○ 二宮 尊徳 (にのみや そんとく)
( 出典 : 「成田ゆかりの人物伝 <二宮尊徳>」 小川国彦 著 2002年10月25日 (株)平原社 発行  成田市立図書館 蔵 )


― 前 略 ―

 二宮金次郎は、天明七年(一七八七)、相模の国足柄上郡(現在の神奈川県)栢山村の農民利右衛門の長男として出生した。 生まれた家は赤貧洗うが如しの貧農であった。 そのうえ、寛政十二年(一八〇〇)に父が、ついで享和二年(一八〇二)に母が死に、十六歳の金次郎を頭に弟友吉(十二歳)、富次郎(三歳)の三人は孤児となった。 弟二人は母の実家に預けられ、金次郎は伯父の万兵衛に引き取られた。
 このときから、金次郎の人生の苦闘が始まったのである。 万兵衛の家も決して豊かではなかった。 そのうえ百姓に学問は要らぬ、それよりも一日も早く立派な百姓になり、家を再興することだといって、金次郎に勉学のために灯油を使うことを禁じてしまったのである。
 金次郎は、一人前の百姓になるにもやはり学問は身に備えておかなければいけないと考えた。 そのため金次郎は伯父の許しを得て、荒地を耕し菜種を植え、菜種油の採取に努めた。 そして勉学のための灯油を確保したのである。 さらに余った菜種油を売って、米を手にすることができた。 このわずかな米を資本に金次郎は努力を重ね、一俵の米を五俵、五俵の米を十俵、二十俵と増やし売上を蓄え、やがて亡父が元所有していた田を買い戻し、自作農となるのである。
 ところで、この少年金次郎の教訓は、勤勉(一生懸命)、分度(節約)、推譲(世のため、人のため奉仕する)の三つの仕法(家おこし、町おこしのやり方)として挙げられている。
 この仕法の中で「分度」をさらに詳しくいえば、収入あるいは財産に相応して支出あるいは運用の計画性をたてることだといっている。 人びとは「分度」を守った生活さえつづけていれば、飢餓も恐れるには足りない。 ただし、そのためには「分度」は科学的な確実性をもたなければならない。 尊徳のこの統計的な「分度」設定法は、後のさらに大規模な仕法のさいにその威力を発揮するようになる。
 そうして「分度」を守ることによって生じた余剰を、将来に譲り、また人にも譲るということで「推譲」が成り立ってくるのである。 「推譲」は同時に蓄積であり、人はこの蓄積のゆえに、安定した生活を営むことができるようになり、その蓄積が自家から他家へ広がり、さらにそれは村から藩へと拡大された「推譲」と発展し、人間社会が成立していくという考え方なのである。
 こうした金次郎の努力と仕法は、自分の家の再興だけに終わらなかった。 金次郎の成功ぶりが近郷近在に伝えられ、領主の大久保家の耳にも達した。 金次郎は文化九年(一八一二)、二十六歳の折、小田原藩大久保家の家老服部十郎兵衛い招かれ若党となる。 そして、服部家の財政立て直しに寄与するが、同時に小田原藩の立て直しにも貢献するのである。 この間、金次郎は文化七年(一八一〇)十月には江戸見物に行き、十一月には伊勢神宮、京都、奈良、大阪と歩き見聞を広めている。
 いつの時代でもそうであるが、世の指導者と仰がれる人は、必ずといってよいほど諸国を歩いての見聞の広さを若い時代に養っている。 同時代の農政指導者大原幽学もそうした一人であった。
 金次郎もやはりこうした体験を通して、後に二宮尊徳の哲学といわれる「報徳」の原理を生み出したのである。 報徳とは一言でいえば、天地自然、その他自分以外のもののすべての恩に報じる心根ということである。
 かくして金次郎は、小田原藩領主大久保忠真の信頼を受け、五石二人扶持の禄を得、名主役格となり、小田原藩上州桜町宇津家の財政復興の依頼を受けるのである。
 これが金次郎の生涯をかけた事業であった。 金次郎は桜町四千石の宇津家の再興に成功した。 しかし、この間の苦労は容易ではなかったのである。 当時、野州桜町宇津家は疲弊のどん底にあり、加えて金次郎が百姓の出であることから、武士たちの協力はもとより、ところの代官の協力も得られず、農民からもよそ者ということで阻害され、反感をもたれていた。 そのため、金次郎は事業の遂行に当たって様々な障害に遭遇するのである。
 改革に行き詰まった金次郎は、生涯の事業の成否をかけたこの仕法をいかにしてやり抜くかに悩み、懊悩をきわめ、突然桜町陣屋から姿を消したのである。
 文政十二年(一八二九)、金次郎四十三歳の時である。
 行方不明となった金次郎は、諸方の神仏に祈りつつ、成田山に参詣した。 身分を隠したまま門前の佐久良屋(のちの小川屋、現在の第一信徒会館所在地)に着いた金次郎は、「余は心願のことありて断食祈誓せんと欲するものなり」と宿を乞うた。
 亭主は一旦承諾したものの、その容貌魁偉、衣服粗末にして六尺豊かな大男であり、かつ大金を所有するのを怪しみ、止宿を断ろうとしたところ、金次郎が大声をあげて、一旦引き受け宿に上がらして宿泊を承知しておきながらなぜ断るのかと詰問され、やむなく止宿を承諾した。 宿の亭主が驚いたのは預けた金が七十二両という大金だったことである。
 しかし、どうにも心配になった亭主が江戸の小田原邸に使用人を遣わし確かめたところ「二宮は当藩士にして疑うべきものに非れば、軽易にすべからず」と告げられた。
 小田原候は幕府の執権であり「威名天下に震動せり」との世評もあると聞いた亭主は、あわてて親切にもてなし、このことを成田山の照胤僧正に報告した。 その結果、金次郎は、僧正のはからいで寺内の別庵に移り、一ヵ月余りの参篭、断食を行ったのである(『成田山史』)。  この照胤僧正との出会いの場で金次郎と照胤の間に次のような問答があった。
