○ 印旛沼周辺の神社と古代氏族
1.はじめに
印旛沼周辺は民族行事や方言など調べると、独特の文化圏を構成しているように思われる。 さらに神社信仰について見てみると、大きく4つに分かれることに驚かされる。 すなわち( 神社分布図 : 略 )沼の東岸から南岸にかけて埴生( はぶ )神社と麻賀多( まかた )神社が分布し、沼を渡った北岸には宗像( むなかた )神社と鳥見( とりみ )神社がそれぞれ分布し、この4つの神社圏は互いに圏内に入り組むことなく、きれいに区分されるのである。
なぜこのような神社圏が成立したのか、各神社の創建が古いこと、あるいは全国でこの地にしかない神社名もあることなどから、4つの神社圏は古代氏族の勢力圏をあらわしているのではないだろうかと考えた次第である。
2.麻賀多神社
麻賀多神社が分布するのは、印旛沼の東岸から南岸にかけての台地で、成田市台方・船形・米野・佐倉市鏑木町・大蛇町・飯野・飯田・岩名・大佐倉・江原新田・大篠塚・城・太田・高崎・印旛郡酒々井町酒々井・下台、同郡富里町中沢・新橋の4市町18地区に各1社の計18社である。 これを称して「 麻賀多十八社 」と呼んでいる。 県内はもとより全国でここだけに分布する神社で、本社は成田市台方の麻賀多神社とされ、『 延喜式 』神名帳に「 印旛郡ー座 小 麻賀多神社 」と記載されている。 台方から約800メートル北方の船形にある神社は、その奥宮である。 祭神は本社が迦具土( かぐつち )神の子の稚産霊( わくむすび )命で、奥宮は天照大神の妹神という稚日レイ( わかひるめ )命を祀っている。 なお、成田市台方と船形は『 和名抄 』の印旛郡八代( やつしろ )郷に比定されており、この八代( やつしろ )は麻賀多神社の社( やしろ )を意味するものと考えられる。
両社の神官である太田家伝来の古文書のうち、明和2年( 1765 )に記された「 延喜式内奥津宮麻賀多神社 」という縁起によれば、日本武尊が東征のためこの地を通ったとき、松杉生い茂る山に登って一本の大杉に鏡を掛け、西に向かって伊勢の大御神を拝んで戦勝を祈念した。 そのおり里民から土地が悪くて穀物が実らないという嘆きを聞き、この鏡を祀れば豊作になることを告げた。 そこで里民たちがこの鏡を祀ったところ、泉が湧き慈雨が降り、土地は開けて五穀豊穣の地になった。 その後、応神天皇の時代、印波( いんば )国( 旧印旛郡一帯 )の初代国造となった伊都許利( いつこり )命が霊夢を受け、杉の下より七つの玉を掘り出し鏡とともに祀って一社を創建( 現奥宮 )し、麻賀多真( まかたま )大神と称した。 降って伊都許利命7代の孫 広鋤手黒彦( ひろすきてくろひこ )が推古天皇16年( 608 )、現在の台方の地に稚産霊命を遷座して大宮殿( 現本社 )と称し、ここに本社と奥宮の二つの麻賀多真大神が成立した。
しかし延喜18年( 918 )、朝廷の宝物である「 三種の神器 」の一つ八尺瓊勾玉( やさかにのまがたま )と同名であることを遠慮して、麻賀多神社に改名したという。
日本武尊の東征譚は全国各地にあるが、太田家文書のうち麻賀多神社と日本武尊との関係を記しているのはこの縁起のみで、ほかはすべて印波国造伊都許利命を創建者としている。 たとえば乾元元年( 1302 )の「 麻賀多明神縁起 」には、神津稷山( こうづあわやま )( 台方 )の麻賀多太神と内宮 千座山瀛津宮( ちくらやまおきつみや )は応神天皇の御宇に神八井耳( かむやいみみ )命8代の孫印波国造伊都許利命が奉斎した太神なりとし、ほかもほとんどがこれに準拠している。 日本武尊はともかくとして、印波国造伊都許利命が創建に深く関与していたことが知れよう。
