○ 黒 鍬  ( くろくわ ) ( 出典:国史大辞典 第四巻  昭和五十九年二月一日 吉川弘文館発行 )

黒鍬者といい畔鍬とも書く。 原義は土を掘り起すに用いる頑丈な鍬のことであるが、その鍬で土工を働く労働者をいつしか黒鍬と呼ぶようになった。 戦国時代の黒鍬はおもに築塁・道橋普請その他の土工に従い、戦時には「小荷駄」に属して武器・兵粮などの運搬、また戦死者の収容・埋葬のことにも従事したが、徳川家康の江戸開府後は三河以来の黒鍬者を幕府の職制に組み入れ、江戸城内の土木工事や作事、防火・清掃などの雑用に使役し、将軍出行などの際には諸荷物の運搬、時には通信連絡の役も受け持たせた。 身分は賄六尺、掃除之者、中間・小人などと同列で、城内勤役の当初は苗字を許されず、脇差だけを認められたが、譜代の黒鍬は世襲が許された。 初期のころの黒鍬人数は明らかでないが、天和元年(一六八一)当時二百人であったのが、享保十六年(一七三一)には四百三十人に増し、宝暦十年(一七六〇)には黒鍬の子十五人を登用して新規抱と称した。 幕末期には総数四百七十人を三組に分け、一組にこれまでの頭一人と、配下から抜擢した組頭二人を置いて組の監督に任じた。 黒鍬の食禄は十二俵一人扶持、頭の役高は百俵、組頭には三十俵一人扶持が給与された(延宝八年(一六八〇)の『江戸鑑』には百俵の者一人、百五十俵の者二人とみえている)。
 以上は江戸城に仕えた黒鍬であるが、これとは別に一般の土工に従事する黒鍬者があった。 『譬喩尽』に「畔鍬者、尾州より出る日雇也、大なる鍬を以て二人前働く力者也」とあるように、その生国は尾張国、なかんずく知多郡が黒鍬の主産地であった。 尾濃デルタ地帯の干拓工事や川普請をはじめ、摂河地方の新田開発事業などに従った労働者の大半は知多郡の黒鍬であった。 寛政年中(一七八九〜一八〇一)の『尾張徇行記』にみえる知多郡の黒鍬は、長尾村の六十人、宮津・半田両村の各五十人以下、三十人内外の村が多く、これらの出稼人の中には、多年の経験によってひとかどの土木技術者となり、また頭(地元では鍬頭という)となって、十数人から数十人の配下(鍬下)を率いて関東から中部地方まで進出し、手馴れた川除・用水普請を請け負う頭分もあったが、これらの遠出組の中には、出稼ぎ期限を過ぎても帰村しない者や、土木または日雇労働者として出先に定住する者が少なくなかった。 この点は、同じ知多郡から出る農間稼ぎの万歳師(知多漫才)たちが、正月過ぎには必ず帰村するのとは性質を異にした。






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