○ 成田山新勝寺
( 出典 ; 「口訳 利根川図志 巻4」 1982年10月23日 崙書房 発行 赤松宗旦 原著 阿部正路・浅野通有 訳 成田市立図書館 蔵 )

 埴生郡成田村にある。 不動明王と二童子とを祀っている。 弘法大師の御作であって、始めは山城国の高尾山神護国祚寺護摩堂の本尊であった。 だから、霊験がたいへんあらたかで、世間に広く知られている。
 むかし、朱雀天皇の天慶二年(九三九)に、相馬の将門が乱を起したとき、広沢の遍照寺の寛朝(かんちょう)僧正に命じて、調伏の法を修めさせた。 そこで、僧正はこの尊像を捧持して難波津から海に出、それから将門の新都に近いところで調伏の護摩を修めたところ、その効験利益がたちまちあらわれ、明くる年の天慶三年(九四〇)の二月に、将門はついに降伏した。 この後、僧正が尊像を奉じて京都に帰ろうとなさった時、尊像がたちまち重くなってもちあげることができなかった。 かつまた、夢に霊の告げるところがあったので、尊像を京都に持ち帰ることなく、永くこの成田の地にとどめることにした。 そこで、特別に命じて、伽藍を建て、高雄山の寺号に準じて「神護新勝寺」と申しあげることになった。 なお、このことは『縁起』にくわしい。

 『佐倉風土記』に「不動堂は成田に在る。神護新勝寺という。不動明王の坐像は長(たけ)六尺(約一・八メートル)で弘法大師の刻んだもので、もと山城国高雄護摩堂の本尊であった」という(以下の文章は、『縁起』に同じなのでこれを省略する)。

 『相馬日記』の巻三に「坂東には、不動明王の古くからの霊場が三ヶ所ある。 一つは相模国大住郡の大山寺、二つには武蔵国多摩郡の高幡(たかはた)寺、そして三つには、この新勝寺である(中略)。 以上の三霊場のうち、かくべつに参詣人の多いのは、この成田の霊場である」とある。

 『常陸軍記』の巻二十二の「義長討略、千葉勢敗軍」の個所に次のように述べている。
 これは、天正十三乙酉年(一五八五)、常陸国河内郡岡見の岡見中務信貞の臣である 栗林下総守義長が、下総国海上郡高田で、下総国佐倉の千葉新介勝胤の将、鳥居筑後 ・村田兵衛・荒海左衛門を破ったことを述べている部分である。
 三陣の大将、荒海左衛門はもっとも勇者であって「荒手」とよばれていた。 慎しみ深い人で酒に酔うということもなかった。 この戦いに出陣したが、敵はあたかも潮が湧くような勢いであった。 大将である鳥居と村田を討って、荒海の軍勢を押し込めた。 その勢いはものすごく、火や水になれといわんばかりに荒海を攻めたてたので、荒海は、自ら勇をふるって戦い、敵を多数討ちとった。 しかし、荒海が受けた深手、浅手は十三ヶ所。 今や、すっかり心身ともに疲れ果てて、岸山の谷に転げ落ちてしまった。 敵に首はとられなかったものの、ついに討死にしてしまったのであった(中略)。
 ここにおいて、荒海左衛門の軍勢はちりぢりになり、家来たちは荒海の死骸を探し求めることもできなかった。
 さて、荒海は前に述べたように岸山の谷底で死んだのであるけれども、そこに十六、七歳の童子が二人やって来て、荒海の死体をなでたところ、たいへん不思議なことに、荒海はたちまちのうちに息を吹きかえしたのであった。 生きかえった荒海は不思議に思い、二人の童子に「あなたがたは、このあたりには見馴れない大変気高い童子たちでいらっしゃるが、いったいどこからここに来られたのですか。また、どうして私を憐れんで下さるのですか。 いくら考えても不思議なことです。 どうか、御名前を名のって下さい」と話かけた。
 すると、二人の童子は言いようのないほど美しい声で答えた。
 「私たちこそ、成田不動明王の御使いである矜迦羅(こんから)童子と制多迦(せいたか)童子の二童子である。 お前が、成田不動明王を信仰することの厚(あつ)さは他の人を抜きん出ている。 いつも御参りにくるその志は立派である。 その祈願を空しいものに、どうしてできようか。 お前は戦いに出、深手を負って、既に死んだ身であるが、いかし、それは、死と定まった運命ではない。 だから急いで荒海のもとに行き、助けなさいという御仏の命を受けてここに来たのである。 お前は、このことを決して疑ってはならない」。
 こう言い終ると二人の童子は、光を放ちながら成田の方へと飛び去っていったのである。
 荒海左衛門は、しばらくは夢とも現実とも判じかねていた。 ともあれ、信心を改めて肝に銘じて、二人の童子が飛び去っていったあたりを伏し拝んだ。 すると、不思議なことに、歩くこともままならぬ身であったのに、近くの枝にすがって一歩一歩、歩いてみたところ、全身十三ヶ所のあの深い傷にも苦痛がなく、たどりたどりながら道に出ることができた。
 一方、荒海左衛門の一門である堤戸平太夫と牟礼(むれ)平四郎の二人は、荒海左衛門殿の御遺骸を、せめて犬や鳥の餌食にしてしまっては忠義がたたないと、荒海の御遺骸を探し求めた。 激しい乱戦であったので、もしかしたら谷底におちて死んでおられるかもしれないと、つたかずらを手がかりに谷底までおりていったところ荒海左衛門とめぐりあえたのだった。 ところが、荒海は、傷を負っている様子もない。 不思議に思って二人がどうしたわけなのですかと問うたところ、荒海左衛門は感涙にむせいながらことの次第を話したのであった。 二人の家来ともども、このことは非常に珍しく不思議なことだと思いながらも、かつまた無事であったことを喜んだ。 そして荒海を背中に負って荒海の館(下総国埴生郡にある)に帰ったのであった。 荒海の身体には太刀疵や鎗創のあとがありありとついているにもかかわらず、ただ凹んでいるだけで、血も流れていず、痛みも無さそうなのは、不思議というにも不思議、まことに奇異なことであった。

