○ 天龍山龍腹寺
( 出典 : 「口訳 利根川図志 巻三」 赤松宗旦 著 阿部正路・浅野通有 訳 1978年6月10日 崙書房 発行 成田市立図書館 蔵 )
天龍山龍腹寺
龍腹寺村におる。 御本尊として薬師如来を安置している。 側に地蔵堂がある。 大同年間(八〇六〜八一〇)に、飛騨工匠(ひだのたくみ)が建てたという。 門の二王のうち、左は慈覚大師の作、右は丹慶(「湛」か)の作だという。 この寺は、古く龍福寺と名づけられていた。 釋名上人が雨乞いの祈願をした時、龍が死んで、その腹を墜(おと)した土地であるため、「龍腹」という名にあらためたという。 むかしは七堂伽藍があり、村の中に二十五坊を置いた。 近在や遠方にある七十五寺の本寺で、もっとも大きな寺であったといわれる。 のち、兵火のために灰燼に帰したことが『東国戦記』に記されている。 さる文政元年(一八一八)七月に、またまた火災に遭った時、銅の宝塔の棟札一版を發見した。 そこで領主の稲葉公から新しく函を下され、この棟札一版を蔵めた。 その函に次のように記されている。
下総国印旛郡龍腹寺宝塔の棟札一版は、銅で作られている。 長さ一尺八寸(約六十センチメートル)、幅八寸(約二十五センチメートル)。 表と背に字をほりつけている。 上頭および左側は破損し完全でない。 背面の細字ははっきりせず判読することができない。 嘉吉二壬戌年(一四四二)などの字はなお読むことができるが、その詳細は考拠することができない。 天和元年(一六八一)僧智祐の撰するところの『勝光寺略縁起』に、龍腹寺の旧号は、慈雲山延命寺である。 大同二年(八〇七)九月、僧空海の上奏によって、その徒、慈観に詔して七堂伽藍を下総国印旛郡に建てさせ、号を慈雲山勝光寺延命院と賜わった。 後勅願所なってから、延嘉十七年(九一七)大旱の際、勅を奉じて雨を祈ったところ、験があり、龍の不思議があった。 よって改めて号を賜わり、天龍山龍腹寺といった。 嘉吉二年(一四四二)、国司の千葉氏が、その堂宇を修し、五重塔を建てた。 永正五年(一五〇八)二月、塔が理由もなく倒れた。 時の主僧覚道は、千葉氏に勧めて北条氏を伐とうとし、みずから兵を寺に聚(あつ)め、兵を率いてこれを援けようとした。 北条氏はこれを聞き、八月に潜兵を遣わして夜襲し、攻撃してこれを焼滅した。 覚道は死に、寺の廃すること五十余年であった。 天文十九年(一五五〇)に至って、千葉氏は復び諸堂を建てて再興したが、旧に較べて千分の一にも及ばなかった、という。 後二百五十余年、文政元年(一八一八)七月に、寺僧の火の不始末から、諸堂はことごとく焼け、その灰燼の中からこの棟札を見つけ出した。 龍腹寺はわが藩に移封された後であったが、なお別村に属していた。 大森治郎奉行臣八太高之代官、臣春名復らは、古蹟の湮没するのを嘆き、主僧に喩(さ)として棟札を取って、稲葉公に進覧した。 公はその文字がはっきりせず、読むことができないのを嘆かれたが、旧物の幸いに存したことを悦ばれ、一覧の後、その函を新たに作って返還され、かつ高之に主僧に命じて大切に蔵し失うことのないようにさせるとともに、臣楙にその事を函に記させた。 臣楙が謹んで考えるのに、棟札は思うに塔の上梁文であろう。 嘉吉二壬戌年(一四四二)の歳は、今年丙由の歳を距てること三百九十五年である。 平胤直は、高見王の後裔で、千葉介常胤の八世の孫、満胤の子で、兄兼胤の嗣となって無道であり、臣屬が多く叛した。 東氏・円城寺氏・千木氏・木村氏などは、権を争い二つに分かれて兵を構えた。 康正元年(一四五四)八月十五日、土橋の阿弥陀堂で自殺した。 胤賢および円城寺氏、渡辺氏、周東氏はその同族または臣属である。(厚さ二分=約六ミリメートル)
天保七丙申年(一八三六)の歳十二月丁卯儒光臣本多楙謹んで記す
図版 棟札破片 ー 略 ー