○ 雲林山瀧水寺
( 出典 : 「口訳 利根川図志」 赤松宗旦 著 阿部正路・浅野通有 訳 1978年6月10日 崙書房 発行 成田市立図書館蔵 )

雲林山瀧水寺(りゅうすいじ)

 瀧村(たきむら)にある。本尊は薬師如来、仁明天皇の御願所である。 承和年中(八三四〜八四八)の建立である。 門の仁王は、運慶の作だという。 国司・藤原朝臣の手状を蔵している。年号は不詳。 また、承応三年(一六五四)の相馬小次郎平貞胤の寄附状と、明暦四年(一六五八)の平昌胤の寄附状などがある。 また古鐘がある。建武五戌寅年(一三三八)八月八日と彫ってある。

(杉浦補註)
 瀧村は、現在は本埜村。
 江戸時代末期、佐原村の学者清宮秀堅は、その著『下総国舊事考』(弘化五年・一八四七)のなかでこの鐘の銘文について、次の様に述べている。  「建武三年二月二十九日、延元と改元されたが、北朝政権はそのまま建武の年号を用い、同五年八月二十八日に暦応と改元するまで続いた。 瀧水寺の鐘に建武五年八月八日とあるのは、この地方が北朝の支配下にあったためである。」 ( 出典 ; 「印西地方よもやま話」 五十嵐行男 著 平成五年十月三十日 (有)聚海書林 発行 )


瀧水寺木造金剛力士立像(千葉県指定文化財)

 像容からうける力強さは中世風ですが、足、腕にみられる弱さは時代的に下ると考えられます。 二体の像には、構造的な違いがありますが、同時期の作とみられます。 使用材料は、麻布を全面に張り込み、その上に本漆(サビ漆)を塗り込み、下地として彩色しているところが残っており、鎌倉期に多くみられる技法です。 製作年代は室町期と推定されています。 ( 出典 : 「ふるさと歴史散歩 本埜村の文化財」 平成16年 本埜村教育委員会発行パンフレット )

瀧水寺の梵鐘(千葉県指定文化財)

 総高99.6cm、口径58.2cm、3段組で鋳上げられており、乳は4段4列、上帯下帯とも素文、池の間一区に銘文が刻まれています。 2個の撞座は竜頭の方向と平行。 毛彫による八葉の複弁で、1個は蓮子を9個刻み雄芯を付けず、他の1個には54本の雄芯を刻み蓮子は7個。 県内にはこの種の撞座は見当たりません。 建武5年(1338)の銘文が刻まれています。 ( 出典 : 「ふるさと歴史散歩 本埜村の文化財」 平成16年 本埜村教育委員会発行パンフレット )

(杉浦補註)
 瀧水寺境内には、小林一茶(夏目漱石 揮毫)の下記の句碑(『三愚集』 第十四句)がある。

 『三愚集』では、この句には、次のような「一茶作品評釈」(矢羽勝幸)がつけられている。
 「文化八年(一茶四十九歳)作。 如意輪は如意輪観音(人びとのあらゆる願いをかなえる観音。 六観音の一)。 千葉県印旛郡を周遊中の作である。 ほととぎすの鳴き声は鋭くかん高いことで知られるが、その声でお目ざめになってぜひ私の願いをききとどけてほしい、の意。 如意輪観音と郭公のとり合わせが奇抜であるが、この頃は一茶の悩みが深い時期で、切実感が先に立っている。 『七番日記』所収。」

 なお、『一茶漂泊―房総の山河―』(井上脩之助 著 1995年7月10日 崙書房 発行)によれば、一茶は、文化3年(1806)1月26日(『文化句帖』)と文化8年(1811)4月1日(『七番日記』)の二度、布川の古田月船らとこの寺を訪れており、特に梵鐘の鐘銘(紀年銘)に深い関心を示している。


        如意輪(にょいりん) 目ざまし玉(たま) 郭公(ほととぎす)



( 以下は、「 『三愚集』 解説 」 矢羽勝幸 著 1998年5月9日 郷土出版社 発行 流山市「一茶双樹記念館」蔵 による。 )

 『三愚集』の刊行

 『三愚集』は、千葉県流山市の俳人で実業家の秋元梧樓の企画により、梧樓が選句した一茶の発句二十七句を、夏目漱石が揮毫、さらに画家小川芋銭(うせん)がこれに俳画を添え、それを大倉半兵衛が木版におこして句・画見開きに貼り込み、豪華な体裁の画帖に仕立てて、大正九年七月二十八日、東京市神田区一ツ橋通町七番地の俳画堂から出版したものである。 刊行時漱石はすでにこの世の人ではなかったが、その名声と芋銭の高い画名に支えられ、この稀有な出版は好評であったようである。 発行部数は千部が予定されていたが、刊本の奥付によると百部(非売品)の限定出版であった。
 その後昭和十一年頃、日の丸社が芋銭の俳画をすべてさしかえて、東京堂を発売元、東海堂・北隆館・大東館・精文館を大売捌元として五百部ほど再版しようとしたが、実現にいたらなかったらしい。
 右のような事情のため、『三愚集』は今日古書展にも容易に姿をみせない稀購書になっている。
 平成四年東京神田神保町一丁目の単独舎から限定百部ほど刊行されたが、これは初版の複製本である。

 三愚集 序文

 句は一茶、畫は芋銭、書は漱石 それ故に三愚集といふ 句を作りて後世に残せる一茶は氣の知れぬ男なり。 其の句を畫にする芋銭は入らざる男也 頼まれて不得己一茶の句を写せる漱石は三人のうちにて一番の大馬鹿者也。 三愚を一堂に会して得意なる秋元梧樓に至っては賢か愚か、殆んど判じかたし。

          四十五年五月               漱石




<トップページに戻る>   <資料のインデックスに戻る>