 『縁起』に云う。 総州生実(おゆみ)大厳寺を開いた道誉上人は生来、愚純で、学問もさっぱり進まなかった。 そのことえを歎いて、この本尊を深く信仰し、参籠し念仏を唱えつづけること百日、満願の夜に夢に不動尊がお持ちになっている鋭い剣を呑む夢を見て、目が覚めた。 覚めてから気づいてみると、真黒い血が流れて床のあたりを穢していた。 それから以後というものは、知恵が格別、人より勝(まさ)るようになり、ついには、大徳智人〔徳がすぐれて高く知恵が格別にまさっている人〕におなりになったという。
 『佐倉風土記』の「不動堂」の条に「伝に小弓大巌寺の開山道誉は、みずから資質の 愚純を患(うれ)え、祷(いの)り請うこと百日、夢に不動明王の剣を呑んだ。 血が流れて床に満ちた。 そうした後、知弁が人なみ勝れるようになった。 その袈裟は今 なお残されているが、血痕が黒々としているという」と記してある。

 『祐天大僧正御伝記』(古岩南枝著)の巻一に、次のように述べてある。
 団通和尚祐天は、髪を剃り落してから何日か過ぎ、その上、寺家にもようやく馴れ親しむようになったので、そろそろ御経を教えようと考えられた。 そして、浄土宗で初学としてまず教える『三部教』のうち、三十五字ずつを口伝えに教えたけれども、一字たりともなかなか覚えなかった。 このようにして、昼夜教えつづけて、およそ、五、六十日になったけれども、いかなる前世の業因からか、ただの一字も覚えなかった。
 中略―この部分に、この間、祐天上人は排斥(はいせき)されることがあって、入水 自殺しようといたのを、同僚の善長にいさめられで、それから増上寺の開山堂で七日間、断食ごもりをはたし、霊告を得て、それから成田におもむいたことを記してある。
 祐天は、よくよく運が悪いのであろうか、人里離れた野原で、追剥のため、路銀から袈裟、衣まではぎとられ、途方にくれたのであった。 しかし、この上、また、どんなひどい目に会おうとも、こうした大事の立願をどうして無にしてよいことがあろうか、と思いなおし、少しも怖れることなく歩みつづけて、ついに、成田山新勝寺の座主(ざす)のもとにお着きなすったのであった。
 祐天は、とり急いで、立願のことを座主にくわしく話されたところ、座主も感動し、籠堂に御案内されたことであった。 祐天はたいへん嬉しく思い「南無不動尊よ。 心からの祈念が、もし空しくないなら、どうか、私の願いをあわれと思し召して、私に知恵をお授け下さい。 三・七、二十一日の断食をし、身命をつくして祈祷し申し上げる次第です。 どうか結願の折には、もったいないことではございますが、不動尊よ、御身を現しなすって、私に知恵をお授けになり、天下の名僧にさせて下さい。 祐天の心の中を、どうかあなた様の、すばらしく明るく尊い御鏡で照らしなすって、私の願いをとげさせて下さい」と祈請されたという。 その熱心さはおそろしいほどである(この間の七日間の事は省略する)。
 祐天は、なお、心をこめて、格別の祈請を行った。 まもなく二・七、十四日の願境に入った。 旅疲れといい、また芝の増上寺の開山堂に籠っての断食、それから、ただちにまたこのような断食が十四日にも及んでいるのだから、身体もすっかり疲れ果てて、ただ生きてるだけにすぎないありさまであった。 けれども、その一心は日に日に勇み立ち、岩をもとおすその念力は、畏れ多いというのもばかられる程だった。
 こうしたところに、不思議なことにある日の夕方、七十歳ほどと思われる畏れ多い様子の姥が、祐天のもとに現われた。 姥は、「祐天よ、祐天よ」と声をかけ、「お前は、本当に疲れ果てている。 もはや心願も成就したことであろう。 不動尊がどうしてそれを納受しないことがあろうか。 二・七の十四日が満ちたなら、はやく国へお帰りなさい。 お前がここにくる途中、追剥に奪われたお金一貫文と袈裟や衣などはわれわれが取り返してきた。 だから、これを持って故郷に帰り、学問に精を出しなさい」といった。
 これを聞いた祐天は、不審に思いながら、姥に「これは、たいへんありがたい御配慮でございます。 こんなにも憐れみをかけて下さる方はどなたさまでいらっしゃますか、御名前を存じたく思います。 しかしながら、私のこのたびの立願は、命を賭けた念願で、三・七、二十一日間の完全な断食をやりとげなければならないのです。 もし、それまでに飢え死にするようなことがあれば、それはそれで本望なのです。 どうか、決していたわってなど下さいますな」と申し上げ、祐天は故郷へ帰る様子もみせないので、山姥は、山麓へと帰っていったのであった。