伊都許利命については、9世紀初頭の成立とされる『 先代旧事本紀 』の「 国造本紀 」に「 印波国造 軽島豊明( かるしまとよあきら )朝御代。 神八井耳命八世孫伊都許利命定賜国造 」と見えるのが初見であり、命の名が現れる他の諸文献はすべてこの「 国造本紀 」からの引用と思われる。 軽島豊明とは応神天皇のことであり、命の祖となている神八井耳命は神武天皇の第一子で、多氏系氏族の祖である。 神官太田家に伝わる嘉元三年( 1305 )の家系図は命を初代として以下連綿と続いているが、命の付記事項に「 応神天皇二十年四月斎祭稚日レイ尊稚産霊尊、仁徳天皇十六年崩 」と書かれている。
麻賀多神社の神の性格については、前出の「 麻賀多明神縁起 」には、「 麻賀多太神は五穀の神なり。 因ってその山を稷山という。 瀛津宮は天水の神なり。 天水は五穀の生まれる所由なり。 その山を千座山という。 千は無数。 座は倉にて、多くの五穀を収むる倉廩(そうりん)なり 」とある。 このことから、麻賀多神社の神は農耕の神と考えられよう。
以上のことから、麻賀多神社は印波国造一族の守護神として、また当地方( 『 和名抄 』に記載される印旛郡八代郷 )開墾の神として祀ったものであろう。 その後一族が分散するにともない、その土地にも麻賀多神社を分祀したのであり、現在の麻賀多神社の分布地は古代における印波国造一族の掌握圏内にあったと考えられる。 そして麻賀多神社が印旛沼を渡った北岸には一社も存在しないことから、印波国といっても沼の北側( 現在の印西町、本埜村、印旛村など )は、国造の強い支配が及んでいなかったといえよう。
3.埴生神社
埴生神社はが分布するのは、印旛沼の東岸の台地で、印旛郡栄町矢口、成田市松崎・郷部の2市町3地区の3社である。 順に一宮埴生神社・二宮埴生神社・三宮埴生神社と呼び、北から南にほぼ一直線上に並んでいる。 このあたり一帯は古代には埴生郡と呼ばれた地域であり、三っの神社は埴生郡内の一宮・二宮・三宮という存在になる。 ちなみに同じ台地続きに麻賀多神社が分布しているが、麻賀多神社は印旛郡内であり、埴生神社とは郡域できれいに区分されている。
三社とも創建に関する由来は不詳であるが、『 和名抄 』に記載されている埴生郡内の麻在( あそう )郷・玉作( たまつくり )郷・山方( やまかた )郷の位置がそれぞれ三社の周辺に比定されることから、古代に各郷の守護神として創建されたもので、一宮が麻在郷、二宮が玉作郷、三宮が山方郷の守護神ではなかったかと考えられる。 近世までは一宮が現在の現在の印旛郡栄町矢口・麻生・須賀・興津・北辺田・安食と成田市佐野の旧7か村を、二宮が現在の成田市松崎・大竹・上福田・下福田・宝田の旧5か村を、三宮が現在の成田市郷部・成田・寺台・土屋・山口・押畑・和田・新妻・東和田・関戸・下金山の旧11か村をそれぞれ氏子地域としており、これらの地域と前出の三郷の重なりが推定される。
