○ 印旛沼開発と土地改良竣功之碑 

   印旛沼開発と土地改良竣功之碑                   農林水産大臣 
                                                        中 川 一 郎  書

 昭和二十年冬 戦火消尽を待ち、先人数百年渇望の印旛沼開削と干拓を起してより茲に三十有余年、国営、公団営、県営、団体営の各工事を了するに至る。 又 昭和二十八年 国営の干拓工事に対応、わが土地改良区の設立から二十五年、その前身たる北総治水協会のち利根治水協会、水害の惨禍を越え、数百の有志協賛の下に、明治二十五年 下沼の地、布鎌の高瀬泰治郎本埜の吉植庄一郎らの青年が中心に設けられて八十有余年、この間 人の和を得るも、天の時、地の利を得ずして挫折すること数度、戦後の施工、昭和二十二、三年の大水害後、水魔遠ざかり 天の時を得たが、人の和全からずして 挫折の危機を迎えたるも 戮心協力の有りて成業に至る。 然も印旛の沼 今や農業と農民の水たるに加え 千葉県の都市と工業の水庫たり。 
顧みれば、徳川将軍、江都に開府するや、一は江都の水災を絶ち、一は水運の為、利根を常総の水域に落とす。 為に、印旛湖、濁水と泥砂を受け、千有余年の沿岸美田、水災を重ぬ。 先人、時に怒り時に情を陳べ、或は堤を築き或は疏水の道を求め、或は水神に伏し水防に努むること幾星霜なり。 即ち八代将軍吉宗の治下、享保の世、平戸の農 染谷源右衛門の検見川開削起工が有り、これに先だつ元禄の世、利根外水防御の将監堤成る。 印旛水防の生命線たり。 さかのぼれば、承応の世、義民宗吾、水害を責め将軍に直訴す。 これ印旛治水の発端たり。 爾来、幕府、天明天保と自ら工を起すも悲運に遭う。 明治の御世二十三年、織田完之佐藤信淵翁の遺策を継ぎ 渋沢栄一らの協力を得 蘭人工師ヨハネス・デレーケに依嘱して計画成り、 次いで千葉県知事阿部浩、三十五年、一石五鳥と前土木技監古市公威を聘し、萩山の岩井勝太郎嘱託に任ぜられ之を助け 県営の計画を立てたるも日露の風雲急にして中止の命を受く。 
 爾来、時移ること四十余年その間、明治四十三年の大水害を契機に 大正二年燕口の締切り 同十一年安食閘門を設け 利根外水を絶ち 以て埜地の干拓を進め 更に昭和十三 十六年の大水災に奮起し、始め花見川疏水 のち印旛沼手賀沼治水の期成同盟会を結成、戦後遂に挙業と完成を迎えたり。 又、昭和八年大旱魃有り、組合を作り沿岸諸処に揚水機を設く。 その組合、土地改良区に一丸となり水旱の両災に備え、加えて営農の実を挙ぐる為 十五の支区を以て水・道路・区画等の済々たる基盤整備に任じ 農業と農家経済の支柱となり今日に至る。 然れども、水質汚染の進行と圃場整備の要は現状に偸安するを許さず、吾等の責務重且つ大なり。 茲に三百有余年の経過を録し、先人に感謝すると同時に後人に吾等の微意を伝えんとす。

     昭和五十三年十二月

                          印旛沼開発史編纂委員長   栗 原 東 洋  撰文
                                             古 島 清 良  書



(杉浦補註) この碑は、印旛沼土地改良区設立25周年記念の記念碑として、印旛沼土地改良区の敷地内(佐倉市山崎143)に建立されている。 なお、碑の標題部は横書き、本文部は縦書きで刻されている。



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