工事現場を分担させる際に、番号を付けた123本の杭を掘割り筋に打ち、表に従って工事区間を指示している。 掘割り筋は、ほとんど現在の新川、花見川と同じであるとされているので、この杭の位置を現在の地図に当てはめることにした。
表 天保期掘割工事における各藩の担当区域
担当大名 |
居 城 |
担当区域 |
区域長 |
水野出羽守忠武 |
駿河国沼津 |
平戸〜横戸 |
4,400間 |
酒井左衛門尉忠発 |
出羽国鶴岡 |
横戸〜柏井 |
1,100間 |
松平印幡守慶行 |
因幡国鳥取 |
柏井〜花島 |
600間 |
林播磨守忠旭 |
上総国貝淵 |
花島〜畑 |
2,100間 |
黒田甲斐守長元 |
筑前国秋月 |
畑〜海辺 |
1,200間 |
注) 印旛沼経緯記 他による
印旛沼経緯記に記載されている各杭間の距離を合計すると9,390間(17.0km)であり、現在の1/5万地図上で,全長を測ると16.2kmで、若干の差を生じている。 これを比例配分して、およその杭の位置を現在の地図上に記載し、表の各藩の分担区間を当てはめると、庄内、鳥取両藩の分担した難工事の場所が読み取れる。
このような作業によって、庄内藩の分担した場所は、掘割筋の中でも最も標高の高い台地にあり、鳥取藩の分担した位置は花島観音を中心としたあたりであったことが確認された(地図省略)。
2.難工事の状況
庄内藩の分担した柏井の高台付近、約1100間(2.0km)は砂が堅く、3丈も深く掘り下げるのに難儀した。 ここを庄内藩人夫の掘る様子について続保定記は次のように述べている。 「その様、土石盛る笈を負って持ち運び、土を移すには己倒に打伏て、土の頭部を覆う。 嫌厭せず働けり。」 身を粉にして土を掘り上げる様子がわかる。
同じ場所を掘削した現代(昭和40年頃)の花見川工事の記録によると、大部分が締まった細砂で、その中に固結した粘土が混入し、N値30〜40を示した。 この堅さは、鍬やマンノウで掘るのにかなり困難であったろうと察せられる。
鳥取藩の分担した花島付近はケト土であるために、掘り下げても両側から崩れ、杭を打っても止まらない、その上、ケト土は水分が多くてモッコにものらない。 さらにケト土は水の中で撹拌すると、半分は浮き半分は沈む。 粘力がないので、この土を掘割の左右に荷揚げして積むと、その土圧で掘割の底の土が盛り上がってくる。 ケト土は水中に溜めておくと浮いてきて、前日に掘っても翌日はどこを掘ったか分からなくなるという。
花島付近は不良なケト土があるばかりでなく、湧水も多く、一例として次のように述べている。 田畔の5寸(15cm)四方の穴から水が少し出ていた。 掘り下げると次第に穴は大きくなり、雨天には湧水口の径が3間(5.4m)、深さも2間(3.6m)位になった。 土俵で堰をして8寸(24cm)四方の樋で水を吐き出した。 このあたりの浮洲はすべてこのようであり、横戸村境まで深堀りになり、一面の水沼となった、という。 その膨大な量の湧水のために、工事は困難を極めたと想像される。
3.花見川の地理地質的特徴
印旛沼掘割工事の行われた花見川周辺の地形は、現在、宅地造成などによって人工的に改変されている。 原地形に近い形と思われる昭和初期の地形図をみると、このあたりの地形は図1(略)のとおりである。 この図によって、印旛沼水系と、東京湾水系の谷津の谷頭から、花見川周辺における両水系の分水界を推定すると、同図の太線のとおりである。 しかし、花見川に接する台地の最高地点はこれより印旛沼側にあたる柏井付近より北である。
三谷らは、この付近の台地の最高地点が、東京湾水系と印旛沼水系の分水界より内陸側にあることを知り、この現象を、東京湾北東部の隆起部が時代とともに内陸側に移動したためと説明している。 したがって、庄内藩の分担した柏井、横戸間は新しい隆起帯にあたっていると考えられる。
掘り割る以前の花見川について、天明期の掘割絵図を見ると、花見川は柏井を谷頭として花島を南流する東京湾水系の河川となっている。 したがって、掘り割る以前から花見川は周辺の谷津とは異なり、図1(略)の分水界よりさらに北上していたと思われる。