 照胤和尚は、一息入れてから、尊徳に次のように質問した。
「今、私が貴方の様子をみるに強壮健在にして疾病のある人には見えない。 また、身にまとう衣服は粗末のように見えるが、貧乏をなげいているようにも見えない。
 また貴方は世の人々が、満足できる社会の中で安らかに過ごせることを願っているようで、自分の営利を求める人でもないように思う。
 そしてまた、人に接して言葉遣いも正直で真面目であり、道をふみ外して災難に会う人でもないようである。
 そうしてみると、貴方は何を祈願するために成田山に来て、断食をし、苦行の中に身をおこうとしているのか。」
 ここで尊徳が答えて言うには、
「私は病気というものは全くございません。 然しながら、幼くして父母の病に会い、不幸にして早く父母を亡くして孤児となってしまいました。 こんな不幸はありません。 私が思うに、世の中には私と同じように不幸な運命に遭遇している人は少なくないと思います。
 そこで私は、世の中の父母には、病気もなく元気に生命を保って、世の中の子供たちが安心して成長できるように祈りたいと思います。
 私は今、貧乏を憂えている者でもありません。 しかし、幼少の頃きわめて貧乏な家に育ち、父母の苦労、言葉に表せないほどでありました。 世の中で貧乏ほど悲しいものはないと思ってきました。
 ここに私は世の中の貧しい人々を見ては、こうした人々を救済して、富める人になってほしいと祈願するものです。
 私の生まれた年、天明丁未(一七八七年)は、大飢饉の年でした。 飢えのために亡くなった人は幾万人に及んでいます。
 特に関東諸州の死亡者は最も多く、野州芳賀、河内の諸郡村が荒れ果てて廃村になってしまったのも、この飢饉が原因だと思います。
 今、ここを開墾する任務をおび、飢饉の害ほど世の中で悲惨なものはないと考えています。
 六十年前後に一回は必ず凶作の年がありと考えれば、これに備えて、天下に飢民のでないように祈願したいと思います。
 私は幼い時、数々の洪水に遭い、所有の田畑も再三にわたって流出し、その開墾のための父母の丹精は筆舌につくし難いものがありました。
 その開田もまた容易に良田となるものではございませんでした。
 数年の苦労を重ねて、漸く復旧を見ることができますが、またそのために負債を背負って、所有地を手放す結果となっています。 一家滅亡にいたる例は、独り私の家だけではありません。
 その故に、天下の水害を被って滅亡に至るものを救助することを、私が、自分の家を救助したと同じようにしたいと祈願するものです。
 世の中には、様々な災厄を受けて借金を生じ、利息が増え、元金も利息も払えないという人々があります。
 家の財産を失い逃亡する者も少なくありません。 或いは、大名とかその家臣が贅沢をつくし、その負債を支払うために、政治が行えなくなって、百姓をいじめ、重い税を課して、国家を危うくするものも少なくありません。
 私はこうしたことのないように方策を立てて、世の人々を救済したいと祈願するものです」
 こうした問答の末に、さらに尊徳は次のように述べた。
「私が主君の命令を受けて物井村に着いてから七年、着々この方法を実行してきました。 しかし、村民はいまだにこれを理解せず、土地が開拓され、村民が豊かになってきているにもかかわらず、そのことを喜ばないでかえって反抗したり、悪い村民が横行し、まじめな村民が、目的を果たせないでいます。
 私は、この職責を退きたいと思いますが、主君の命を受けた立場もありそれもできず、また前へ進みたいと思っても進路を塞がれている状態です。 進退は本当に窮まりました。
 そこで私は
 一、禍を転じて福と為し
 二、凶を変じて吉と為し
 三、借財を転じて無借と為し
 四、荒蕪を変じて開田と為し
 五、瘠地を変じて沃土と為し
 六、衰貧を変じて富栄と為し
 七、困窮を変じて安楽と為し
 という七大誓願をもって当山に参りました。
 私には、今一切の私心はありません。 しかし村民は、私の真心に疑惑を持っています。
 私は君命のために国家復興の策を立てて村民を難儀から救うことだけを考えている者です。
 天地に在わします神仏が、この私の真心を認めてくださらないのでしたら、私は、たとえ死んでも断食をやめません。
 村民の難儀を救うことができないようでしたら、私の一身を不動明王の猛火の中に投じても良いのです。 これが私の成田山に来て祈願するところなのです」
 照胤僧正は、静かに金次郎の訴えを聞いていたが、おもむろに口を開いて、次のような言葉で金次郎を励ました。
「貴方の考えは大変良いことです。 貴方の誓願が達成されたならば、天下の村民を皆、救って行くことができるでしょう。 貴方の誓願が世の人々を救うことは、他の諸々の教えも及ばないところでありましょう」
 この金次郎の誓願を激賞し、感動した照胤僧正は、「その誠意をもって人に接すれば、どんな悪魔や鬼が障害となろうとも、事は必ず成就するでしょう」。 しかし、ことをなすに当たって「絶対に自分のやり方に従わせようとすれば、害ばかりで益はない。 ただ自分のやり方に賛同して協力してくれるのを待てばよいのです」とさとしたのである。
 金次郎は、この断食修行と照胤僧正からの感化によって、不動尊の慈悲の教え、慈悲の心をもって人に接することの大切さに思い至り、不動心の決意をもつことができたのである。

