○ 二宮尊徳と「利根川分水路見分目論見御用」
( 出典 : 「成田ゆかりの人物伝 <二宮尊徳>」 小川国彦 著 2002年10月25日 (株)平原社 発行 成田市立図書館 蔵)
― 前 略 ―
さて、金次郎が、成田市に係わる事業として、取り組んだ記録に見逃すことのできない大事業として印旛沼開発事業がある。
印旛沼は、千葉県の成田市他二市二町二村にまたがる、面積十一.五五平方キロメートルの沼である。
この沼に、利根川の水が流れこむ仕掛けがあって、利根の増水によっての氾濫はひどく、ほとんど毎年というほで、周囲の住民はこの水害に悩まされていた。
とくに、当初、群馬県に源を発するこの川は、江戸川を経て東京湾に注ぎこんでいたが、その水路が変更され、主流は、銚子の河口に向かって流れるようになった。
その途中にある印旛沼は、利根川水系の氾濫を一手に引き受ける羽目になっていた。
この治水事業、水路掘削事業を金次郎が実施するようになったのである。
天保十三年(一八四二)七月、金次郎が五十六歳の時、桜町の金次郎の許へ江戸から飛脚がきて、老中首座、水野越前守忠邦からの呼び出しの命令が伝えられた。
ここで水野忠邦について若干ふれておくならば、忠邦は肥前国唐津藩(表高六万石)の城主であったが、幕閣への参画を望んでいた。
忠邦は、文化十四年(一八一七)、二十四歳の時に望んでいた浜松への国替えを命じられ、幕府の寺社奉行となった。
これをきっかけに、三十二歳で大阪城代、三十三歳、京都所司代、三十五歳、江戸西丸老中、四十一歳、本丸老中、四十六歳、老中首座へと昇りつめた。
老中首座といえば、今日の総理大臣に匹敵する役職である。
しかし、忠邦が老中首座の座に着いた頃、幕府を取り巻く政治、経済の状況は最悪の状態になっていた。
天保七年(一八三六)の大飢饉で、東北地方に被害が続出、秋田藩では人口の六分の一もの餓死者を出しており、他の諸藩も大同小異の状態であった。
天保八年二月、大阪東町奉行所の元与力、大塩平八郎の乱が起こった。 これをきっかけに各地の貧民、難民による一揆、打ちこわしの騒動が発生した。
アメリカの商船「モリソン号」の江戸湾侵入が、幕府を驚かせた。 さらに日本沿岸へ来航する外国船がひんぱんになり、日本に通商を求める空気は目前に迫っていた。
「内憂外患」ともいうべき時代背景の中で、水野忠邦は「天保の改革」ともいわれた大改革に着手するのである。
天保十年(一八三九)、老中首座になった水野忠邦は、かねて幕府の外交政策を批判していた渡辺崋山や高野長英の学者等を追放し、獄に送った。
天保十二年、幕府財政建て直しのために、「奢侈禁止令」、いわば倹約令をだし、物価の引き下げ令、富くじ禁止、編物着用の禁止、贅沢な料理の禁止などきびしい統制を行なった。
さらに農民の雪駄ばきから、村毎の髪結いの禁止、村祭りの行事から、唄、浄瑠璃、歌舞伎から落語、講談にいたる遊興から芝居小屋まで市中から一切追放となった。
七代目、市川団十郎が、江戸十里四方の追放を申しつけられ、成田村へ落ちのびてきたのも、この時であった。
しかし、この改革はあまりにも急激であり、また、その先兵となった鳥居耀蔵、渋川六蔵という役人がスパイのような行動に走り、江戸町民の不安をあおっていた。
しかも、幕府財政は、奥州伊達藩の知行に匹敵する六十万石の赤字を毎年出すというほど逼迫していた。
天保十四年(一八四三)六月、忠邦は町奉行の鳥居輝蔵らに命じて、印旛沼開墾に着手する。
忠邦が、この工事にかけたねらいの第一は、いうまでもなく開墾、干拓による新田の開発によって幕府直轄所領下石高増を図ることであった。
同時に、この工事は毎年のように氾濫する利根川の水を、印旛沼から江戸の海に落し、利根川下流周辺の洪水を防ぐこと、さらに東北方面から来る房州回りの回漕路を銚子から利根川に入れ内海に移送しようという新輸送路の建設を考えた一石三鳥の利を考えた方策であった。
しかし、この利根川の治水計画は、享保九年(一七二四)、幕府勘定所の計画により三十万両を計上して着手したが失敗、さらに天明五年(一七八五)にも同じような計画を立てて失敗という二度にわたる失敗の歴史があった。