花見川と隣接するその他の谷津の形を見ると、東京湾水系の谷津と、印旛沼水系の谷津とは、明らかに異なった形をしている。 前者は谷頭に至るまで深く刻み込まれた深谷津の形をしているのに対して、後者は浅谷津の形をとって、谷頭はほとんど台地面近くまで上っている。 花見川は掘り割られているので、原地形の谷頭が深谷津タイプか、浅谷津タイプか不明であるが、花島から西に派生する花見川の枝谷津と、柏井から東西両方向に派生する枝谷津は、いずれも浅谷津タイプであり、しかも両枝谷津の流れの方向は印旛沼の方向をとっている。 このことから、少なくとも花島、柏井の枝谷津が形成された時代の初期の河川は、印旛沼方向に流れていたと考えられる。 したがって、花島付近の花見川は、ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。
この河川の争奪を起こす原因に、次の二つが考えられる。 一つは、先に述べたように、印旛沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。 今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて、印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。 東京湾水系の谷津は、いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので、台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。
隣接する数本の谷津のうち、花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は、ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。 即ち、図2(略)に見るように(千葉の自然をたずねて、P49)、常総粘土層の高度分布は、柏井、花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので、ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。 天保期の工事の際に、花島付近は多量の湧水のために難工事を極めたことは、沈降帯であるために台地の地下水がここに集中するためであり、また、花見川が、分水界を越えて北に延びた理由のひとつも、多量の湧水による侵食にあったと考えられる。
4.花島付近のケト層の形成
花見川下流域の低地は縄文海進頃の入江であった。 その後の海退と入口付近の砂丘(幕張砂丘)の発達によって、入江は海と遮断され、淡水化されていく。そこにヨシ、マコモ等の繁茂と枯死堆積が続き、3mもの厚い泥炭層が形成されていった。 ここから派生する枝谷津は、いずれも泥炭層をもち、大賀ハスを産出した検見川の谷津の泥炭層は有名である。 難工事とされる花島付近のケト層も、この種のものであると考えられる。
以上のことから推定すると、花見川の花島付近は、古東京湾が隆起して、北総台地が形成された初期の頃は、隣接の谷津と同じように、印旛沼水系の谷津の谷頭にあたっていた。 その後のいつの時代か、東京湾方向に流れを変えることになり、縄文時代以後、ヨシ、マコモ、の生い茂る低湿地を流れる川になっていったと考えられる。
5.掘割工事が難工事であった理由
江戸時代の印旛沼掘割工事のルートは印旛沼水系と東京湾水系の両方向の谷津が接近して、両谷津を短距離で結べる場所を選んでいる。 分水界を越えて印旛沼から東京湾まで掘り割る時に、距離が短く,土量も少なくするために取られた、通常の処置であったが、実際に工事を実施してみると、予期せぬ難工事に遭遇している。
難工事であった花見川の柏井、花島付近は、古東京湾の乾陸化する頃から、隆起と沈降をともなう複雑な地殻運動をする地帯である。 それに伴う地質的特異性が掘割を難工事にしていると考えられる。 近藤らによると、柏井以北に泥質の木下層が分布するので、図2(略)に示すように、古東京湾最末期頃、「印旛潟」ともいえる潟湖の存在を想定し、ここはその頃の沈降地帯である、としている。
庄内藩の分担した難工事の高台付近は、潟湖の時代に泥が堆積して比較的堅い地層(泥質の木下層)を形成した後、一変して隆起しはじめ、現在では標高の最も高いところとなっている。 このため、掘割工事に際して、粘土を含む堅い地層を深く掘らなければならなくなったのであろう。
鳥取藩の分担した難工事の花島付近は、上述の図2(略)に示すように、下末吉ローム層の標高が鞍部となり、分水界となった隆起帯の中では、相対的に隆起量の小さいところとなっている。 このため、地下水は東西両方向から集まりやすい地点となっている。 このことが分水界にもかかわらず、多量の地下水を噴出させ、低湿の泥炭層の形成とあいまって、掘割を難工事にしたと考えられる。