 ここで尊徳に知遇を与え、その指導に当たった成田山新勝寺の中興第八世照胤について紹介したい。
「上人諱(いみな)は照胤、字は快順と称し、香取郡武田村権之助の子息として生まれ、十二歳の折、照誉上人に従って得度し、智積院弘基僧正に灌頂を受け、その後智積院に留学すること十一ヵ年、文政二年(一八一九)四月照誉上人退隠後、推されて当山中興第八世となり、文政三年(一八二〇)四月に嵯峨御所へ住職願を提出した。 文政四年(一八二一)三月十五日より六十日間、深川永代寺に於いて御本尊の開帳を奉修し、文政五年(一八二二)二月十二日より二十日間、天国宝剣並びに霊宝の開帳を行ない、次いで同五年十二月、先師在世中より着手されていた七代目市川団十郎の寄進にかかる額堂の上棟式を挙行した。 文政六年(一八二三)十月十九日、中興開山照範上人並びに先代照誉上人の追善大法要を奉修し、又同七年中、阿弥陀堂一宇を再興した。 同十一年秋に仁王門を修捕し、同十二年(一八二九)三月中旬、二宮尊徳翁が遥々栃木桜町陣屋から断食のため登山されるに及び、上人は厚くこれを遇し、翁の祈願を成就せしめたことはあまねく知るところである。 文政十二年七月二十日遷化す。 世寿五十五。 法臘四十三であった。 上人の高徳は一世に聞え、子弟の教導は懇切を極めた。 従って門下に大徳英才多く、当山第九世照胤・第十世阿弥・第十三世照輪の三上人は其の最も傑出せるものである」と『新修成田山史』(第五章)にその人となりが記されている。