金次郎が、この第三回目になる利根治水工事の命を受けたのは天保十四年十月十七日であった。 「利根川分水路見分目論見御用」というのである。
そして、さかのぼって十月三日、江戸の小田原藩邸で「幕府登用」の辞令が交付された。 「御普請役格二十俵二人扶持」という低い身分ではあったが、金次郎が幕臣、いわば政府直轄の役人に登用されたのである。
この頃から金次郎は、公式の場にのぞむときは尊徳という諱(いみな)を用いるようになった。 ここで著者も、以後金次郎を尊徳という呼び名で呼ぶことにする。
尊徳は十月二十一日出発し、十一月十五日帰村したが「急ぎ報告すべし」とのことで、現地で立案を行ない、十一月二日付にて復命書を提出したのである。
大事業を行なうにしては、何ともあわただしい幕府の取り組みであった。
しかも、そのやり方は尊徳の「報徳仕法」を生かすというより、報徳の「土木技術」で分水路計画を調査させようというものであった。 尊徳の失望はいうまでもない。
尊徳らの調査結果では、試掘の結果、想像以上の難工事であることを報告した。
この印旛沼から利根川周辺の土質は、今日でも関東ローム層、通称”へどろ”といって、一旦雨が降ると汁粉のような土になり、乾けばホコリとなって舞い上がるという手のつけようのない土質で、土工事では非常に嫌われる土質である。
加えて、印旛沼より東京湾へ新堀を掘ろうとすると、その新堀通路に当たる地方は、印旛沼にも面せず、利根川にも縁のない、氾濫に関係のない村々であるから、新川の掘さくを望んでいない村民たちである。 さらに、田畑の乏しい村々にとって、新川敷として潰れ地が出ることになれば、なおさら喜べないことである。
しかし、この地方を所管する代官、篠田藤四郎は、積極的に推進する立場から、強引にことを運んだ。
一方、尊徳は上司である勘定組頭、立田岩太郎の求めに応じて、独自の計画を立案した。
尊徳は、工事の難易は実行してみなければ判らないが、各村々の村民の理解がなければ、事の成就は難しく、村民の理解を得るには、新水路掘さくの水路に沿った地域に「報徳仕法」(村づくりの仕方)を講じていくことが最善の方法であると考えた。
そうすることによって治政の仁徳が行なわれば、二宮町におけるような成功をみることができると強調した。
その内容は、尊徳の仕法として、すでに定着している「無利息金貸付け雛形」を応用したものであった。
これは、まず農民にお金を貸し付け、荒れた土地を生かして田んぼを作らせ、農民が借りた金は水路工事の貸金で返還させるというものであった。 すなわち、村民に恩恵を与え、しかるのち公共工事に協力を求めていくというやり方であった。
印旛沼から検見川地先の海まで、四里、分水路に関わる村は十数ヵ村であった。 十四万両はまずこの村々の農民に五年年賦ほどで報徳金として貸し付け、翌年から年々の償還を始めさせる。 返済金の一部は工事にも使うが、多くは農民に貸し付けられていた。 お金はいきなり工事に投じるものでなく、一度農民に貸し与え、現状に甘んじている農民に田んぼができる開田の喜びを与えることから出発するようにする。 そして、年賦金を返すための手立てとして、分水路工事現場の賃工事が用意されている。 報徳金貸し付けを無利子で受けたことへの報恩を認識させることによって、工事への参加気運も高めることができる。 この計画に十四万両の金と二十年の歳月が必要であると説いたわけである。 しかし、この尊徳の仕法は、手間のかかる回り道のような仕事で、ことを急ぐ幕府役人の満足するものではなかった。 尊徳の復命書は幕閣には届かず、忠邦の目にふれることもなかったという。
工事は代官、篠田藤四郎の手で、天保十三年七月二十三日起工、毎日五万人の人夫を使用して作業が進められた。
ところが、十四年九月、老中水野忠邦の失脚によって、工事は中止された。
投入された二十五万両は、忠邦ら五候によって用立てられたというが、この資金は全く水の泡となった。
尊徳には、分水路の調査で出会った印旛沼の老婆がしきりに思い出されていた。 七年越しの水害で、家や田畑を失い、寒風にふるえる老婆に布施したときの光景がまざまざと目に浮かぶのであった。
― 以 下 略 ―
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