○ 天竺山龍角寺

( 出典 :「口訳 利根川図志 巻五」 赤松宗旦 著 阿部正路・浅野通有 訳 1978年8月10日 崙書房 発行 成田市立図書館 蔵 )

 天竺山龍角寺

 龍角寺村にある。 寺の南に、洞穴や佐伽陀(さかだ)池などの名所がある。
 『諸国圭斎録』の「下総国、天台宗」に「二十石、埴生郡龍角寺」と記されてある。
 『佐倉風土記』に次のように述べてある。
 言い伝えに、和銅二年(七〇九)に竜女の化身が現われ、金像の薬師を奉じて、来たって寺を建てた。 天平二年(七三〇)、釈命上人が諸堂を再興した。 同三年(七三一)国中が旱魃となった時、釈命は勅を奉じ法を説き雨を祈った。 すると身の丈八尺ばかりの老人が進み出て曰うのに、「わたしは小竜で、常に南池に居る者ですが、深く上人の法沢に浴しております。 どうしてわが一身を惜しんだりいたしましょう。 どうか、身を以て雨に換らせて下さい。 後必ずわたしの死骸を目にするでしょうが、それがこの証です。 これは大竜に罰せられたのです」と。 たちまちに立ち去った。 雨がすぐに降り出した。 後七日、果たして竜の身体が見られたが、三つに裂かれていた。 その頭の部分は、この地に落ちた。 そこで金字で経を写し、一緒に堂下に埋めた。 寺は始め竜閣と曰ったが、ここで竜角に改めた。 その腹の部分は印西の竜腹寺に落ちた。 その尾の部分は香取郡に落ちた。 今の大寺村竜尾寺がこれである。 貞観元年(八五九)、慈覚大師がここに住み法を説いた。 天暦三年(九四九)三月八日、異僧が来たり金剛神一躯を彫り畢(おわ)って、忽ち居場所がわからなくなった。 その僧が柱の上に留め題して曰うのに、「この寺の薬師は、西天竺祇園精舎寮病院の像である。それ故わたしは薬師のために金剛神を彫った。なお人々の信じないことを恐れ、一躯で止めておく、わたしは毘首羯摩(びしゅかつま)である」と。 正暦中(九九〇〜九九五)、運慶が続いて右金剛碑を刻した。 化身が作ったのは左で、今も共に存在する。 承久二年(一二二〇)、上総介平常秀が重ねて修営した。 常秀は千葉常重の曾孫で、堺平次兵衛と称した。 正応三年(一二九〇)年十一月に巨鐘を鋳した。 文明中(一四六九〜一四八七)炎焼し、寛永三年(一六二六)改鋳した。 文明年間(一四六九〜一四八七)・永正年間(一五〇四〜一五二一)再度火災に罹(かか)り、平勝胤が修造した。 天正八年(一五八〇)また火災があり、平邦胤が重ねて造営した。 『相馬日記』に次のとおり述べる。
 松崎村というところから、幾重にも折れまがっている山を登ってゆく道は、馬も行き悩み、鞍も平行にはならず、乗ってゆくのがたいへんむずかしいい。 この道の近くにある天竺山龍角寺に龍神の社(やしろ)がある。 毎月の、一日、十五日、二十八日には「いなぼの海」の真中にある「百丈穴」という穴から「龍灯」がとびあがって、この社の御前にかかるということだ。 また、大きな洞穴が三っつあって、中には石畳が敷いてあるが、むかしは人が住んでいたろうと思われるそのところに「隠れ座頭」という妖怪が住んでいるという。 その洞穴の上に、根はひとつで幹が七つにわかれている国内第一の大きな松が覆いかぶさっているという。 更に歩きつづけて谷に下りると「千把が池」という水の多くない池がある。 すぐそばには松の木が一本立っている。 この木は、ある田舎娘が、池の浅いところに一日に千把の苗を植えようと働きつづけ、ついに疲れはてて死んでしまったのを埋めたしるしであり、「千ばが池」というのもそこから名づけられたのだという。




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