埴生神社の本社とされる三宮埴生神社の祭神は、伊弉冉( いざなみ )命の子の埴山姫( はにやまひめ )命で、土をつかさどる神である。 また御神体は土師器( はじのうつわ )といわれている。社名・郡名の「 埴生 」はいうまでもなく土器を作る軟質の粘土のことを指している。 これらのことから、古代に土器や埴輪などを作っていた土師部( はじべ )一族がこの地( 埴生郡 )に居住し、その職業から、自分たちの祖神ともいうべき埴山姫命を守護神として祀ったのが埴生神社と考えられるのである。 三 社の氏子地域である旧23か村には、今日では稲荷神社や八幡神社などがほぼ1地区1社の割で鎮守として祀られているが、これは郷内の集落が中世以降膨張し分離していったためである。 ただ埴生神社を信仰する一族は、麻賀多神社や後述する宗像神社・鳥見神社のように分離のつど同族の神を祀るのではなく、他の神を勧請し、一宮・二宮・三宮はその郷の総鎮守として信仰してきたのであろう。 もっともなかには土師( はじ )神社( 成田市郷部・上福田 )と称して、土師部一族の名をそのまま社名としている土地もある。
なお三宮埴生神社は、社伝によればもとは200メートルほど離れた化立山( はなたてやま )に建てられ、いつのころか現在地に遷座したという。 本殿の建つ場所は古墳の上だといわれているが、事実とすれば、土師部の長( おさ )の墳墓を守護するために遷座したとも考えられよう。
4.宗像神社
宗像神社が分布するのは、印旛沼の北岸台地南側で、印旛郡印旛村山田・平賀・吉高・瀬戸・岩戸・師戸・鎌刈・大廻・造谷・吉田、同郡印西町船尾・戸神・同郡白井町清戸の3町村13地区に各1社の計13社である。 これを俗に「 宗像十三社 」と呼んでいる。 13社のなかでは本社・分社の区別がなく、『 佐倉風土記 』に「 宗像神社 瀬戸村に在り、筑紫(つくし)宗像神を遷祭す 」と記されているのをはじめ、各社それぞれが現在の福岡県宗像郡玄海町田島の宗像大社からの勧請と伝えている。 祭神は、田心姫( たごりひめ )神・湍津姫( たぎつひめ )神・市杵島姫( いちきしまひめ )神のいわゆる宗像三女神である。
創建については、古代に関係づけられているものもあるが、はっきりとはしていない。 印旛村山田の宗像神社を例にとると、『 千葉県印旛郡誌 』には神官報告として、景行天皇41年に日本武尊が東国の蝦夷( えみし )征伐のとき、当地に仮宮を造営して筑紫の宗像神社を奉斎し、夷賊鎮撫の祈願をしたのが始まりとある。 さらに応神天皇の時代、この由緒を聞いた印波国造伊都許利命によって再び奉祀されたとも記されている。 これも日本武尊の伝説は史実とは考えにくく、むしろ印波国造の初代伊都許利命との関係のほうが真実に近いのではないだろうか。 印旛村平賀の宗像神社についても『 千葉県印旛郡誌 』には、伊都許利命が水難除けと治水祈願のために勧請したとある。 伊都許利命は印波国開拓の祖といわれ、その墓と伝えられる古墳が印旛沼東岸の成田市船形にあり、前述のごとく同所に隣接する成田市台方の式内社麻賀多神社は、命が開拓地の守護神として祀ったものとされている。
そこでまず考えられるのは、印波国造がまず印旛沼東岸の開拓を手がけ、その地に麻賀多神社を祀って生産と信仰の基盤を築いたあと、西岸に進出し、こちらには水運・治水の神として宗像神を祀ったということであろう。 しかし、国造時代の古代豪族があえて他氏族の神を勧請し、しかもそれが明確な分布圏をつくるまでになるということは、はたしてありうることであろうか。 むしろ国造支配のもとで開拓事業に従事した人々のなかに宗像海洋族がいて、そのままこの地に定住し、東岸の麻賀多神社とは異質の宗像神社信仰圏を築いたというほうが自然であろう。 当時の印旛沼はそれこそ大海であり、沼を行き来するのに航海技術に優れた宗像海洋族の力が必要だったのである。 この地の宗像神社13社は、すべて沼またはそれに注ぐ師戸川・神崎川などの小河川に沿って鎮座していることも見逃せない。 一方、九州の宗像族が印波国造とはまったく関係なく移住し、自分たちの守護神を奉斎したとする説もあり、これを無視することはできないが、宗像神社の由来をこの狭い地域の古代史と関係づける場合、やはり国造との結びつきを考えておくのが無難であろう。