 しばらくたってから、また現われたのは御寺の僧で、「祐天よ、祐天よ」と声をかけた。 そして言うには「お前は本当に身体が疲れ果てている。 もはや立願も成就したし、天下の名僧となること疑いない。 三・七、二十一日もお籠りする必要はない。 これからすぐに故郷に帰って、学問に精を出したならば、世にまたとない知識の豊かな僧となるに違いない。 早く早くお帰りなさい」と。 これを聞いた祐天は、振り返って「僧のお言葉はたいへん愚かなことでございます。 今の御教えは、いかにも情け深いようであるけれども、このたびの私の立願は、命を惜しんだり、身体をかばうような愚かな願かけではないのです。 真実思いつめたものなので、必ず三・七、二十一日間を籠って、真の不動様の御尊体を拝し、知恵を授るまで決して故郷へ帰るようなことはいたしません。 どうか捨て置いて下さい。 このまま餓死しても本望なのです」と血眼(ちまなこ)になって言うと、不思議なことに、今まで晴れていた空がにわかに震動し、雷がとどろきわたって岩を砕き、石を飛ばし、御堂のゆれ動くさまはただごとではなかった。 祐天は、しかし、少しも怖れず、一心不乱に不動尊を念じた。 真の不動尊を拝さなければ、たとえ、この身が微塵に砕けようともかまわない、思い定めた魂だけがここにとどまればそれでよいのだと、激しい怒りで目も裂けるばかりに見開き、口には不動尊の御名を唱えつづけて、少しも動ずる様子はなかった。 するとさらに不思議なことには、御寺の僧とばかり思っていた人物が、にわかに背丈一丈(三メートル)ばかりの不動尊になったことであった。 その御身体からは炎を出し、座右の御手に、長短二つの鋭い剣をささげて、祐天に言った。
 「すばらしいことだ、本当にすばらしいとだ。 私は、成田不動尊である。 お前が、心をこめての只一筋の念力は、他に比類のないことがわかった。 だから、今、ここに本当の姿を現した次第だ。 お前の前世の罪悪の深いことは、二度、三度と生き、死に変っても尽きないほどだ。 だから、今の世にあって、知恵のない人間となっていたのである。 今から知恵を授かりたいと思うならば、この長短二つの剣のうち、一方を呑みこんで内臓の悪い血を吐き出し、新しい血を生じせしめて、新しく生まれ変った上で知恵を受けるがよい。 この二振(ふたふり)の剣のうち、長い方を呑むか、それとも短い方を呑むか」と仰せられた。 祐天が慎んで、「短い方を呑んでも身体が切り裂かれることであろうし、長い方を呑んでもやはり身体が切り裂かれることでしょう。 何を呑んでも身体を切り裂かれることは同じです。 ですから、私は長い方の剣を呑みましょう」と申しあげ、祐天が大きく口を開いて待っていると、不動尊は、かたじけなくも「咒(じゅ)」を唱えながら、右の御手に持っていた長い方の剣を、情(なさけ)容赦なく祐天の口に刺しこまれたので、祐天は「ワッ」と叫んでうつ伏せになり、そのまま息絶えてしまった。
 こうして、夜もほのぼのと明けた。 一方、新勝寺の座主は、祐天の事を、今頃はさぞや身体も疲れ果てているだろうと思い、二・七の十四日も満ちてしまえば、飢え疲れて、もしかしたら死ぬかも知れない。 祐天を訪ねて、ことの次第を確かめようと籠堂に来て、祐天の姿を見たところ、祐天から出た血は祐天の身体をひたし、祐天はうつ伏せになって息が絶えていた。 座主はいったんは、びっくり仰天したが、つくづくと祐天の様子を御覧になって、これはただごとではないと思った。 この籠堂には他人が入れるわけはないし、きっと不動様のなさったことに違いない。 そう考えた座主は、大勢の僧を集め、早速、護摩を焚いて〔真言宗の秘法の一つ。ぬるでの木などを燃やし、その火の力によって一切の悪業を焼き滅ぼそうとする秘法〕、不動尊を念じながら「祐天小僧の一念の誠心は、二・七の十四日間にわたった。 願わくは、祐天を生き返らせ、このことの次第の真実を明らかになさって下さい」と何度も何度も祈り続けた。  すると、祐天は「ほッ」と息をつき、むッくと起き上った。 そして、座主ににむかって「今まで聞いたこともない名僧だ」と感動しつづけるのであった。
 座主は、まず、御利益の実際を見ようではないかと仰言って、般若経を一度読んで聞かせなさると、祐天は、これを充分に聞きとって、あたかも、前から知っていたかのように一字一点の誤りもなく、ことごとく暗誦してみせた。 まことに不思議なことであった。

