○ 印旛沼干拓    ( 出典 : 「 国史大辞典 ; 昭和五十四年三月一日 吉川弘文館発行 」、東京都立日比谷図書館蔵 )

 印旛沼は千葉県にある利根川下流右岸のW字型の沼。 現在周囲六〇キロ、長さ二四キロ、面積二一平方キロである。 印旛沼の干拓は印旛沼開疏といわれるごとく、沼の水を開疏して開墾・治水・水運の利益を得ようとしたものであった。



秋 の 沼 辺      ( 撮影 : 内田儀久氏 )


  江戸時代を通じて実際に着工したのは三回で、その方法は沼の西端に位する千葉郡平戸 ( 八千代市平戸 ) から同郡検見川 ( 千葉市検見川町 ) に至る一七キロ余 ( 四里十二町 )に掘割をつくり、水を江戸湾に落とそうとするものであった。

  工事の発端は享保九年 ( 一七二四 ) 千葉郡平戸村の染谷源右衛門が幕府に出願したのに始まる。 幕府は殖産興業策に積極的であったから、この出願にもとづき幕吏を派遣して実施調査を行いこれを許可した。 工事は源右衛門が請け負い、幕府から六千両を借用して着工したが、工事意のごとく進捗せず源右衛門をはじめ倒産する者多くついに挫折した。

  ついで安永元年 ( 一七七四 ) 田沼意次が老中となるや再び開疏を計画した。 即ち天明二年 ( 一七八二 ) 二月幕吏が出張して実地を巡察し、翌年から官費を以て着工することとなった。 もっとも実際の着手は遅れたらしく 同五年十月勘定方の役人が出張して工事を監督し、工程の約三分の二まで進捗した。 しかし、翌六年の利根川の洪水のためにせっかくの施工もすっかり破壊され、加うるに意次も職を免ぜられついに中断した。

  つづいて第三回の企ては天保の改革の一環として水野忠邦によって行なわれた。 すなわち開疏の命が下ったのは天保十四年 ( 一八四三 ) 六月であった。

  これよりさき、佐藤信淵は 『 内洋経緯記 』 ( 天保四年 ) において、印旛沼の水を利根本流と江戸湾に落とせば、下総の行徳堀内村から上総富津村に至る七万町歩余の干潟を埋め立て水田・塩田とすることができるうえに、沼と江戸湾の水路を通じて常総の物資をわずか一,二日で江戸に運ぶことが可能となり、江戸防衛という観点からも重要であると述べている。

  忠邦は天保十三年下野桜町にいた二宮尊徳を御普請役格に任命して利根川の分水路の計画をたてさせている

  忠邦は同十四年工事に着手するにあたり、まず開発資金を金座御金改役後藤三右衛門に負担させようとしたが果たせず、結局松平慶行 ( 因幡鳥取藩主 ) 酒井忠器 ( 出羽鶴岡藩主 ) ・ 水野忠義 ( 駿河沼津藩主 ) ・ 黒田長元 ( 筑前秋月藩主 ) ・ 林忠旭 ( 上総貝淵藩主 ) の五大名に工事を分担させた。江戸南町奉行鳥居輝蔵も勘定奉行を兼ね、勘定吟味役篠田藤四郎らとともに現場の監督に出張した。

  工事は同年七月二十三日から開始され、三ヶ月を要して人夫六万人、費用二十三万両を投入し工程の九割程度を完成したが、閏九月忠邦の失脚により工事はにわかに中止された。

  こうして常に幕府の財政立て直しをもくろんだ工事も、三たび不成功に終わったのである。

  明治維新以後においては明治初年にすでに開疏の意見があり、二十年(一八八七)には織田完之ら大明会を組織して企画されたが、ついに着手されなかった

  戦後昭和二十一年 ( 一九四六 ) 以来、水田三〇〇〇ヘクタールの拡大を目的とする干拓が国営事業として行なわれてきたが、同沼の水は現在京葉工業地帯の用水源として大きくクローズアップされている。


(参考文献)
  『 千葉県史料 』 近代編明治初期一・二、日本地誌研究所編 『 日本地誌 』 八、  織田完之『 印旛沼経緯記 』
  土木学会編 『 ( 明治以前 ) 日本土木史 』、『 印旛沼開発史 』             ( 川村 優 )




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