印旛沼掘割工事は標高の低い場所での工事であったことも、難工事にした一つの原因になっていたと考えられる。 印旛沼掘削の出発点にあたる平戸河底と終点にあたる検見川河底間の高低差は7尺1寸、行程9400間であるから、勾配は1間につき7毛5余(1kmにつき12.5cm)であり、満水時には止水となる(磯長得三の意見書、明治17年)、大潮満潮時には疎水路全体に影響して、排水は困難である(古市公威、明治34年)と指摘されている。
また、昭和2〜4年間の検見川地先潮位をみると、大潮平均潮位はYP1.54mであるから、現在の印旛沼の水位YP2.3mとの差はわずかに0.76mしかない。 天保期の記録によれば、潮水は河口から2,100間(3.8km)上流の天戸村字猪鼻橋まで逆流していたという。
これらから推定すると、掘割工事中の花見川は中流付近まで、少なくとも満潮時の流れは止まっていたのではなかろうか。 花島付近の難工事は排水が悪く、水中での掘削作業に近い状態であったかもしれない。
柏井、花島付近の立地条件は以上のような地理、地質的な難題を秘めていたと考えられる。
6.現代の印旛沼放水路(新川、花見川)
現代の印旛沼放水路は、江戸時代の印旛沼落掘と同じルートを掘り割って、昭和44年に完成し、大和田排水機場(八千代市村上)より印旛沼側を放水路上流(通称新川)、東京湾側を放水路下流(通称花見川)と呼んでいる。
この放水路は印旛沼総合開発の第1期計画(昭和21年)、次いで第1次改訂計画がたてられ、沼の水を自然流下で東京湾へ放流する計画であった。 しかし、詳細に調査してみると、花見川河口における既往の海岸暴潮位は最高水位でYP3.84mであること、天戸、柏井間は被圧地下水帯で自噴井が随所にあり、掘削によって上載荷重を除去すると、土かぶり圧と被圧地下水のバランスが破れて、水路底面が破壊して、崩落、地滑りの危険があること、などが分かった。
これらの悪条件を克服して、印旛沼の計画洪水(120m3/sec)を安全に流下させるために、計画を大幅に変更し、大和田排水機場(八千代市村上)で揚水して、水路勾配を1/300〜1/400の等流水路とすることとした。 図3(略)は初期計画の自然流下方式の印旛沼放水路(改訂計画線)と現行の大和田排水機場で揚水する方式の印旛沼放水路(変更計画線)の断面を示してある。
現行の放水路(変更計画線)をみると、新川を通して大和田排水機場まで印旛沼の水位を保ったまま導き、ここで揚水して、勾配をとって放流している。 途中で長作と天戸に制水門を設けて花見川の河底を上げ、海水の逆流と花島付近の不安定な地盤に対処している。 この放水路は、江戸時代の落掘りのルートと同じであっても、その内容は全く異なり、揚水することによって、海水逆流、暴潮位対策と被圧地下水対策を同時に克服して安全な放水路にしている。 多分、江戸時代に落掘りが完成していたとしても、その水路は不安定なものであり、大水のたびに被害を受けていたのではなかろうか。
7.まとめ
印旛沼落掘工事を行った花見川は、次のような難工事になる地理・地質的な特徴をもっていた。
1)高台、柏井付近は沈降と隆起を伴う地殻変動の激しい地帯である。 そのために粘土質の堅い地層が堆積した標高の高い台地であった。
2)花島付近は弱い沈降帯であり、地下水の集まりやすい所である。 このために、泥炭層の発達と、多量の湧水を伴う地帯であった。
3)印旛沼と東京湾の標高差は小さく、これを結ぶ花見川は高潮等の被害を受けやすい。
これらの特性を予期せずに、多数の死者を出すほど強引に工事を進めたところに、この工事の問題点があったと言えよう。
明治になっても、印旛沼経緯記にあるように、織田らは、江戸時代と同じ方法で工事をすすめようとし、この流れは昭和20年代まで続いている。 まして、江戸時代に難工事の予測を望む事はできない。 当時の苦労が悔やまれてならない。
洪水のない現在の印旛沼は、揚水ポンプを設けるなど、現代科学に裏打ちされた工法のお陰で成り立っている。 心から感謝しなければならない。
終わりに、本文を書くにあたり、多くの文献を紹介下さった、水資源公団千葉総合管理所の方々、成田高校鏑木行広氏、千葉県環境財団山浜裕氏、日暮淳氏に深く感謝申し上げます。
引用文献
ー 略 ー
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