○ 印旛沼の水害と住民の対応

( 出典 : 「千葉県の歴史 通史 近現代1」 (財)千葉県史料研究財団 編集 平成十四年三月二十五日 千葉県 発行 成田市立図書館蔵 )


水害と北海道移住

 一八七七(明治十)年に、印旛沼小林新田(こばやししんでん)(本埜(もとの)村)の細井重右衛門が千葉県から印旛(いんば)沼と手賀(てが)沼の沿岸村々の水害調査を命じられた。 細井の調査によれば、一八六七(慶應三)〜七七年の一一か年間における印旛沼沿岸一一〇か村、一六七三町歩(一六七三ヘクタール)の状況は、一八六七年と七七年は水稲五俵半(三三〇キロ)の平年通りの収穫であったものの、残りの九か年間は水害で水腐れとなってしまい、水稲はほとんど収穫できなかったと記録されている。 
 明治前半期をつうじて大きな被害をもたらしたのは九〇年八月の水害であった。 この水害につては、内郷(うちごう)村萩山(はぎやま)新田(佐倉(さくら)市)の岩井勝太郎が各町村役場を訪れて調査している。 それによれば、印旛沼沿岸二〇町村の浸水戸数は五五二戸で、地域全体ではそれほどの被害ではなかった。 それは、印旛沼沿岸の家屋と集落が、台地上および山腹にあったからである。 しかし二〇町村のうち、下沼筋の村々に被害が集中し、なかでも埜原(やわら)村(本埜村)は浸水戸数二八三戸で、最大の被害地であった。 これに対して、上沼筋の一町三村では、浸水被害は二八戸にすぎなかった。 ほかに、鹿島川下流域の佐倉町が七五戸の浸水被害を受けた。 
 埜原村は、家屋の浸水以外に水田二二七町歩・畑地二一三町歩余が浸水被害を受けた。 このように、印旛沼の水害は、家屋被害以上に湖岸干拓や低地での造成・拡大をはかった水田の被害が甚大であり、沿岸地域の水田の約三分の一にあたる一八七六町歩が冠水した。 印旛沼沿岸村々の惨状がいかに大きかったかは、この水害を契機に埜原村民二一戸、四〇余名が北海道へ移住したことが物語っていた。
 北海道への移住を企図したのは埜原村の吉植(よしうえ)庄一郎である。 まだ二七歳の吉植は一八九二年九月に単身北海道に渡航し、石狩(いしかり)の雨竜(うりゅう)原野六〇〇町歩の貸しさげを受け、十一月の帰郷後に移住の準備に取りかかった。 そして、水害のため貧困に苦しむ埜原村民に対して移住希望者をつのり、また、印旛郡内有志から移住費を借りいれて移住を開始した。 吉植とともに移住した村民は、九三年五月、郷里にちなんで名づけた雨竜(うりゅう)村和(やわら)(北竜(ほくりゅう)町)のおよそ九〇万坪(三〇〇ヘクタール)の開墾に着手することとなった。 しかし、生活は粗末な小屋をつくって同居する状態であり、不幸にも開墾着手の早々に火災にあって、一九戸の農器具・衣類・食糧などを焼失してしまった。
 失望落胆した七戸ほどの移住者は帰郷したが、それでも、移住者の多くは印旛沼の水害よりも北海道での開墾を希望した。 九四年、開墾地に栽培した農作物が豊かにみのり、九七年には合資組織培本社を設立した。 そして、一九〇〇年に北海道庁の竣功(しゅんこう)検査を受けて各戸に五町歩の土地が付与され、北海道定着の道が開けていった。