 しかし、この文中の最後に照胤の死去は文政十二年七月二十日となっている。 金次郎が同年三月成田山に断食して教えを受けた四ヵ月後のことである。
 照胤僧正の早逝とその直前という金次郎との出会いもまた人生の奇遇ともいうべき二度と得難いものであり、金次郎にとって貴重な出会いであった。

 この間の金次郎の修行ぶりについては、なお、福住正兄著『二宮翁夜話』巻二に次の如くある。
 「翁、床の傍に、不動尊の像を掛けらる。 山内薫正曰、卿不動を信ずるか、翁曰く、私は壮年のころ、小田原候の命を受けて、野州・物井の陣屋に来ました。 人民は離散し、土地は荒れ果てて、手のつけようもありません。 そこで、成功してもしなくても、生涯ここを動くまいと決心にました。 たとい事故が起きて背中に火が燃えつくような場合に立ち至っても、決して動くまいと、死をもって誓ったのです。 ところで不動尊は”動かざれば尊し”と読みます。 私はその名前と、猛火が背を焼いても動かないその姿とを信じて、この像を床の脇に掛けて、決意を妻子に示したのです。 不動仏にどんな功験があるのか知りませんが、私が今日までやって来られたのは、不動心の堅固という一つにあります」
 翁が結願後、桜町へ帰るときに持参した当山不動尊の御影は、桜町復興完成の折、功労者にその賞として授けたのであった。 現在その御影は、栃木県二宮町の横山、小宅の両家に家宝として保存されている。

 こうして成田山における金次郎は、朝夕「聖不動経」等の経典を踊し、少しも怠ることがなかった。
 さらに、照胤僧正の仏話を日々拝聴し、沐浴しては不動尊の前に礼拝して七大請願の成就を祈願しつづけた。
 金次郎が御籠りをしているあいだ、桜町にも変化がみられた。 金次郎の仕法を妨害していた代官が小田原に召還されたり、金次郎のやり方に不満をもっていた農民も、やがて協力的となり、荒廃した桜町の復興も成果をあげる方向ができたのである。

 現在、成田山新勝寺の正面右手の女坂といわれる緩やかな石段を下ってくると、その下りきったところに水行場がある。 この水行場には、次のような説明がある。
 「水行場
 天保六年(一八三五)建立、昭和四十一年改築、本尊に祈誓をこめて水行をするところであり、古くは道誉上人、二宮尊徳翁なども、ここの水に浴し、貴い霊験を授かっている」
 そして、その脇に「二宮尊徳翁開眼の地
 代表的日本人の一人、二宮尊徳翁 天明七年〜安政三年(一七八七〜一八五六)は、不世出の才と堅忍不抜の行いとをもって小田原藩主大久保忠真候に抜擢され、野州桜町(現在の栃木県二宮町)の復興に一身をささげた。 内外の妨害に、進退きわまり、行方不明数十日の後、『過を転じて福となし』にはじまる七大誓願を胸に成田山に参籠、断食水行二十一日、霊験感応あり、心願開けて大悟した。 ここぞ誠に二宮尊徳翁開眼の地である。

  身をすてて、ここをせんどとつとむれば、月日の数も知らぬなりけり
  心あらば成田の山にこもりなん、石の上にも、岩のうえにも

 この文言の中の「心あらば・・・・」の歌は、この石碑の横面に彫り込まれている。 そして裏面には「報徳」の二文字が大きく掲げられており、
     「全国報徳団体連絡協議会建之
      昭和五十五年五月五日
                   会長 文学博士加藤仁平敬書」
と書かれている。


 金次郎が、成田山での二十一日間の断食修行を通じて生み出したもう一つの所産ともいうべき思想「一円融合」という金次郎の哲学がある。
 一円融合という金次郎の哲学は、武士と農民の相互不信、弱者同士、農民同士の相互不信の原因を取り除き、心を豊かな田畑にしたいということであった。
 思想的には神仏儒、神道と仏教と儒教のよいところを集めて、円の中におさめるという哲学であった。