なお、同一郡内に13社も宗像神社が祀られているのは、本社のある福岡県はもとより、全国にも例を見ないもので、この地の宗像神社は特異な存在となっている。
5.鳥見神社
鳥見神社が分布するのは、印旛沼の北岸台地の北側で、印旛郡印西町小林・平岡・大森・浦部・小倉・和泉、同郡白井町白井・神々廻・富塚・復・平塚・名内、同郡本埜村中根・笠神、同郡印旛村萩原、東葛飾郡沼南町金山・泉・布瀬の3町2村18地区に各1社の計18社である。 これを地元では「 鳥見十八社 」と呼んでいる。 宗像神社と同じく印旛沼北岸台地上に鎮座するが、両者の分布は南北にはっきりと区分されている。
18社のなかでは本社・分社の区別がなく、印西町小林の鳥見神社について『 千葉県印旛郡誌 』では、古代に大和国城上郡の鳥見山の鳥見大明神を勧請したとし、他の神社も創建は不詳とするが、大和国の鳥見大明神を勧請したとするのが多い。 なお、大和の鳥見大明神とは現在の奈良県桜井市に鎮座する式内社の等弥( とみ )神社のことで、南東には鳥見山が位置している。
印旛沼周辺の鳥見神社の祭神は饒速日( にぎはやひ )命・御炊屋姫( みかしきやひめ )命・宇麻志麻治( うましまじ )命で、物部( もののべ )氏の祖といわれる神々である。 物部氏と下総国の関係については、『 続日本後紀 』に、物部小事( おごと )大連なる人物が勅命を受けて坂東を征し、その功によって下総国に匝瑳( そうさ )郡を建てることを認められた( 6世紀の初めころと推定される )という記事が見えるが、このことから推して、物部小事の子孫または一族が、太平洋から利根川を遡って印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社ではないだろうか。 しかし印旛郡の南側にはすでに宗像一族と印旛国造が居たため、南側に勢力を広げることができず、また東側にも土師部一族が居るため、郡を越えて西の相馬郡( 現東葛飾郡沼南町 )に進出したのであろう。
現在、社名の鳥見を「 トミ 」と呼んでいる土地があり、また奈良県桜井市の等弥神社も「 トミ 」である。 このことから本来は「 トミ 」と読まれた可能性が強い。 祭神の一柱に御炊屋姫命がいるが、神武紀によれば御炊屋姫命は神武の軍勢を河内の孔舎衙( くさか )に迎え撃った長髄彦( ながすねひこ )の妹で、またの名を「 トミヤヒメ 」ということからも、もとは「 トミ 」であったのだろう。 ちなみにこの姫が物部氏の祖とされる饒速日命と婚して宇麻志麻治命を生むのである。 そして『 和名抄 』に記載される印旛郡内の言美( とみ )郷は、鳥見神社18社の所在地一帯であったことにもなろう。
6.結びにかえて
以上、麻賀多神社・埴生神社・宗像神社・鳥見神社の、印旛沼を取り囲む4の神社圏について考察を加えてみた。 この結果、印旛国造一族・土師部一族・宗像海洋族・物部一族の4つの古代氏族の存在を彷彿することができたと思う。 古代の印旛沼周辺を4氏族が互いに覇を競いながら勢力を拡張していったことを想像させよう。 ( 以下、略 )
( 出典 ) 「 印旛沼周辺の神社と古代氏族 ー小倉 博ー 」 ( 印旛沼 ー自然と文化ー 創刊号 平成6年11月 印旛沼環境基金発行 )
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