印旛沼の水害とその構造

 一八九〇(明治二十三)年八月の水害を上まわったのは、九六年の七月と九月上旬の二度にわたる洪水によるもので、被害の中心は布鎌(ふかま)村(栄(さかえ)町)と埜原(やわら)村(本埜村)であった。
 七月二十二日の午前九時ごろから枝利根(えだとね)川(将監(しょうげん)川)の増水によって、改築したばかりの布鎌村押付(おしつけ)の圦樋(いりひ)(水門)から濁水がもれ出し、堤防の大半が崩壊して、一〇メートル近い落差をもった奔流が村を直撃した。 布鎌村の輪中(わじゅう)堤は五〇年間にわたって村を守ってきたものであり、この破壊は村民に五〇年ぶりの大災害をもたらし、その被害は浸水戸数三九三戸、被害面積は六七八町歩(六七八ヘクタール)にもおよんだ。 翌九七年一月の利根治水協会の会報に掲載された「千葉県水害概況」によれば、村民が大いにあわてふためく惨状は見るに忍びず、老幼男女を問わずとっさの避難に迷い、大樹の上で悲鳴をあげる者、あるいは屋上で号泣しつつ流される者が数多くあったという。 しかも、数日間絶食のままで、声は涸(か)れ、精は尽き、ほとんど餓死寸前の状態となり、幸いにして救護船に救われても帰る家はなく、食べる物もなかった。 埜原村でも、七月二十二日に長門川の出水によって和田沼圦樋からもれ出し、二十三日に大崩壊となった。 布鎌村のように家屋の浸水や流失はなかったものの、被害面積は五一四町歩におよび、被害額は八万円余にのぼった。
 七月に続き、稲の刈りいれ直前の九月五日から降りはじめた雨は七日に激しくなり、八〜九日に利根川と印旛(いんば)沼地域で洪水が発生した。 枝利根川右岸の埜原村地先では、再び長門川和田沼圦樋が決壊し、さらに枝利根南岸の付け根になる木下(きおろし)町竹袋(たけふくろ)(印西(いんざい)市)の堤防が決壊したため、埜原村は東西から攻めたてられて一〇〇〇町歩近い耕地が冠水し、湛水は一か月にもおよんだ。
 この九月の水害の状況は、印旛沼での水害の特徴をはっきりと示していた。 七月の出水時に破堤した枝利根川左岸の布鎌村押付圦樋では、その経験をふまえて、一・八メートルほどにすぎなかった仮堤を出水のピークをむかえる十一日までに五メートルを超える大堤に築きあげ、そのおかげで七月のような被害からのがれられた。 しかし、その一方で、逃げ場を失った奔流が長門川の和田沼圦樋を決壊し、竹袋の破堤となった。 また、埜原村の湛水が一か月間にわたったのも印旛沼水害の特徴であり、利根川の濁水・洪水が印旛沼に落ちこみ、印旛沼が貯水池の作用をしたためだる。 つまり、利根川が出水すると安食(あじき)(栄町)の水位が吉高(よしたか)(印旛村)の水位以上となり、利根川の水が長門川を逆流して利根川に落ちこみ、最終的に利根川の水位と印旛沼の水位が等しくなるという構造である。 そして、利根川が減水すると安食の水位が吉高の水位より低くなり、印旛沼にたくわえられた水が徐々に長門川を流れて排出された。 しかし、利根川の水位は高い状態が続くため印旛沼の排水は困難となり、滞水はどうしても長期間になった。
 印旛沼の水害はこうした構造をもっていたが、どこで破堤がおこっても、奔流をうけるのは下沼・中央水路・上沼地区の沿岸の村々であった。 したがって、印旛沼の全体としての水防に大きな関心をもち、それを推進してきたのは、それらの地区の人々である。


埜原村の水防対策

 印旛(いんば)沼沿岸で、水防が最も整備されていた村のひとつは、水害の激しかった埜原(やわら)村(本埜(もとの)村)である。 埜原村の低湿地が開拓され、新田耕地となったのは十七世紀後半であり、当初は村々がそれぞれの地先で堤を防護していた。 しかし、より広域的に有効な水防を行うため、その堤の外側に将監(しょうげん)川の右岸堤と長門川の左岸堤で囲むように第一線堤をもっていた。 明治初年になってもその実態はほとんど変化なく、水防の労役も旧来のしきたりのままであった。
 明治初年からうち続く水害をつうじて、村民は水防に関する組織の必要性を痛感し、ことに一八九〇(明治二十三)年と九六年の大水害を契機に、九七年十一月、水害予防をもふくんだ埜原普通水利組合を水利組合条例にもとづいて設立した。 水防の具体的な進め方については水防規程が設けられたが、それによると、埜原村の水防組織は水防本部のもとに将監川筋の第一区、長門川筋の第二区が設けられ、第一区はふたつの支部、第二区は四つの支部に分けられていた。 また、各要所に高張提灯(たかばりちょうちん)・シャベル・鍬(くわ)・手斧(ちょうな)・盛土・空俵・縄・竹などが常置されたが、これらは手作業で行う水防用の備品であり、近世以来の伝統的なものであった。
 近世から明治にかけて、水防とは河川水位の上昇と土俵積みあげの競争であり、印旛沼沿岸では「かさ置き」と称していた。 以前は、上流部に遊水地が多かったので水位の上昇はゆるやかで、土俵積みも効果を発揮した。 しかし、徐々に遊水地がつぶされ、高い堤防が築かれるとともに水位も高くなり、土俵積みは追いつかなくなっていった。 一八九六年の水害は、近世以来の土俵積みによる水防の限界をあらわにするものとなった。
 ところで、こうした水防は、外から来る水を防御することを目的としていた。 したがって、利根川の水位が高まり、印旛沼への逆流が始まると堤防に敷設してある圦樋(いりひ)の門扉を閉鎖するしかなく、降った雨水および高地から流れくる川水は耕地に氾濫(はんらん)し、内水被害を発生させた。 そこで、埜原村の有志が相談して、一九〇八年十一月に二〇〇馬力と八〇馬力の排水機二機の敷設を計画し、工事竣工(しゅんこう)後の一〇年七月から湛水(たんすい)排除の事業を開始した。
 このように一八九六年の水害は、印旛沼沿岸の多くの村々の間に水防への関心をよびおこした。 そして、利根川との間が開放されているかぎり、破堤の有無に関係なく印旛沼の水位は高まるので、印旛沼開削と同時に安食閘門<(あじきこうもん)の設置を求める治水的な要請も強くなっていった。 こうして、印旛沼の治水と水防とに関して一体感が強められ、一九二四(大正十三)年の印旛沼水害予防組合の設立へとつながっていった。




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