 見渡せば敵も味方もなかりけり
     おのれおのれが心にぞある

 打つ心あれば打たるる世の中よ
     打たぬ心の打たるるはなし

 このような澄んだ一円融合の心境も、成田山における断食修行と、研鑽の成果であったといえるのではないか。

 一円に実り正しき月夜かな

 成田山の明僧知識ともいうべき照胤僧正との出会いは、金次郎の生涯での大きな収穫ではなかったかと思うのである。


― 中 略 ―


 はなしはさかのぼるが、金次郎が、成田山に参籠、二十一にちの断食修行を経て、大きく悟った後の仕法、村づくり事業は順調に進展していったようである。
 天保二年正月、老中首座になった大久保忠真公が将軍家斉の直参で日光東照宮に参詣した折には、拝顔の栄にも浴した。
 金次郎の桜町仕法について”徳をもって徳に報いる”という論語の跡であると賞された金次郎は、ここに「報徳」の理念をいよいよ固めた。

 天保五年  『報徳訓』『三才報徳金毛録』を著す
 天保六年  細川領、谷田部藩の仕法開始
 天保七年  烏山領の危急を救済、同八年に仕法開始
 天保八年  小田原領内の飢民を救済、同九年、領内の仕法に着手
 天保九年  下館藩の仕法開始
 天保十年  相馬藩士、富田高慶、尊徳の弟子となる
         諸藩諸村の仕法指導に当たる
 天保十四年 小田原と下館に報徳社設立
 弘化元年  日光仕法を受命、仕法の統一基準ともいうべき”雛形作成”着手
 弘化二年  斎藤高行、福住正兄入門
 弘化三年  日光仕法雛形完成(尊徳以下二十一人の門下生が、二年三ヵ月を要し、八十四冊にまとめた仕法の
         集大成)
         小田原仕法畳み置き(仕法に無理解な藩士によって、仕法の禁止が決定、領民への指導を警戒し、
         領内立ち入りも制限さる)
 嘉永元年  東郷陣屋(現栃木県真岡市)に転居
 嘉永五年  故郷栢山で墓参、長男弥太郎、長女文子結婚
 嘉永六年  日光仕法発業
         尊徳発病、文子死去
 安政二年  報徳役所(栃木県今市市)に転居
 安政三年  十月二十日 尊徳死す、 享年七十歳

 二宮尊徳の七十年の人生は、苦難と苦闘に満ちた生涯であった。 しかし、その生涯は、その苦労が生かされた実りある生涯であった。
 その一つは、尊徳には、尊徳の教えを受けて、それを実践する多数の弟子に恵まれたことである。 富田高慶、斎藤高行、斎藤高教、福住正兄、岡田良一郎、福山滝助、久保田周助、荒専尊八等々である。
 さらに大日本報徳社の基礎をつくった安居院庄七がいる。
 二つには、この弟子たちの力によって尊徳の教えが全国に広がり実践されたことである。
 平成九年二月十四日から十五日にかけて、静岡県掛川市で開催された「全国二宮尊徳サミット」には、五十一市町村長らが参加し、尊徳の治績とその町づくりの活用等を発表している。
 代表して、尊徳生誕の地の小田原市長、桜町仕法を行った栃木県二宮町長、尊徳は訪れなかったが、高弟の富田高慶によって天明、天保の飢饉に疲弊した村々が救済された相馬の市長、尊徳の弟子である大友亀太郎が石狩平野の原始林を開いたという札幌市東区長、二宮尊徳が亡くなった最後の土地、今市市長のあいさつが行われた。
 県別にみても北海道から福島、栃木、茨城、千葉、神奈川、静岡の各県に及んでいる。
 その後、尊徳サミットは、栃木県今市市、千葉県成田市、福島県相馬市、そして平成十四年は栃木県二宮町と引き続いて開催の予定である。
 尊徳は死の直前、弟子たちを呼んで、
「世人は事をなすのに、その年限は自分の一代に比較し、その感動を自分の目で見たいと望む。 だからわが法を迂遠だ。 思うに天下の法を立てるには、よろしくこれを天下の長久に比較すべきである。 どうして自分の短い一生に比較してよかろうか。」(語録)と言い残したという(大貫章著『報徳に生きた人二宮尊徳』)。
 天下の長久に比較すべきこの言葉の通り、今日、平成の世代に引き継がれ学ばれている尊徳の生き方の偉大さといえよう。


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