 この『祐天大僧正御伝記』にはたいへん誤りがあったが、今、おおよそ正しく訂正して引用したのである。 さて、同じ本の巻四に、祐天上人が土浦の浄福寺で説法があっての帰路、法華宗徒らが危害を加えようとしたところ、不動尊が雷雨を起して、それを防いだことが記されているが、今、ここでは省略する。 祐天上人のことは『祐天大僧正伝』と『三縁山志』にくわしい。 世間に、一相無切有居士の『祐天上人一代記』と称する六巻本のあるのはなぐさみの書物にすぎない。 また「累女解脱」のことは『新著聞集』の巻五と『近世奇跡考』の巻二、それに『相馬日記』の巻二に記されている。 『死霊解脱物語』という二巻は、嘘の記述が多い。

 『相馬日記』の巻三に、次のごとく述べている(成田不動尊に参詣した文章の末に)。
 暮れはててから成田不動尊の前の町屋に宿をとったところ、隣の部屋に集まった男や女たちが騒がしく話しあったり、ふざけあったりしていたので安眠できなかった。 夜更けて馬を追っていく、その馬の鈴の音が耳近くに聞え、馬子たちの、今は丑のくびの時刻だ(午前一時ごろ)などと言いながら通りすぎていくのを聞いても、夜はひどく更けたのであろうと思われる。


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