○ 印旛沼の古地理
( 出典 ; 平成6年11月 (財)印旛沼環境基金 発行 「印旛沼―自然と文化―創刊号」。 堀越正行著 「縄文時代の印旛沼地域」 より抜粋。)
干拓前の印旛沼の景観を縄文時代まで遡らせることはできない。 縄文人の知っている印旛沼は私たちの知っている印旛沼とは全く違うものであったという認識から、まず出発する必要がある。
現在、印旛沼は利根川水系に属するが、これは人工的な瀬替え工事によるものであり、本来的には鬼怒川水系に属していた。 最終氷河期の最寒冷期である2〜1.8万年前、少なくとも−80m以上低下した海水面に呼応して、鹿島灘沖に河口をもつ古鬼怒川は下刻を続けていた。 古鬼怒川は、佐原市の北で−60m位のところを流れており、支流にあたる今の印旛沼の底を流れていた川(これを印旛川と仮称する)では、栄町安食の西で−40m位、佐倉市土浮付近で−25m位のところを流れていたことが、沖積層基底等深線から想定される。 土浮付近の台地標高は約30mであるから、当時の谷底との比高差は約55mとなり、現在の2倍程深い谷の底を印旛川が流れていたことになる。
1.8万年前以降、地球規模で温かくなり、それによって氷床や氷河の氷が融け、海水面の上昇が進んでいった。 陸側から見ると海進であるが、約1.1〜1万年前を境に大きく2段階の海進に分けられ、東京湾では、それ以前を七号地海進、それ以降を有楽町海進(縄文海進ともいう)と呼称されている。 古鬼怒川流域の七号地海進に相当する海進の先端は、下総町の北付近まで達していたことが地層から読み取れる。
印旛川が印旛湾とよぶべき海となったのは、放射性炭素14の年代(以下C14年代とする)で約9〜5千年前のことと推定される。 これは、縄文時代の早期前葉から前期後葉あたりに相当する。 幅が狭くで深い海が細長く伸びたリアス式の海岸であったが、波による側谷作用で、谷幅を広げ、上流からの土砂と共に、深い海底を次第に埋めていったことであろう。
縄文時代後期後半から晩期の貝塚が、いずれもヤマトシジミを主体とする事実からすると、その頃は、海水の少しまじる汽水域であり、河口のような状況であったろう。 この縄文時代の終わり頃の印旛沼を印旛潟と仮称したい。 やがて海水の影響がなくなり、淡水化し、現在の印旛沼へと近づいていくのである。
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